最終更新:2011年2月1日


日本台湾学会台北定例研究会
第33-36回

第36回
日時 2006年4月22日(土) 15:00開始
場所 国立台北教育大学(旧・国立台北師範学院)
行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路2段134号)
報告者 劉 麟玉 氏(四国学院大学文学部助教授、中央研究院台湾史研究所訪問学人)
テーマ 「桝源次郎と黒澤隆朝による台湾民族音楽調査(1943)―南方政策との関わりをめぐって」
使用言語 北京語(レジュメは日本語)
参加体験記
 2006年4月22日、国立台北教育大学において第36回台北定例会が開かれた。劉麟玉氏(四国学院大学文学部教授)が、「桝源次郎と黒澤隆朝による台湾民族音楽調査(1943)― 大東亜共栄圏と南方政策との関わりをめぐって」というテーマで報告を行った。コメンテーターは特に置かれなかった。参加者は9名であった。報告および質疑応答は日本語で行われた。
 報告の内容は、台湾民族音楽調査団の時代背景、調査に関わった桝源次郎と黒澤隆朝の略歴・活動、および調査団結成の背景についてであった。
 台湾音楽調査団は太平洋戦争の最中に調査を行っているが、その理由に南方政策における台湾の地位の重要さ、国の大東亜諸国民の芸術に対する姿勢などが挙げられた。
 また、調査に関わった人物については、桝源次郎は1936年インドで音楽を学び、帰国後は民族音楽研究者として活躍した。戦後、音楽方面においてあまり目立った活動をしておらず、死後は資料も公開されていないため、台湾音楽調査団における桝の存在は極めて不透明である。
 一方、黒澤隆朝は、台湾調査以前に東南アジア音楽を調査しており、台湾調査についてはライフワークとも言える『台湾高砂族の音楽』を出版したほか、膨大な手帳も残している。また、1953年に世界民族音楽会議に出席し世界的にも注目を浴びたが、その後はそれ以上の研究はしていない。
 台湾音楽調査団については、1942年、黒澤と交流のあった楽器商の白井保男の斡旋で、日本ビクター社内に「南方音楽文化研究所」が設置され、調査団が結成された。調査団は台湾総督府の委嘱という形で、翌年約3ヵ月半にわたって漢民族と原住民の音楽に関する調査を行い、ヤミ族以外の台湾原住民全ての民族を訪ね、録音と映画を残した。しかしこれらは戦火のためほとんど焼失し、黒澤の手元に編集用の音楽テープのみが残った。なお、このテープの原住民音楽の部分はレコードとして発行されたが、漢民族の音楽が録音されたマスターテープは見当たらないとのことである。
 調査団結成の背景については、台湾の音楽事情を究明するのは、東南アジアにて不動の経済力をもつ華僑への文化工作へくさびをうつため、と黒澤は述べているが、彼の手帳には矛盾する記述もあるとのことであった。
 質疑応答では、調査団のルート、黒澤と高一生との対面、総督府の委嘱部門と調査に対する意欲、当時の原住民の調査団に対する態度、黒澤の台湾調査のきっかけなどについての質問があった。
 劉氏は2000年より台湾大学音楽学研究所の王桜芬氏と共同で黒澤の台湾調査について研究しており、黒澤が回ったルートを2度にわたり再調査し、その結果、当時の録音の様子を覚えている人が9名いたそうだ。彼らの話によると当時の録音の中には今では歌われないもの、わからないものもかなりあるという。
 今回の報告で個人的に強く印象に残ったことは、黒澤隆朝に関しては、孔子音楽に興味を持ち、台南の孔子廟に赴き「私祭」という形で行われた儀式の音楽調査をしたこと、漢民族や原住民の音楽を「新しい世界」と評価していたこと、また桝源次郎に関しては、昭和初期という時代にインドに音楽を学びに行ったこと、残念ながら諸事情により没後資料が公開されていないこと、などである。(石村明子記)

第35回
日時 2006年1月14日(土)15:00開始
場所 国立台北教育大学(旧・国立台北師範学院)
行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路2段134号)
報告者 岩村 益典 氏(国立台湾師範大学博士課程)
コメンテーター 蔡 水秋 氏(淡江大学日本研究所修士)
テーマ 「台湾における農会の設立に関する一考察:三峡農会と三峡」
