最終更新:2011年2月1日


日本台湾学会台北定例研究会
第37-40回

第40回
日時 2006年12月30日(土) 15:00開始
場所 国立台北教育大学(旧・国立台北師範学院)
行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路2段134号)
報告者 李 尚霖 氏(開南大学応用日語学系助理教授)
テーマ 「“台湾通”試論─日本之台湾殖民統治与通訳─」
使用言語 日本語(北京語)
コメンテーター 陳 培豊 氏(中央研究院台湾史研究所)
参加費 無料
参加体験記
 2006年12月30日午後3時より台北教育大学において第40回台北定例研究会が行われ、開南大学応用日語系の李尚霖氏が「"台湾通"試論─日本之台湾殖民統治与通訳─」と題して報告をおこなった。コメンテーターは中央研究院台湾史研究所の陳培豊氏、参加者は21名であった。
 日本の台湾統治時代については様々な評価があるだろうが、今回取り上げられた総督府日本人官吏の台湾語学習は非常に興味深いものであった。以下は私が日本人の観点から述べたものであることをご了承いただきたい。
 日本統治期に台湾で勤務した日本の警察官は、その土地の人達との意思疎通を図るために台湾語を覚えようとした。総督府の制定したかたかな表記によって台湾語が記された教科書や辞書が多数出版されたが、統一的な台湾語の文字表記の共有が一定の範囲で成立していたという意味では意義のあることだったと言えよう。というのも、台湾語の文字表記をめぐる議論は今日においても台湾国内で続いており、近いうちに何らかの結論が生まれる状況にもなさそうだからである。当時の総督府が、平仮名や片仮名によってであるとはいえ、台湾語の文字体系を制定し、それが台湾語を記述する手段として社会にある程度普及するに至ったことはもっと注目されてもいいのではないだろうか。
 また、総督府普通文官試験では台湾語が必修だったという話には非常に驚かされた。現在台湾では北京語を「国語」としているが、当然のことながら当時の台湾では台湾語話者が大多数を占めていた。李氏の話によると、1906年現在、台湾の総人口約300万人のうち台湾語人口は約230万人を占めていたという。
その言語を、総督府が官吏に学習させようとする方針をとっていたことは非常に興味深かった。もちろんそれは、台湾統治をスムーズに行うことを目的としたものだという見方もできよう。しかし、植民地の言語を宗主国からやってきた(あるいは植民地で育った)本国人官吏が学ぶという現象に対しては、ただ統治のための学習という見方を超え、そこに現出したさまざまな相互作用を深く考察していく必要性があるだろう。
もっとも、1930年代以降は日本語教育の普及により台湾人のあいだの日本語人口も急速に増えていった。総督府の官吏が台湾語を学ぶ意義も薄れていったのは事実で、この点からすると、今日の研究においては、たしかに台湾人が日本語を学ぶという側面がより前面に出てきやすいのかもしれない。しかし、統治する側が被統治者の言語を学ぶという行為についても、われわれはその実態や意味を深く追求していく必要があろう。
(呉宗俊記)

第39回
日時 2006年9月23日(土) 15:00開始
場所 国立台北教育大学(旧・国立台北師範学院)
行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路2段134号)
報告者 植野 弘子 氏(東洋大学社会学部)
テーマ 「日本統治期台湾における生活の『日本化』とその後―台南『高女』女性のライフヒストリーを通じて―」
使用言語 日本語(質疑応答は北京語および日本語)
参加費 無料
要旨 日本統治時代に行われた「日本化」が台湾人の日常生活に与えた影響と、それが統治終了後の台湾の人々にとっていかなる意味をもったかは、未だ十分な検討が加えられていない課題である。報告者は、台南の高等女学校出身者に対してライフヒストリーの聞き取りを行い、この問題を探ってきた。これらのエリート女性たちの営む生活、またその志向性は、そのまま台湾全体の実態として普遍化することはできないが、新しい時代の家庭生活や女性の生き方としてのモデルを提供するものであったのではないかと考えうる。今回の報告では、フィールドワークの資料に基づいて、特に日本語による知識を中心に、この課題に関して述べてゆきたい。
参加体験記
