最終更新:2011年2月1日


日本台湾学会台北定例研究会
第45-48回

第48回
日時 2008年12月20日(土) 15:00開始
場所 台湾大学台湾文学研究所220室(閲覧室)
(台北市羅斯福路四段一号)
報告者 春山 明哲 氏(日本台湾学会理事長、政治大学台湾史研究所客座教授、早稲田大学台湾研究所客員研究員)
テーマ 「日本における台湾研究の最近の動向と今後の展望」
対話人 張 隆志 氏(中央研究院台湾史研究所)
使用言語 日本語・北京語
参加費 無料
参加体験記
 2008年12月20日に台湾大学で、22名の参加者を集め第48回台北例会が開催された。9月から12月まで政治大学台湾史研究所に客員教授として滞在していた本学会理事長の春山明哲氏(早稲田大学)が、「日本における台湾研究の最近の動向と今後の展望」と題して報告をおこない、それを受けて「対話人」の張隆志氏(中央研究院)が台湾史研究の動向について発言をおこなった。
 春山氏の報告は、第10回学術大会記念シンポジウムでの基調報告(「日本台湾学会の10年を振り返って」)とパネルディスカッション(「台湾研究この 10年、これからの10年」)の概要紹介、および今回の台湾滞在中の観察が中心だった。内容は以下のとおりである。
 1998年の設立大会の際、若林正丈氏は司会者冒頭発言で「台湾研究」のイメージ(『日本台湾学会報』第1号所収)として、地域研究の対象としての台湾の濃厚な個性、台湾研究の二重の学際性、開放的な台湾研究の必要、研究の実践的指針としてのリベラリズムとプラグマチズム(国民国家パラダイムやナショナリズムを相対化する一方で、台湾研究の発展のためにはイデオロギー闘争の場からも積極的に知見を取り入れるべき)、の四点を提示した。このうち、とくに一点目と二点目を参照しつつ、10年間の日本における台湾研究の動向をつかむために、『日本台湾学会報』の論文154本、および学術大会報告者論文集の報告 79本の計233本の分析をおこなった。具体的には各研究を、主題から「政治・経済・歴史・社会・文化・文学・教育」の7項目、対象とする時代から ①1895年まで(清朝期)、②1895~1945年(日本統治期)、③1945~1986年(戒厳令解除まで)、④1987年から現在、の4期のいずれかに分類した。
その結果、どの主題にもほぼ②、③、④各期の研究が見られ(ただし①の時期の研究は僅少)、台湾研究の歴史の重層性は顕著であった。上記各主題の分類とは別に抽出した「原住民」関連の論文についても同様である。一方、主題をいずれか一つのカテゴリに分類することには大きな困難をともなったが、まさにこれこそが台湾研究の学際性を傍証するものであろう。
 ここでいう学際性とは、学問的ディシプリンの横断を意味しているが、くわえて「領域際的」とでも言うべき傾向も顕著である。たとえば233本の研究のうち、文学に分類されるものがもっとも多く61本を数えるが(うち②の時期が43本)、設立大会での山口守氏の報告タイトル「越境する文学と言語-中国文学・台湾文学・日本文学」にあるごとく、台湾文学研究の学問的アイデンティテイに対する問いは、研究者を領域際的な場へと導いていかずにはおかない。
なお領域際的ということでいえば、台湾人による研究が全体の三分の一、また学会賞受賞論文の半分を占めており、日台間の学術交流の活発化、深化を反映している。日本台湾学会の学術団体としてのアイデンティティの所在ともかかわる特筆すべき特色であろう。
 続けて、下村作次郎氏の基調報告の紹介、パネルディスカッションの概要紹介があったが、これらについては、学会ニュースレター第15号の滝田豪氏による詳細な報告にゆずりたい。
最後は「台湾で考えたこと」であった。政治大学台湾史研究所での講義以外にも、中央研究院、国立中央図書館台湾分館、複数の大学、読書会などでの講演、研究者との対話、さらには春山氏自身の台湾の親戚のことなど、密度の濃い台湾滞在の日々が語られた。

