最終更新:2011年2月1日


日本台湾学会台北定例研究会
第29-32回

第32回
日時 2005年10月1日(土) 15:00-17:00
場所 国立台北教育大学(旧国立台北師範学院)
行政大楼506室(社会科教育系討論室)
報告者 藤井 健志 氏(東京学芸大学、中央研究院民族学研究所訪問学人)
コメンテーター 黄 智慧 氏(中央研究院民族学研究所)
テーマ 「現代台湾の日本宗教」
使用言語 日本語
参加体験記
 10月1日に国立台北教育大学で開催された日本台湾学会第32回例会では、藤井健志氏(東京学芸大学教授、中央研究院民族学研究所訪問学人)が「現代台湾の日本宗教」と題して報告を行い、黄智慧氏(中央研究院民族学研究所)がコメンテーターをつとめた。
  報告ではまず日本宗教の海外での活動概要、現代(戦後から現在までの約60年間)台湾の日本宗教に関する先行研究の紹介及び研究の必要性を述べたあと、 「既成宗教」と「新宗教」の違いとして(1)「既成宗教」では個人の救済よりも社会的儀礼の実施に重点が置かれていたのに対し、「新宗教」では一般に現世 利益をもたらす広い意味での呪術的儀礼と人生に新たな意味を付与する教義を持つ(2)海外へ進出する場合、「既成宗教」は日本人・日系人社会と密接な関係 を持って社会的儀礼を遂行してきた場合が多いが、「新宗教」は文化、民族、国籍にかからわない個人救済を標榜していることの二点をあげた。また、日本の 「新宗教」の教義は日常生活をどのような心構えで生きるべきかといった倫理的形式で表明されることが多いが、海外で成功する「新宗教」の救済方法として (1)単純明快な呪術的実践(2)実際的な生活倫理(3)論理的言説(4)宗教の多元性への積極的対処の四点を紹介し、異文化コミュニケーションの困難が あまり伴わない呪術的行為の役割、台湾の宗教と日本宗教の救済方法の違いといった観点からの検討の必要性を述べた。
 そして、先行研究での分類法としてまず、日本の「新宗教」の組織形態をタテ関係を重視した「おやこ型」とヨコ関係を重視した「中央集権型」に分類する見 方を紹介し、日本での活動と台湾での活動方式の違いを認めながらもこの二分類を本研究でも採用するとした。さらに、海外でどのようにホスト社会の信者(台 湾人)が組み込まれていったかを見るために、布教の様態によって「教師中心参詣型宗教」と「信者中心万人布教型宗教」に分類できることを説明した。一般的 に「おやこ型」の組織形態を持っている教団の布教の主体は個人であるが、より分かりやすくするために、a日本から台湾への普及の様態と、b台湾内部での普 及様態とを分け、aでは普及成果と密接に結びついている布教の主体(信者個人か、教団か)について、bでは台湾の伝統宗教では一般的ではないが日本の「新 宗教」では一般的である「万人布教者主義」が台湾で活動する各教団でどのように実践されているのかといった観点を軸に考察していくことを説明した。また、 海外で普及している日本宗教は基本的には普遍主義の立場に立っているはずであるが、台湾社会・文化へ適応させるためにどの程度変容させているのか、こうし た課題についての日本語世代の役割、救済方法・組織形態・布教形態の可変性、経済的支援についても検討しながら、現在台湾で活動していると思われる日本宗 教団体について活動状況を紹介した。
 その結果、台湾では教団の明確な布教意志から始められた布教が少なく、普遍主義が布教に直結していないところが多い、「万人布教者主義」が台湾ではうま く機能しておらず、「参詣型」への移行がおこりやすいのではないか、そして多くの教団では日本での活動と大きな差異がない、また多くの教団がすでに戒厳令 下で活動を始めていたため、その後の戒厳令解除よりも日台間の経済的・人的交流が布教に大きく影響している等をあげ、布教組織の整備、熱心な布教者の存在 等が台湾における活動の成否に大きく影響しているのではないかと結んだ。また、今後の課題として台湾の社会的背景との関係をあげた。
 以上の報告に対し、黄氏はこれまでの調査はチームによる調査が中心であり、今回の報告は藤井氏が個人に調べ上げた貴重な資料であると述べた上で、これま で台湾での戦後の日本宗教の研究がされていなかったのはなぜかという説明に対する疑問点、日本での研究成果による分類法を紹介しそれを台湾における日本宗 教に当てはめているが、そういった分類方法が台湾での活動に適用でできるものなのか、海外での布教には日本文化の力や日本語世代も関係しているのではない か、台湾での伝統宗教の力が強くなってきたことが日本宗教の活動が発展しない原因となっているのではないか等の疑問点を挙げた。それに対し、藤井氏は台湾 の戦前の日本宗教の資料の豊富さに比べ、戦後は資料が少なくあまり研究されてこなかった、台湾の事例から概念を分類することの必要性は認識しているが台湾 の教団についての知識が豊富でないため、先行研究の分類法を活用した、しかしそれは分類することに意義があるのでなく整理のためものであった、台湾と日本 の宗教概念の違いなどについては今後の課題としたいと述べた。