 2006年9月23日午後3時より台北教育大学において第39回台北定例研究会が行われた。報告者は東洋大学社会学部の植野弘子氏であり、コメンテーターは特に置かれず、参加者は16名であった。
 報告は、「日本統治期台湾における生活の「日本化」とその後-台南「高女」女性のライフヒストリーを通じて-」という題目で行われ、五十嵐真子・三尾裕子編『戦後台湾における〈日本〉-殖民地経験の連続・変貌・利用』(風響社)に掲載された植野氏の論文「殖民地台湾における高等女学校生の「日本」-生活文化の変容に関する試論」の補足報告を行うという趣旨のもと発表がなされた。報告・質疑応答は、全て日本語で行われた。 口頭発表では、まず報告の目的が説明された。日本統治時代に行われた「日本化」が台湾人の日常生活に与えた影響と、それが統治終了後の台湾の人々にとっていかなる意味をもったかは、未だ十分な検討が加えられていない課題とされている。そこで台南の高等女学校(高女)出身者に対して行ったライフヒストリーの聞き取り調査による資料を分析することにより、特に日本語による「日本」的なものに対する知識の浸透と定着を中心に据えて考察するのが、報告の趣旨であるとされた。
 次に、日本統治期の民俗に関する研究、日本統治終了後台湾における「日本」に関する人類学的な研究などの先行研究に関する言及がなされた。その中で植野氏が指摘した問題点は、台湾人の中にある「日本」の受容と定着について状況の変化や細かな生活そのものについて言及しているものが少ないということ、またそれにあたり「日本」を過大評価して分析・記述すること自体が持つ危険性、などであった。
また、日本教育世代の女性と家庭生活についての基礎事項の確認がなされた。高等女学校に在籍した台湾女性が極めて特殊ないわばエリート階級の子女であったこと、女子教育自体に階層身分シンボルとしての作用があったこと、高等女学教育の場で身体表現や感覚において「日本」的なものを植え付けようとしたこと、などである。
 最後に、各聞き取り調査の事例に即した報告の上で、現状の確認と今後の課題についての言及がなされた。現時点での結論としては、高女の卒業生はエリートであり一般民衆とは違う目で見られていたが統治終了後もその存在は一目置くべき存在として人々の目に映ってきたこと、「日本」的なものは統治終了後も無縁なものになったとは言い切れず生活モデルとしての意味は持っていた、という二点が挙げられた。今後の課題としては、地域において高女卒業生たちがいかなる存在だったのかをより具体的に分析する必要があること、戦後においても彼女たちが積極的に日本語を活用することの意義とその具体的方法、生活文化の変化と次世代への継承はどうなっていたのか、そして「日本-台湾」だけで見るのではなく「中華」の視角も導入すべきではないのか、といった内容があった。
 以上が植野氏の報告の骨子であり、この報告をめぐって活発な質疑応答が行われた。主な質問を挙げると、○「良き日本人」の見本となるような女性の教育が行われていたというが、台湾人側のその受容・葛藤はどうだったのか、○台湾人が「日本」的なものを受容していった際に文明的な側面と文化的な側面があったと考えられるが、そういったことは議論するうえでどのように念頭に置かれているのか、○インタビュー調査をする上での世代間での日本イメージの違いがあるのではないか、○「『中華の要素』があまり意識されていなかったように感じる」と報告者が発表したが、それはインタビュアーが日本人だからなのではないか、さらにもしインタビュアーが日本人だから話すということがあるとすればそれはどう位置づけられるのか、等の点であった。
 これらの質問に対する植野氏からの回答は、おおよそ以下のようなものであった。○当時「日本」は文明のステイタスとして確立していた、○「日本」的なものの中にある文明の側面と文化の側面は不可分のものであり、受容する側の台湾人にとっても認識がまちまちであった。だが、文明的な要素がなかったのならば日本の文化は受容しなかっただろう、○調査にあたりあまり多様な世代をサンプルに挙げることができなかったので難しい側面がある。世代的に「日本」的なものが浸透している世代にしか当たれなかったため、もう少し古い世代に聞き取りを行うことが出来ればまた結果も変わったかもしれない、○インタビュアーが日本人であるということは研究の前提としてなければならないことであり、これは人類学全体が共有する難しさでもある。