使用言語 北京語
参加体験記
 2006年1月14日、国立台北教育大学において第35回台北定例会が開かれた。岩村益典氏(国立台湾師範大学博士課程)が、「台湾における農会の設立に関する一考察:三峡農会と三峡」というテーマで報告を行い、王淑宜氏(三角湧文化協進会理事長)がコメンテーターを務めた。参加者は11名であった。
 三峡農会は台北県三峡の農業組合であり、台湾初の農会(1900年成立といわれている)であるという。また三峡は台湾で初めての抗日運動があった場所であり、初めての同風会(台湾人の日本人化を促進する組織)が成立した土地でもあるという。すなわち、三峡は日本政府の台湾統治政策にとっても軽視できない土地であり、台湾の日本化を研究する上でも興味深い背景をもつ。ただ三峡農会に関する研究は、未開拓な部分が多く、実はこの三峡農会が本当に台湾で最初の農会であるかどうかも分からないだけでなく、この農会が農民自らが組織したのか、もしくは日本政府が成立させたものなのかも議論の渦中であるという。
 岩村氏はこの三峡農会の研究に関し、多くの問題を提起された。三峡において、反日感情を親日に変えるべく、日本政府がどのような政策を展開したのか。三峡の有力者、同風会、街の再建築の関係はどうなっているのか。移民政策との関係は、など。これから議論の余地が大いにあり、研究の発展性が伺える。
 さらに質疑応答時においても、この三峡農会の業務内容はどうなっているのか。日本植民地時代の韓国における農会との差異はあるのかなどの質問があった。
本日の報告は、私の専門分野ではなく、報告内容の大部分が新知識であった。報告者の岩村氏自身が三峡で長期的に生活しているということもあり、三峡の土地柄が具体的に分かった。
 また日本人移民に関しても研究を重ねている岩村氏によると、台湾の日本統治時代、吉野村に在住していた日本人は、台湾人なら誰でも知っている1930年代の流行歌「望春風」を全く知らないという。日本の台湾統治政策には、まだまだ多くの興味深い事実が眠っているのではないかと思う。
 私は、この度初めて日本台湾学会台北定例研究会に参加させていただいた。比較的若い研究者が参加し、報告もリラックスした雰囲気で行なわれた。岩村氏が「望春風」を歌われたのには、少々驚いたが、歌声は素晴らしかったと思う。誰でも溶け込みやすい研究会と感じた。今後も積極的に参加したい。(新井雄 記)

第34回
日時 2005年11月19日(土) 15:00開始
場所 国立台北教育大学(旧・国立台北師範学院)
行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路2段134号)
報告者 若畑 省二 氏(国立政治大学国際関係中心)
テーマ 「韓国・台湾の現代政治比較についての一考察―民主化の「延長戦」?」
使用言語 日本語
参加体験記
 11月19日、国立台北教育大学にて第三十四回台北定例会がひらかれた。報告者は若畑省二氏(政治大学国際関係中心)で、「韓国・台湾の現代政治比較についての一考察-民主化の「延長戦」?」と題する報告が行われた。報告者は韓国政治研究者であり、韓国語・中国語力を生かした発表であった。
 本報告では、台湾を過度に注目するのではなく、比較政治の手法である類似した二国間、つまり、韓国と比較することで一般的モデル化し、台湾の民主化への理解をうながすことがめざされ、韓国・台湾の共通点と相違点の事例をとりあげて報告が進められた。韓国・台湾はともに戦後、急速な経済成長をとげたものの、相違点は、韓国は軍事独裁である点にたいし、台湾において軍は限定的であり、国民党の一党支配が大きかった点をあげた。これは民主化の過程に影響を及ぼした。韓国は1987年が分水嶺であるのにたいし、台湾は1988年の野党結成から1996年の総統選挙という段階的民主化だった。また、韓国は 1987年の激しい民主化体制にたいし、台湾は上から渋々と段階的に民主化が進められた。両者の共通点は政権が維持された点である。では民主化の過程でどういう争点が浮上したのか。韓国は学生運動、つまり反米的民族自決、米国から脱却しての民族化がはかられた。それにたいし台湾は台湾人のための台湾化の要求であり、エスニックな要求と結びつくものだった。そして韓国・台湾に共通した民主化後の政治過程について次があげられた。1、政権の維持、優位政党体制への模索、2、権威主義体制勢力の分裂、3、旧勢力の団結、反発、4、イデオロギー的な二極的対立、である。