 その後、日本宗教の信者となった人の回想などの利用、活動基盤について、日本と台湾での教義の違い、社会事業への参与等さまざまな質問があった。
 今回の発表を拝聴させていただき、それまでの「新興宗教」という言葉に対するカルト的なイメージが払拭され、宗教というものを社会との関係という新しい視点から考えることができ、大変参考になった。(林崎恵美記)

第31回
日時 2005年8月6日(土) 15:30開始
場所 国立台北師範学院 行政大楼506室(社会科教育系討論室)
報告者 塚本 善也 氏(中国文化大学日本語文学系)
コメンテーター 藤井 健志 氏(東京学芸大学、中央研究院民族学研究所訪問学人)
テーマ 「台湾と日本ハリストス正教会」
使用言語 日本語
参加体験記
 8月6日に国立台北教育大学にて第31回台北定例研究会がおこなわれた(台北師範学院は8月1日の年度がわりをもって台北教育大学に改称)。塚本善也氏 (中国文化大学)が「台湾と日本ハリストス正教会」と題して報告をおこない、藤井健志氏(東京学芸大学、中央研究院民族学研究所訪問学人)がコメンテー ターをつとめた。夏休み中ということもあってか、参加者は11名といつもより少なめだったが、その分、密度の濃い議論ができたように思う。
 日本統治開始後まもなく、日本キリスト教会や日本聖公会が台湾での伝道活動を始めたが、ハリストス正教会は遅れをとった。塚本氏が主要史料として利用し た『正教時報』(ハリストス正教会機関誌)には、1901年に最初の台湾関連の記事が掲載されており、このときすでに台湾在住の信者がいて台湾に常住する 司祭の派遣を求める請願が出ていたこと、東京のニコライ堂本会(教団本部)内は伝道推進派と慎重派に分かれていたことが読みとれるという。もっともこの後 すぐに常住の司祭が派遣されることはなく、初めて常住の司祭が派遣されたのは1911年のことだった。しかし、ほどなくその人物は台湾を離れ、以後は長崎 在住の司祭高井萬亀雄による巡回が2回おこなわれた後、1915年から1930年までは司祭真木恒太郎が嘉義に常駐、死後は再び高井による巡回がおこなわ れた。一方で、台北には早くから伝教師の松平慶宏を中心とした教区活動が定着しており、真木があえて嘉義を伝道の拠点とした理由には、この松平の存在も あったのではないかということである。
 もっとも、日本統治期の台湾でハリストス正教会が勢力を大きく拡大できたわけではなく、2回目の高井の巡回を前にした頃の『正教時報』には、ハリストス 正教会が在住信徒の氏名と住所を把握できていなかったことをうかがわせる記述もあるという。信者数に関するいくつかの記録のうち、総督府の報告には 1925年の信者数が143人と記されているというが、これは1055人の日本キリスト教会や545人の日本聖公会とくらべても決して多い数ではない(た だ台湾人の信者がごくわずかということではハリストス正教会も両者も同様)。その後の状況を見ても、ハリストス正教会の台湾での布教が成功したとはとても 言えないが、塚本氏は台湾伝道の中心となる人物がおらず組織的にも脆弱だったことや、ニコライ堂本会からの金銭援助に頼ることができなかったことなどをそ の理由としてあげた。後者に関しては、ちょうど常住司祭の派遣が議論されていた時期に勃発した日露戦争や日本国内でのロシアに対する悪感情の影響で、ハリ ストス正教会自体がそもそも苦しい状況に置かれ続けていたことも指摘された。
 塚本氏の報告に対し藤井氏は、日本の宗教の海外布教、あるいはより一般的に宗教の海外布教という観点からながめた場合、ハリストス正教会の台湾での活動 はどのように位置づけられるのかと問題提起をおこなった。出自地域の文化が刻印されている宗教が海外へ出て行く際にはその宗教の特徴が逆に顕在化しやすく なるが、この点でハリストス正教会の台湾での伝道は、一つの宗教が「ロシア→日本→台湾」と二重に移動した結果であり非常に興味深いという見方、またキリ スト教はその普遍的価値をよりどころとしながら布教がおこなわれる場合が多いが、キリスト教も含む戦前の日本の宗教がまとっていた国家主義的な装いとのず れをどのように解釈すればいいのかという疑問が藤井氏から提示された(塚本氏によれば、『正教時報』には、「「新領土」の台湾で伝道活動をおこなわないの は恥ずべきことである」といった論調も頻繁に見られるという)。また宗教団体の自己規定の仕方と「現地」社会との関係によって布教の具体的方法も左右され るが(たとえば、「病気治し」の成功は宗教の普及に大きく貢献する)、台湾でのハリストス正教会の信者や伝道者のネットワーク構築の様相にも注意を向けて いく必要があるという指摘もあった。