 報告はフィールドワークの手法に基づいた戦後台湾社会史に関する意欲的な議論であったが、目的と論旨が明快であり筆者のような素人もおおいに知的好奇心を刺激されるものであった。質疑応答も活発に行われ、戦前・戦後を通じての台湾における「日本」の受容に対する理解がおおいに深められた。筆者個人の感想としては、かつては戦後台湾が置かれた特殊な状況下で台湾におけるフィールドワークに大きな制約があり、現在に至っては戦前を知る世代がますます鬼籍に入っていっている状況があるという時間的な困難、そして、かつて植民者であった日本人が被植民者であった台湾人にかつての帝国言語である日本語でインタビュー調査をしなければならないという、人類学自体が持つ構造的な問題に通じる困難、この2つの困難を抱えながらも、その意義を信じて研究を貫く植野氏の態度に深い感銘を覚えた。(高橋一聡記)

第38回
日時 2006年8月11日(金) 15:00開始
場所 国立台北教育大学(旧・国立台北師範学院)
行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路2段134号)
報告者 河原 功 氏(成蹊高等学校)
テーマ 「日本統治下台湾での『検閲』の実態」
使用言語 日本語(質疑応答は北京語および日本語)
対話人(問題提起等) 李 承機 氏(国立成功大学台湾文学系)
参加費 無料
参考資料 河原功「日本統治下台湾での『検閲』の実態」『東洋文化』86号、東京大学東洋文化研究所、2006年3月。(当日会場でコピーをお配りします)
参加体験記
 2006年8月11日、国立台北教育大学で、第38回定例研究会が開かれた。報告者は河原功氏(成蹊高校)、李承機氏(国立成功大学)がコメンテーターを務め、参加者は22名であった。
 報告は、「日本統治下台湾での『検閲』の実態」という題目で、河原氏の『東洋文化』(2006年3月)に掲載されている同題目の論文を基に、報告、質疑とも日本語で行われた。
 植民地下台湾で、検閲が行われていたことは、台湾研究者ならば誰でも容易に想像がつくことではある。だが、検閲そのものが「秘」行為であり、現存資料も乏しく、資料発掘作業の困難さ、困難さへの危惧からか、その実態は明らかにされてこなかった。河原氏は、現存資料『台湾出版警察法』(1930年1月から 1932年6月までの30号分・国立台湾大学総図書館所蔵)を主軸に、各種資料への細やかな目配りと着実で豊富な研究経験を基に、植民地下台湾での検閲、発禁の実態を実証的に解明した。報告の概要は以下の通りである。
 植民地下台湾での検閲の対象は、新聞、雑誌、単行本から、パンフレット、絵葉書、写真、暦、守り札、マッチのラベルなど多岐に及んだ。「台湾新聞紙令」(1917年12月制定)が、新聞、雑誌を、「台湾出版規則」(1900年2月)が、それ以外の出版物を取り締まりの対象としていた。「台湾新聞紙令」は、日本内地の「新聞紙法」に比べ、遥かに厳しく、それは、①日刊紙発行の制限、②発行前の納入義務、③「新聞掲載ノ事項」に違反した場合の行政処分、④台湾島外発行紙の輸移入制限、⑤新聞記事掲載の差止め、⑥司法処分などの規定によく表れている。例えば日本からの移入については、新聞、雑誌など多岐にわたる出版物が発禁処分を受けており、1931年1月から6月の間に発禁処分を受けた新聞、雑誌の部数は総計約10万部に及ぶ。共産主義運動、無政府主義運動、労働運動や社会運動に関するものは日本内地でも発禁になることが多かったが、台湾では、台湾に触れた記事、政論、時事、小説までもが発禁対象となった。一方、台湾での中国大陸刊行物への関心の高さから、中華民国からの輸入も多かったが、対日批判、台湾民族運動擁護に関するものはもちろんのこと、「地図」、「暦」なども発禁処分を受けた。これら移入、輸入刊行物に比べ、台湾で発行された刊行物の発禁処分部数は圧倒的に少ない。これは「台湾新聞紙令」及び「下刷検閲」等、検閲以前の締付の厳しさ故である。また、削除処分(他の記事との差し替え、○○での表記、活字塗り潰し、該当ページを印刷しない等)、発売頒布禁止の行政処分を明記した資料を実際に提示し、検閲の実態の一端を検閲の痕跡からも検証した。さらに、楊逵の証言、呉新栄、林輝焜の蔵書に発禁資料が現存することなどから、資料の残存の可能性と、掘り起し作業の急務についても提唱した。
 最後に、河原氏は、「検閲は、台湾文学運動の健全な成長を阻害し、歪曲した大きな要因となった。台湾文学は「検閲」との闘いであり、台湾の検閲制度の解明は台湾文学の歪んだ成長過程をも明らかにするはずである。そのためにも、検閲の実態を解明することが求められる」と報告を締めくくった。