 また、権力側内部の穏健派と民主化運動側の穏健派が結びつくことで民主化が達成されるとした。台湾の場合は李登輝に代表される穏健派と、許信良らとが同盟を結ぶことで手続き的民主化が進められた。それに対し、韓国は1987年に憲法改正して大統領選挙が可能となり、盧泰愚が選出される。台湾は李登輝がリードし、1996年に勝利し、そのまま政権を維持した。だが、韓国・台湾とも、権威主義体制が分裂、つまり、台湾の場合は新党、親民党、そして台聯へと分裂し、安定しなかった。そして与野党の政権交代において民主化運動で主流でないものが当選した。韓国の場合は1997年金大中、2002年の盧武鉉であり、対して台湾は2000、2004年の陳水扁がそれにあたる。
 政治的対立軸として次の特徴があげられた。韓国は財閥を解体し、巨大既得権のメディアを分解、そして北朝鮮との対話を通して国民国家化をはかろうとした。台湾は形式的民主化にとどまらない台湾化を進め、国際的空間の拡大をはかろうとした。両者の分断(韓国の北朝鮮との対話、中国と一体でなく区別された台湾)、周辺大国との関係(韓国は裏には米国があり、日本は旧政権を擁護。台湾は、米国と日本への期待。これを通して中国を牽制し、台湾の国際的空間の拡大をはかる)、近現代史に対する認識(韓国は植民地支配の清算。台湾は植民地支配への評価。)という、国際的立場、分断国家との力関係の違い、民主化過程の違いが、政治的対立軸の方向性の相違、国内的な政治的対立軸の相違となった、と指摘された。
 最後に、本報告で得られた知見として民主化後の政治過程についての時系列的類型化、政治勢力間の相互作用への注目、そして政治制度分析の重要性があげられた。
 そして本報告にたいし、主に次の質問がなされた。民主化が達成したあと、延長戦があった、とあるが、延長しなかった国があるのか、優位政党体制構築の失敗とあるが、旧勢力、つまり地方派系が強かったのでは?、台湾における学生運動世代とはどの世代?、などである。
 本定例会に参加して、ある地域のある時代にだけついて注目するだけでなく、同時代的に他の地域を見た場合、同じ現象があるのではないか、また、ある地域の現象を一般化できるのではないか、という視点をえることができ、参考になったと思う。(森田健嗣記)

第33回
日時 2005年11月4日(金)18:00-20:00
場所 国立台湾師範大学 総合大楼9階905号室
(台北市和平東路1段162号)
報告者 前田 直樹 氏(広島大学大学院国際協力研究科)
テーマ 「アメリカの台湾政策、1960年―ポスト蒋介石体制・雷震事件への見方を通して」
使用言語 日本語
参加体験記
 2005年11月4日午後6時より台湾師範大学において第33回台北定例研究会が行われた。報告者は広島大学大学院国際協力研究科の前田直樹氏であり、コメンテーターは特に置かれず、参加者は11名であった。
 報告は、「アメリカの台湾政策、1960年-ポスト蒋介石体制・雷震事件への見方を通して」という題目で行われ、日本台湾学会報第6号に掲載された前田氏の論文の延長線上に、雷震事件を位置づけるという趣旨のもと発表がなされた。報告・質疑応答は、全て日本語で行われた。
 口頭発表では、まず報告の目的が説明された。50年代のアメリカ外交の目的として台湾における反共政権の確保があったが、この目的を達成するためには国民党以外の自由主義勢力と提携するなどの選択肢がありえた。しかし雷震事件を通じて、アメリカは政治的な自由化にほとんど関心を示さず、国民党政権に対する支援を確認し中台関係の封じ込めを引き続き進めていくことになった。民主的な反共政権の選択肢がなぜ考慮されなかったのかという点を、雷震事件の分析を通じて説明するのが、報告の趣旨であるとされた。
 次に、50年代のアメリカの台湾政策が分析された。第1次・第2次台湾海峡危機を通じて、アメリカは台湾海峡情勢の固定化・中台紛争の抑止を図る一方で、反共政権に対する支援を強め台湾の確保を目指した。この背景には、国民党政府、特に陳誠を中心とする親米テクノクラートに対するアメリカの高い評価があった。50年代後半からアメリカの冷戦政策は変容し、第三世界の経済の安定・自立が目指されるようになったが、台湾でもこれに対応して経済改革が進められ、国民党政府下での経済発展はアメリカから高い評価を得たのである。
