最終更新:2011年2月1日


日本台湾学会台北定例研究会
第25-28回

第28回
日時
場所
報告者
コメンテーター
テーマ
使用言語
参加費

第27回
日時 2005年2月26日(土)18:00-20:00
場所 国立台北師範学院 行政大楼506室(社会科教育系討論室)
報告者 岩月 純一 氏(一橋大学大学院言語社会研究科)
コメンテーター 黄 美娥 氏(国立政治大学中文系)
テーマ 「再探『近代漢文教育概念』」
使用言語 日本語または北京語
参加費 無料
参加体験記
 2005年2月26日18時より、参加者16名を集め、台北師範学院において第27回台北定例研究会が開かれた。今回は一橋大学言語社会研究科(中央研究院近代史研究所訪問学人)の岩月純一氏が「再探『近代漢文教育概念』」と題して報告をおこない、国立政治大学中文系の黄美娥氏がコメンテーターを務めた。
 まず岩月氏の報告の概要は以下の通りである。
 岩月氏がみずから提起する「近代漢文教育」という概念は、「前近代漢文(文語文)教育」が「近代公共教育」へと姿を変えたものであると定義される。この変化の過程は、教育空間の国家化、教育方式の体系化、教育内容の実用化・分化をもたらすものであり、また、教養を社会地位上昇のための道具から国民統合の道具へと転化させ、教育対象の普遍化をともなう複雑な一連の過程であった。近代漢文教育に移行した時期、漢文は儒家の道徳、教養としての機能を持ち続けたものの、東アジア各国が国語を創出していく過程において漢文の正統性、尊厳は事実上失われていき、国語概念が確立する際に不可欠な他者にすらなった。漢文は文化の基底をなす主体から、国語を補助する附属的な客体へと姿を変えたのである。
 漢文教育の近代化の過程においては、植民地宗主国、植民地社会を問わず、大なり小なり漢文科廃止や白話文運動など漢文教育をめぐる論争が展開された。近代漢文教育は政治的闘争の場として、近代民族主義の形成、植民地における文化争奪、植民地社会の教育近代化の経験、ひいては戦争期の強制的な文化統合などの歴史過程にかかわらないではいられないのであり、このことは東アジア社会における漢文の重要性をきわだたせている。
 日本においては、江戸時代の階級的な教育は明治維新後の近代公共教育に姿を変え、さらに1900年の改正小学校令における国語科の設置により、漢文に代わって国語が文章言語としての正統性を獲得する過程は完成を迎えた。ベトナムでもフランス植民地下において、チュノムと漢文がフランス語やローマ字表記のフランス語に地位をあけわたすという同様の過程を経ている。漢文(反植民地)とフランス語(公用文)の間での言語選択、そしてベトナム人宣教師によるローマ字表記のベトナム語がフランス語や漢文を押しのけ唯一の国家語へと発展する過程は、政治的立場の対立状況を反映するものでもあった。
 植民地統治下における近代漢文教育の考察からは、統治技術における文化の問題を見出すことができる。たとえば、日本統治時代の台湾では、漢文を排除してしまうのではなく漢文を国語の一部分として取りこんでしまうという方法が採用された。植民地住民子弟を学校に吸収し日本式漢文を教授することによって、それは強烈な抗日のエネルギーをはらんだ前近代の漢文教育にとってかわったのである。朝鮮の場合とことなるのは、植民地台湾の場合には、漢文が漢民族の文化象徴であったのに対して国語(日本語)が外来の言語であったことである。つまり、漢文は「みずからの言語の対立物」ではなく「みずからのアイデンティティの根拠」としても機能した。そのため、漢文は意識形態の面から見て、①日本語に対抗するもための「中国」のシンボルとなり、また②中国・台湾白話文による排除の標的ともなり、さらには③訓読を経ることによって日本語の一部分にもなるという複雑性を備えることになった。
 植民地期の台湾の漢文の教科書は、中国の古典のみならず、日常生活、時事問題に題材をとった教材が混在する、国語教科書の翻訳とでも言うべきものになっているが、これは植民地台湾における近代漢文教育の独自の発展と考えることができ、朝鮮やベトナムの場合とはことなった枠組みをもちいて理解する必要がある。
 以上の報告に対して黄氏からは次のようなコメントがあった。