 これに対し、李承機氏は、河原氏の実証的な報告、長年の着実な研究成果と方法に敬意を表した上で、検閲が台湾文学の発展を阻んだという殖民-被殖民という河原氏の視点に対し、この検閲制度に対し、台湾人はどのように対処してきたか、できたかという読者側、著者側の戦略という視点から様々な問題提起を行い、聴衆の想像力を刺激し、今後の研究の発展の可能性を示唆した。例えば、発禁、伏せ字などを読者側はどう解読したのか、著者側はどう利用したのかなど問題提起し、殖民-被殖民の二対抗立の図式を鮮やかに崩し、新たな視点を喚起した。また、新聞など出版物の輸入、移入の時間差とその意味について、市場の競争の問題などについても言及した。
 フロアからも、輸入移入出版物の多さから、検閲はどのように可能だったのか、また発禁出版物の多さは検閲の不可能性の結果ではないか、など検閲行為そのものに対する問題、また日本の実態との比較など、多くの質問、意見が寄せられ、活発な議論がなされた。
 河原氏の、実証的な研究方法、長年の着実な研究経験に基づいた骨太で豊穣な報告と、李承機氏の、河原論文を豊穣なるテキストとして、綿密に読み解き、新たな視座から問題を浮かび上がらせる鮮やかな手法に、多くの研究、研究方法の可能性を感じ、私自身も研究を志していくものとして、大きな刺激と目標とエネルギーを得た。(赤松美和子記)

第37回
日時 2006年6月24日(土) 15:00開始
場所 国立台北教育大学(旧・国立台北師範学院)
行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路2段134号)
報告者 張 文薫 氏(政治大学台湾文学研究所)
テーマ 「従『現代』観想『故郷』-張文環『山茶花』作為文本的可能」
使用言語 北京語(質疑応答は北京語および日本語)
コメンテーター なし
参加費 無料
参加体験記
 6月24日、国立台北教育大学において第37回台北定例会が開催された。報告者は張文薫氏(政治大学台湾文学研究所助理教授)、「観想『故郷』-張文環『山茶花』作為文本的可能」という題名のもと、日本統治時代の作家張文環が1940年に『台湾新民報』に連載した「山茶花」をめぐって詳細な報告がなされた。参加者は10名、コメンテーターは置かれなかった。
 はじめに、張文環とその創作活動、「山茶花」の内容と評価、先行研究などが紹介された。報告者の問題意識は、テキスト内部の問題とテキスト外部のそれとを分割して討論し、そこから浮かび上がる同作の可能性を探ることにあったといえる。舞台として語りの対象になり続ける村が年々近代化に直面し「故郷」自身が変質する中で、主人公の賢は、その女性形象からも明らかであるが、近代への憧れと故郷への愛着という矛盾した感情を抱く。更に故郷の変容につれて彼の想う「故郷」も流動的になっていく。一方、女性主人公の娟は賢が抱く憧憬の投影先であり、同時に賢とはネガとポジの関係にあたり結ばれることはない。また、作者と登場人物の関係を見ると、成長した賢に寄り添い、娟をつかみきれずに犠牲にする作者像が浮かび上がる。以上がテキスト内部の孕む問題であり、テキスト外部には作者自身の創作前の言葉や同時代の批評といった問題がある。作者の予告と作品のずれ、「素材」羅列と評される創作方法、好評と言われながら同時代批評が僅少である事など。同時に、報告は張文環の他の作品との関連性や30~40年代の自由恋愛と近代という話題にも触れながら進められた。上記のような報告の後、質疑応答がなされた。
 質疑応答では、報告者が強調する賢の「昔のまま」への執着が賢の成長と共に変化しているという点、「センセーション」を巻き起こしたと評されるが実際はどの程度だと考えて良いのか、同時期の新聞連載小説における挿絵の持つ意味、張文環の留学経歴と作品内故郷の関連性の有無、掲載紙『台湾新民報』の発行部数や当時の読まれ方など、文学分野からだけではなく、歴史分野や戦前期の状況を記憶する参加者から様々な意見が提出された。
 初めての参加であり、緊張して臨んだのであるが、専門分野を異にする参加者同士が各自の立場から意見を交わし合い、良い雰囲気の中で会が進められていることに好感をもった。
(末岡麻衣子 記)

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