 張隆志氏の話は、例会の二週間ほど前に中央研究院台湾史研究所、政治大学台湾史研究所、台湾師範大学台湾史研究所が共催したシンポジウムでの報告の前半部分をもとにしたものであった。張氏は、「本土史学史」の観点から、80年代以降今日にいたる台湾史研究の動向を整理した。内容は以下のとおり。
ここで言う本土史学とは、外来の知識体系や主流学術理論を相対化しつつ、植民地統治や権威主義国家体制、有力エスニックグループに対する批判も志向する歴史研究のありかたである。その意味で、本土という概念は本来、みずからの歴史を語ることばの探求を要請するものであり、そうした努力が社会に解放をもたらす力ともなるはずである。
 政治的自由化にともない、この20年ほどのあいだに大きな発展をとげた台湾史研究は、台湾という空間を研究の中心にすえつつ、一方で歴史知識の「民主化」にも取り組んできた。史料の発掘や整理、復刻出版やデジタル化により、台湾史に関心をもつ多くの人々が重要史料を共有できるようになっている。時代、ジャンル、理論面ではばが広がり、中央研究院や各大学での台湾史研究の制度化も進んだ。海外の台湾史研究者、研究団体との交流も活発になっている。
 もっとも、今日の台湾史研究を論じようとすれば、80年代以前の歴史研究からの影響にも注意を向けないわけにはいかない。ここには、日本統治期の総督府の学術調査や研究者の著作を含む日本植民地史としての台湾史、第二次大戦後に台湾に持ちこまれた中国現代史料学派の伝統を引き継いだ中国地方史としての台湾史、欧米の研究者による地域研究としての台湾史、そして海外で反政府運動や台湾研究にたずさわった台湾人が語った台湾史、という四つの大きな流れがある。政治的立場のことなりとも密接にかかわる多様な歴史論述が折り重なる場として台湾史研究は展開してきた。
 本土史学としての台湾史の研究は、中国史、日本史がその一構成部分として、あるいは欧米の地域研究が一フィールドとして台湾をとらえるのとはことなり、台湾という土地やそこに住んだ/住む人々の現実に対する痛切な関心に突き動かされるものである。80年代以降の学術機構を中心とした台湾史研究は、特定社会集団中心の史観を批判し、長い時間スパンのもと、台湾と東アジア各地域とのつながり、多様な生活経験や集団記憶に注目した研究をつみかさねてきた。学際性をそなえた研究の深化、また民間歴史研究者や団体、出版社、メディアなどの歴史論述への積極的関与は、これからも台湾史研究の重要な特色でありつづけるだろう。
 ただ、以上のような研究のあり方の一つの帰結として、台湾史研究はたびたび、アイデンティティ・ポリティクスの論争の場にもなってきた。日本統治期について言えば、1984年の台湾現代化論争、1997年の『認識台湾』論争、2001年の『台湾論』論争があげられる。また90年代以降の政治状況のもとで、本来、社会の解放のための原動力であった「本土」という語が、単なる一政治言語へと変質してしまったことも指摘しておく必要がある。

 春山氏は台湾研究全般、張氏は台湾史研究をテーマとしていたが、両者は「学際性」「超領域性」「重層性」といったキーワードによって呼応しあうものであった。開放的で懐の深い研究環境がいかに重要であるかということは、台湾という空間に真摯に向き合う研究者であればだれしもが感じていることであろう。台湾研究が狭義の意味での「政治」とつねにとなりあわせであることは否定のしようがないが、だからこそ、台湾社会の多様性を歴史的必然として受け入れること、そして台湾がたえず「外」の世界との物理的、精神的なかかわりのもとで存在し続けてきた事実を認識することは、いかなる領域の台湾研究においても必須である。報告後の討論でも話題になっていたが、相違する立場、研究視点、学問的ディシプリン、領域を大胆にのりこえていけるような思考、そしてそこに対話の可能性をさぐっていく姿勢こそが、まず台湾研究の大前提とならなければならない。(冨田哲記)