 まず、前近代漢文教育と近代漢文教育は必然的に断裂したものになるのだろうか。台湾について言えば、台湾人がみずから国民性を育むための、あるいは西洋化、同化に抵抗するための手段として漢文をとらえることができるかもしれないし、また書房が減少する一方で漢文の夜学や詩文社が増加したという現象を指摘することもできる。それに漢文は、日本人の間でも感情の叙述やコミュニケーションのための道具としてもちいられおり、概念規定上、非常にあいまいな存在にならざるを得ない。
 また岩月氏の研究は状況のことなるさまざまな地域を対象とするものであり、研究視野も広範にわたっているが、問題意識の主軸はどこに置かれているのか。国語と民族国家のしくみの関係、植民地の国語政策と被統治者の言語との間の対抗関係、被統治者の側の言語民族主義の発展、国語の歴史的状況と漢文の役割、帝国/国家の位置、階級的差異、言語の社会へのアピール度、被統治者/統治者の反応など、さまざまな問題にかかわってくる研究であるが、それら一つ一つが個別にくわしく論じられるべき課題ではないのだろうか。
 以上を受けての議論では、その文化的意味・歴史的変化の様相がことなる漢字、漢文、漢詩をいかにして区分するのかという問題、さまざまな文脈で語られうる漢文の位置、伝統的な漢文による近代の受容の可能性など、多くの問題が提起され活発な議論がおこなわれた。
 ベトナム、朝鮮、台湾の植民地期教科書などを収集し仔細な分析を試みた岩月氏の研究の視界、熱意には大いに感服させられた。ただ、東アジア世界をまたぐ広範な研究であるがゆえに、いかにして研究の深度を深めていくのかという点、また上述のコメントや討論でも論じられたように、前近代と近代をどう区分するのか、漢文教育という文脈においてどのような問題意識、研究目的に基づきいかなる対象を選択するのか、どのような研究方法を採用するのか、といった研究上の概念規定に関わる問題については、今後の岩月氏の研究の進展に大いに期待したいと感じた。(張安琪記/冨田哲訳)

第26回
日時 2004年12月4日(土)18:00-20:00
場所 国立台北師範学院 行政大楼506室(社会科教育系討論室)
パネラー 呂 紹理 氏(政治大学歴史系)
司会 王 正華 氏(中央研究院近代史研究所)
テーマ 「博覧会と殖民地統治」
使用言語 北京語
参加費 無料
参加体験記
 南国台湾でも観測史上初めてという12月の台風が通過した12月4日の夜、国立台北師範学院において第26回定例研究会が行われた。今回の報告者は政治大学歴史学系の呂紹理氏。タイトルは「博覧会と植民地統治」で、17名が参加した。
 報告は六つのパートに分れていた。以下、順を追って要約する。
①「問題の視角」
 欧米諸国における博覧会の基本的姿勢の説明等を交えながら、博覧会における展示の権力関係と、その目的および効果について説明がなされた。その中で呂氏は、植民地に関する展示のプロセスを、監看(surveillance)、審視(investigation)といった展示者による観察を経て選択(篩選:sifting)が行われ、その選択の結果を再現(representing)するものであると指摘した。
②「1903年大阪第五回内国勧業博覧会」
 同博覧会での「台湾館」についての紹介があり、この博覧会の特色、総督府の参加目的、台湾館の建築や展示内容の説明があった。建造物が台湾から移築されてきたものであること、具体的な展示品として農産品や原住民に関するものがあったことなどが説明された(もっとも、1907年に東京で行われた東京勧業博覧会では台湾館が中国北方風の建築となり、呂氏はこれを日本人の台湾に対するイメージが具体化されたものであると指摘した)。台湾の士紳階級もこの大阪での博覧会に招かれ、台湾における教育や経済の発展を強く意識したが、一方でこの展示活動によっても日本内地の人々の台湾に対するイメージにはあまり変化が見られなかったという。
③「展示活動の継承、複製と変化」