 一方、雷震は雑誌『自由中国』を通じて国民党政府に対する批判を強め、地方選挙を通じて国民党に対する反対派の緩やかな組織化を進めていった。その中で 1960年の韓国における政変は、台湾へ大きな影響を与えることになった。国民党政府は民主化の波及を警戒した一方で、雷震らは大きな鼓舞を受け、無党籍の本省人政治家を中心として反対党の結成に進んでいった。しかし、アメリカは陳誠のもとでの経済改革・体制の安定性を高く評価しており、本省人政治家が未組織の状態にある中で韓国のパターンの政変が起これば、台湾政治は非常に不安定な状況に陥ると危惧した。結果として、アメリカの黙認のもと雷震らは逮捕され野党の結成は挫折に終わった。
 雷震事件をめぐりアメリカは、国民党政権後に成立するかもしれない本省人政権の統治能力に対し疑問を呈し、また独立志向・非中国化が進むことにも懸念を示した。アメリカにとって中国と対抗するためには国民党政権が必要であり、国民党政権に対する支援を再度確認し、政治的な抑圧が継続することも黙認することとなった。
 アメリカの立場からすれば、台湾海峡情勢の固定化を図るためには台湾に安定した反共政権を確保する必要があり、国民党政権のもとでの台湾経済の安定・自立と、本省人政権のもとでの政治の不安定化・非中国化の可能性を考慮すれば、国民党以外の選択肢は存在しなかったといえる。その結果、台湾における野党の発展は70年代以降まで待たざるをえなくなったが、後の民主化運動において雷震・民主党は、人脈などの点で大きな影響を与えることになった。
 以上が前田氏の報告の骨子であり、この報告をめぐって活発な質疑応答が行われた。主な質問を挙げると、①野党結成の承認に代表される自由化と全国レベルでの民主的選挙につながる民主化とを概念的に区別すべきではないか、②60年代に米中関係の緩和が見られたにも関わらずアメリカが反共的な台湾の確保に拘ったのはなぜか、③台湾の経済改革の具体的な中身はどのようなものか、④陳誠に対するアメリカの信頼がなぜそこまで強かったのか、⑤韓国と台湾の違いはどのようなものであったか、⑥アメリカと本省人政治家の接触はあったのか、⑦アメリカは本省人政権における非中国化を具体的にどのように見ていたのか、等の点であった。
 これらの質問に対する前田氏からの回答は、おおよそ以下のようなものであった。①雷震事件の当時においては自由化と民主化が一体のものとして捉えられていた、②60年代にはアメリカは台湾を経済的に安定させその上で中国と取引することを目指していた、③台湾の経済改革の具体的中身は、自由化・脱公営化を進め投資を刺激するというものであったが、本省人が多数を占める中小企業については考慮を欠いていた、④陳誠の能力・人脈・農業政策等における実績とともに、ポスト蒋介石の最有力後継者としての地位がアメリカに評価された、⑤台湾は韓国に比べ制度が安定しており、また本省人政治家の政治組織が未整備で政変後の受け皿が整っていないとアメリカは見ていた、⑥アメリカは本省人政治家と接触して国内政治情報を収集しており国民党も黙認していた、⑦アメリカは国民党後に本省人中心の政権が作られ、政治的不安定・非中国化が進むことに危惧を抱いていたが、具体的な見通しは持っていなかった。
 報告は米台関係の現代史に関するかなり詳細な議論であったが、論旨は非常に明確であり、筆者のような素人も知的好奇心を大いにそそられる刺激的なものであった。質疑応答も非常に活発に行われ、雷震事件を前後するアメリカの台湾政策・米台関係について理解が大いに深められた。個人的には、国民党政権下の経済改革に対する高い評価と、本省人政治家の統治能力に対する懸念から、アメリカが雷震事件を黙認し国民党政権への支援を継続していくことになったという前田氏の解釈は、大変納得のいくものであった。特に、アメリカが当時から省籍矛盾を深く認識しており、本省人政治家の独立志向・非中国化を強く危惧していたという指摘には、教えられるところが大きかった。(若畑省二記)

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