 質疑応答ではさまざまな議論がかわされた。手元のメモからいくつか拾い上げれば、たとえば信者の社会階層の構成、宗教団体の性格がそれぞれの国民国家に 規定される度合い、朝鮮でのハリストス正教会やロシア正教会の活動、司祭が「内地」からやってきて台湾の各地を巡回することの意味、ハリストス正教会が台 湾での布教にあたって「売り」にしていたものは何か、などであった。
 これまでハリストス正教会の活動については、台湾史研究においてもほとんど取り上げられることはなかったと思う。ロシア文学が専門の塚本氏ならではのお 話をうかがうことができ楽しかったし、宗教社会学の藤井氏にハリストス正教会ひいてはキリスト教を含む他の日本の宗教団体の台湾での伝道の考察のために、 宗教の海外布教、移民と宗教といった視点が有効であるということを提示していただき非常に有益であった。
 日本の宗教団体の台湾で活動は、日本統治期にとどまらず今日にいたっても引き続き行われている。今回の例会で、この分野での今後の研究の進展に大きな期待を感じることができた。(冨田哲記)

第30回
日時 2005年5月21日(土) 17:00-19:00
場所 国立台北師範学院 行政大楼506室(社会科教育系討論室)
報告者 柳本 通彦 氏(ノンフィクション作家、アジアプレス台北オフィス代表)
テーマ 「台湾原住民-日本を背負い続ける人びと」
使用言語 日本語
参加体験記
 5月21日、台北師範学院において第30回例会がおこなわれた。今回はノンフィクションライターである柳本通彦氏による講演(「台湾原住民―日本を背負い続ける人びと」)で、コメンテーターは特に置かれなかった。
 講演ではまず、来台(1987.3)当時のエピソードやその後の台湾での取材活動など、柳本氏と台湾原住民との出会いから今日までの経緯が簡単に説明さ れたあと、本日の主題である、「この二十年の間に出会った台湾原住民のお年寄たちの素顔」がビデオやスライドを通して紹介された。
 そこでは、南投県霧社や花蓮県寿村などでの「過去」の出来事、そしてそれから七十年、八十年と同じ場所に歴史を乗り越えて生き続けてきた「おじいちゃん、おばあちゃん」の「現在」が映像テクストとともに伝えられた。
 植民地統治時代の出来事が色あせた史実ではなく、生々しくいまも息づいていることを、聞く者に訴えるものであったといえる。たとえば、出生からいつも一 緒だったという仲良し三人組のエピソード。そこで紹介されたおばあちゃんたちの写真を見、日常の暮らしや日本旅行の話を聞いていると、みなさん「現在」の 幸せを満喫されているかのように思える。だがこうした「勝手な空想」は、戦中の「兵舎への監禁」体験について重い口が開かれると同時に、脆くも打ち砕かれ る。柳本氏が掘り起こした彼女たちの青春の過酷な記憶は、決して癒されることも、何かと折り合いがつけられるものでもなく、おばあちゃんたちが異民族統治 や戦争の傷痕をいまなお生身のまま背負い続けていることが教えられる。
 柳本氏は、こうした出来事を歴史的事実としてだけでなく、現代台湾の現在進行形の問題として我々の前に提示する。一方、氏は、「被害者」として彼らを 「同情の対象」に貶めることを拒否する。彼らはいかなる時代にも、いかなる事態に遭遇しようとも、民族の尊厳を守って凛として生きてこられた。氏が多くの スライドを駆使して「台湾原住民のおじいちゃん、おばあちゃん」の様々なありようを紹介したのも、その誰からも領有されないその存在そのものを尊重するが ゆえでの選択であったと思われる。
 ただ筆者にとって残念だったのは、機器の不具合によりビデオ上映が中断され、幾人かの「おじいちゃん、おばあちゃん」との出会が閉じられてしまったことである。また、柳本氏にも言い尽くせない部分ができたかもしれない。 (武久康高記)

第29回
日時 2005年3月26日(土) 18:00-20:00
場所 国立台北師範学院 行政大楼506室(社会科教育系討論室)
報告者 石田 浩 氏(関西大学経済学部、日本台湾学会理事長)