 大阪での博覧会以降、各種イベントでの台湾館にはしばしば「台湾喫茶店」というブースが設けられ、台湾のウーロン茶の販売などが行われたが、これがきわめて好評であったこと、そして台湾館が通常はアミューズメントエリアに配置されたことなどが紹介された。そしてその展示品も米や砂糖など台湾の物産が中心であり、そこには博覧会をきっかけに台湾の物産を日本内地に売り込もうという意識が強く見られたという。また、当時の日本国内で行われた博覧会では、そのほとんどの建築がルネッサンス様式かバロック様式であったのに対し、台湾館だけが華美な装飾の中国式建築だったため、台湾館の建築が他の西洋的建築に比して大変目立っており、そのために観衆にも強く印象づけられることになったと指摘した。
④『「台湾館」の展示から「台湾」の展示へ』
 台湾において開催された博覧会として1908年の汽車博覧会、1916年の台湾勧業共進会などが紹介された。その中で呂氏は汽車博覧会が博覧会と呼べる性質のものでなかったこと、台湾において本格的な博覧会がなかなか実施されなかったことの原因として「蕃害」の要素があったことを指摘した。台湾勧業共進会開催の目的としては、台湾に内地資本を引き込むこと、南進政策の影響などが挙げられた。また台湾で行われた博覧会では士紳層が「廟会」(廟における祭礼)の様子を紹介することも盛んに行われていたという。
⑤「展示活動の社会的拡張」
 博覧会に出品された物品は、その後常設施設に展示されることもあった。その具体例として呂氏は「総督府博物館」と台湾各地に建設された「商品陳列館」を紹介し、とくに後者設置の目的は台湾各地の商品を日本内地に売り込むことにあったという。また商品陳列のためのショーケースの使用や、1919年以降の商品広告の増加にも言及した。
 以上を受けて呂氏は、博覧会の効果として、茶に代表される台湾の物産の輸出先の開拓、内地資本の台湾への導入などをあげた。また、一般的には博覧会の大きな要素の一つである文化と芸術に関する展示が台湾での博覧会にはなかったことも指摘した。さらに、「博覧会での文化覇権」という考え方を示し、大阪での博覧会で行われた原住民に関する展示(首刈の様子を展示)が、「開化」と「未開」を強調するものであったと論じた。
 参加者からは、博覧会における各ブースの配置、博覧会で使用される施設の「臨時性」と「永久性」の問題、また台湾で行われた博覧会に観光という概念がどのように反映されていたのかといった質問が出された。呂氏は博覧会施設の質問に対する回答で、日本と欧米における博覧会施設のその後の処理法の違いとして、日本ではほとんどの建築が終了後取り壊されるのに対し、欧米ではいくつかの建物はその後も引き続き使用されたと述べた。
 台湾史の領域において博覧会というテーマ自体新しいものであり、呂氏の報告をとても興味深く拝聴させていただいた。まず、呂氏が提起した博覧会における「文化覇権」という考え方からは、台湾に限らず、植民地研究において統治者の視点が重要なファクターになることを強く感じた。また、近年、植民地支配と「近代化」の問題が盛んに議論されているが、博覧会はその「近代化」に、「民衆(下からの視点)」という要素がからみあう大変興味深いテーマであると考える。なぜなら博覧会というイベントが「近代化」の具体化であって、その対象は不特定多数の人々であり、その中でもいわゆる一般大衆と呼ばれるような人々が多くいるはずだからである。博覧会の問題を考察する際には、こうした下からの視点が重要であり、目下の台湾史研究において、このような視点を持つ研究は比較的少ないのではないだろうか。呂氏自身も指摘していたように、このテーマはさまざまな角度からの分析が可能なものであり、今後、個々の研究領域にとらわれない、より学際的な視点から研究を深化させていく必要があるだろう。(坂井洋記)

第25回
日時 2004年9月3日(金) 18:00-20:00
場所 国立台北師範学院 行政大楼506室(社会科教育系討論室)
報告者 松金 公正 氏(宇都宮大学国際学部)
コメンテーター 黄 自進 氏(中央研究院近代史研究所)
テーマ 「日台学術交流における『留学』と『研究』-大学間国際学術交流協定と日台交流センターの研究支援事業」
使用言語 報告は日本語、コメントは北京語
参加費 無料
参加体験記
 9月に入ったものの気温はまだ30度以上という「初秋」の匂いのなか、9月3日に第25回台北定例研究会が31人の参加を得て国立台北師範学院で開催された。