テーマ 「中台経済交流の回顧と展望」
使用言語 日本語
参加体験記
 2005年3月26日午後6時より台北師範学院において第29回台北定例研究会が行われた。報告者は、関西大学経済学部教授で現在の日本台湾学会理事長である石田浩氏であった。コメンテーターは特に置かれず、参加者は20名前後であった。
 報告は、関西大学出版部から近刊予定である石田氏の著書『台湾民主化と中台経済関係』の最終章を基にして、「中台経済交流の回顧と展望-台湾本土化と台湾アイデンティティ」という題目で行われた。報告レジュメは中国語で書かれていたが、口頭の報告及び質疑応答は日本語で行われた。
 報告の内容は、まず中台経済交流の現状を確認することから始まった。1980年代後半の戒厳令の解除・民主化から同時進行で中台経済交流は進行していき、いまや台湾の自立性・安全保障に脅威を与えるまでに至っているとされた。台湾の統計資料を用いた分析は、数値の信頼性の問題や地下経済の存在等から限界があるものの、統計資料を用いて中台経済交流の現状が示された。貿易の面では、特に輸出において中国への依存が目立ち、台湾の黒字はほとんど対中貿易からもたらされており、一方で対日貿易の大幅赤字は依然として続いていて、従来の日米台から日台中の三角関係へと移行している。次に投資の面では、未申請の投資が非常に多いため全体像をつかむのに困難があるが、英領中米経由のものを含めると台湾からの対中投資は非常に高い比率を占めるようになっている。最近の投資では、特に電子・IT産業における中国での組み立て加工が目立ち、地域的には上海・江蘇省への投資が活発である。最後に人的交流の面では、台湾と中国の間の国際電話や台商の頻繁な里帰りを例にとって交流の進展が説明された。
 このように中台経済交流が活発に進展していっている一方で、政治の民主化にあわせて経済の面でも「民主化」が進み、国内建設への活発な投資などが見られるようになった。他方IT産業の中国投資に見られるように、現在の台湾の経済は中国投資なくしては成り立たない程度にまで対中依存が進んでおり、特に台商を中心として台湾の財界からは対中投資の緩和や三通の実現へ向けて強い要望が出されている。しかし、台湾の世論の動きを見ると、台湾アイデンティティは確実にこの間成長してきており、台商・財界の要求とはずれを示しているように捉えられる。現在の台湾の状況は、本土化・自立化を目標とした政治の内向化と、中台経済交流の深化に象徴される経済の外向化の間の矛盾として把握することができ、この矛盾をめぐって国内の議論は分裂しており対中政策も不安定の度合いを深めている。
 以上が石田氏の報告の骨子であり、この報告をめぐって活発な質疑応答が行われた。全てを列挙することはできないが、中台経済交流の中で何が最も代表的な指標として捉えられるのか、経済の対中依存が果たして政治・安全保障における危険と等値できるのか、台湾からの投資の中身はどのようなものであるか、中台経済交流の進展の中で中国側はどのような影響を受けているのか、などの点について質問が出された。これに対する石田氏からの回答は、中台経済交流は貿易・投資の両面で進展しており、特に輸出先・投資先として中国が占める比重は非常に大きいということ、一方で中国からの輸入も急激に伸びており、電子・IT産業など台湾の中核的な産業が中国への依存を強めていることとあわせ台湾の自立性は危ういレベルにあるということ、中国の目覚しい経済発展にもかかわらず中国の農村部は依然として過剰人口を多く抱えており貧困はいまだ解決されていないこと、などの点が指摘された。
 報告では中台経済交流の実状について豊富な統計資料を用いて具体的な説明がなされ、筆者のような経済学の素人でも非常に分かりやすかった。質疑応答も活発に行われ、現在の台湾が直面している経済状況について理解が深められた。個人的には、政治の内向化と経済の外向化という概念化は非常に刺激的であり、近年の台湾が置かれている状況を分析する上で大きな示唆を与えてくれるものと考えた。他方、中国に対する経済的依存については十分な説明がなされたものの、それを政治的な自立性の問題と結び付けて考察するためには、もう少し慎重かつ具体的な分析が伴う必要があるのではないかと感じたのも事実である。いずれにせよ、中台経済交流の現段階について詳細な考察を行いながら台湾の自立性の確立を訴える石田氏の態度からは、台湾の今後に対する熱い思い入れが感じ取られ、非常に印象的であった。(若畑省二記)

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