 まず、松金公正氏(宇都宮大学国際学部)から「日台学術交流における「留学」と「研究」-大学間国際学術交流協定と日台交流センターの研究支援事業」と題する報告が行われ、続いて黄自進氏(中央研究院近代史研究所)からのコメントがあった。
 松金氏の報告では、まず「留学」の側面から、アジアとの「共生」・「協働」という概念が日本の留学政策を構想するうえで重要であること、台湾における日本人留学生及び各国留学生の受け入れ、台湾留学のための奨学金制度、大学の国際化と交流協定、交換留学などの学術交流に対する支援の可能性などについて所論が述べられた。そしてもうひとつの「研究」からみた学術交流については、財団法人交流協会日台交流センターの設置、歴史研究者交流事業、データベースの公開などの状況が説明された。また日台双方の「歴史」を通じた相互交流が蓄積された今、台湾を語れる日本人と日本を語ることができる台湾人若手研究者の育成や歴史研究者交流事業を超えた新たな研究支援策の必要性、日本による台湾への研究支援策を今後続けるにあたっての課題なども提示された。
 続いて黄自進氏は、2004年度から台湾の教育部(日本の文部科学省に相当)が「台湾奨学金」の内容を拡大し、外国人留学生を広く招こうとする意図が明らかになっていると説明した。留学・学術交流に関しては、特に台湾における留日人材の減少傾向が懸念されるとし、一例として、中央研究院の全研究員約 800人のうち留米が500人以上を数える一方、留学先としては第二位の英国は30人前後にとどまり、留日も20数人を数えるのみとなっていることをあげた。こうした現象を台湾の政府はどのように考えるのか、また状況の改善のためにはどのような政策が必要なのか、また同時に、財団法人交流協会日台交流センターに対しては、「研究的」学術交流の枠組みを日台間でどのように機能させていくべきなのかといった問いが示された。
 これに続く討論においては、台湾の学術国際化に対するいくつかのアプローチが提案され、主に日台双方の留学、研究機構、支援団体等のさまざまな角度から学術交流の発展の可能性が議論された。
 なお席上、松金氏より『台湾における日本研究』(財団法人交流協会、2003年3月発行)が希望者に頒布された。同書において著者の川島真氏(北海道大学法学研究科教授)は、台湾での日本研究に関する著作・論文・書誌等の情報を収集し、さらに解説を加えて文献目録の形で整理している。この調査報告では、台湾における日本研究の動向や問題点および将来の課題など、幾つかの重要かつ有益な視点が提示されている。
 全体の議論を通して個人的にとくに興味深かったのは、留日人材または「知日的」人材の必要性に関わる部分であった。留日人材または知日人材の質と数を確保するために、日台間の学術交流事業をより緊密なものにし、双方が連携して台湾の学術水準をより一層高めていかなければならない。「台湾学」の研究は、台湾自身や1998年に日本台湾学会が設立された日本をはじめとして、世界各地でもさかんになっている。日本台湾学会の規約にもあるように、学際的な(interdisciplinary)地域研究(area studies)としての台湾研究(Taiwan studies)を志向する研究者が相互交流と協力を図り,研究資源の有効利用を進めることを通じて、台湾研究の充実・発展に努めていく必要がある。台湾と日本(あるいはそれ以外の土地)を股にかける留日人材または知日人材が今後果たすべき役割もまた大きいと言えるだろう。
 一方で、台湾における日本学・日本研究に関する研究団体あるいは研究センターということで言えば、台湾大学に付属する日本研究センターや民間の台湾日本綜合研究所等、多くの組織は設立されているものの、たとえば日本台湾学会に相当するような、学術研究を目的とする「台湾日本学会」とでもいった団体は、現在に至るまで日の目を見ていない。
 今回の定例会の報告・討論から私自身触発されるところも多く、さまざまに思考をめぐらすことができた。松金氏と黄氏および参加された方々に感謝したい。(徐年生記)

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