第47回
日時 2008年8月25日(月) 15:30開始
場所 台湾大学台湾文学研究所220室(閲覧室)
(台北市羅斯福路四段一号)
報告者 岡本 真希子 氏(早稲田大学東アジア法研究所・文学部兼任講師)
テーマ 「日本統治時期台湾の法院の司法官僚たち―判官・検察官・通訳たちの諸相―」
使用言語 日本語
コメンテーター 李承機(成功大学台湾文学系)
参加体験記
 2008年8月25日、台湾大学台湾文学研究所にて日本台湾学会第47回台北定例研究会が開催された。報告者は岡本真希子氏(早稲田大学東アジア法研究所・文学部兼任講師)、コメンテーターは李承機氏(國立成功大學台灣文學系)で、16名の参加があった。
 報告のタイトルは「日本統治時期台湾の法院の司法官僚たち-判官・検察官・通訳たちの諸相-」。氏はちょうど数日後に南投の国史館台湾文献館にて法院通訳についての報告を予定しており、同報告との重複を避けるために判官(判事)や検察官(検事)まで範囲を広げたとのことであった。報告(および配布資料)は日本語で行われた。
 概要を以下にまとめる。まず判官は大部分が内地人であり、検察官においては内地人のみだった。高等法院においては院長・検察官長は1920年代以後は数年ごとに交代した。本国(内地)から転任して短期滞在したケースもあれば、台湾で長い下積み時間を経験したたたきあげの者もいた。検察官においては在台 10年以上の者もいれば渡台前に本国で司法官をしていた者もいた。退職後は台湾や本国で弁護士、公証人をしており、一生司法に関わった。一方、地方法院の一例としてとりあげた台北地方法院では、在台期間が短く、教師や役人など法曹以外の者が高等文官試験司法科に受かって台湾で就任する場合が多い。つまり転身のチャンスとしていたことがわかる。また本国と台湾の間での人事異動も多い。このような判官や検察官は、制度上は植民地の言語を学ぶ必要はなかった。
 一方台湾人は1930年代に到るまで登用が行われず、1945年まででも6名程度あったにすぎない。行政官における台湾人登用排除と同じ構造があり、資格があっても登用されなかったため、弁護士になるか少数の者が本国で任官していた。この場合各地の法院を数年ごとに転勤するという内地人と同じ転勤のパターンがあった。
 このように裁く側の圧倒的多数が植民者であったのに対して裁かれる側の圧倒的多数が被植民者であり、当然両者の間には媒介者が必要であった。それが法院通訳で、内地人だけでなく台湾人もいた。台湾人通訳は台湾総督府に登用された数少ない台湾人官僚であり、1899年法院条例改正時から登用可能であった。内地人通訳は統治のツールとして台湾語を学習し、熱心な研究者もいた。「台湾語通信研究会」をおそらく1908年頃結成し、雑誌『語苑』を1908年から 1941年の間に出版した。1942年には『警察語学講習資料』に改題された。これは『語苑』の連載の一つに特化したものだった。各試験対策など実用的な記事が多かった。「台湾語」会話本や辞書を刊行し、「台湾語研究者」として「最良のもの」の吸収と提言をし、「先駆者」を自負する者がいた。職務に誇りを持ち、「台湾にては通訳は間接の判検事なり」という者もいた。一方で「台湾語」学習は「国語」普及の阻害要因として排斥されることもあった。また警察が求める実務型台湾語の必要と「雅」な「研究」「創作」との間に板ばさみになることもあった。
 以上の報告に対して、李氏は次のようなコメントをおこなった。内容に関しては(1)台湾人通訳は何人であったか?(2)通訳は「台湾人不在」ではないか?(3)通訳と警察の関係はどうであったか?例えば川合真永。彼が警察と仲が良かったのは何故か?(4)小野真盛(西洲)について。台湾語郷土文学論争に内地人が入っていたのか?中国を中心とした白話文派は台湾語を日本の方言とすることに反対していた。また方法論的には(5)今回の報告は人物やストーリーをいろいろ紹介する形であり、散漫な感じがする。いくつかのパターンに分類したほうがよい。(6)植民地法制と社会の関係を如何に認識するか。これは単なる言語の問題にとどまらない。如何に実証するかが大事である。 
 コメントに対して発表者から(1)通訳中半分以上は内地人だが資料が少ない。通訳の多くは下級官僚で、履歴書などが残っている場合除けば関連資料は少なく、また、公文書からの分析には限界がある。(2)台湾人の残した文字資料が少ない。統治初期には台湾人通訳が多かったようで、清国時代からの官僚もいた。内地人には台湾語の人材が無く、北京官話の習得者しかいなかったため、日本語⇔北京官話⇔台湾語の二重通訳にならざるをえなかった(3)川合真永のように法院より警察との関係が深かった者もおり、警察に出張して台湾語を教え、警察の試験を作っていた。また試験に通り、法院通訳へ「上昇」していった元警官もいた。警部が検察官を兼ねたケースも多かった。ただし警察が判官を兼ねることはありえなかった。(4)小野真盛の文学論争における位置づけについては、今後の台湾文学研究者よる研究の伸展に期待している。『語苑』編輯長にもなった小野は、論説・回想など比較的広範な領域にわたる執筆をした稀少な存在といえるのではないか(5)ケースが多くて類型化が難しい。在台内地人社会そのものに亀裂があり、台湾から離れられない者もいれば台湾と本国の間を頻繁に移動するものもあった。といった返答があった。
 質疑応答では、各司法官僚の出身県と採否状況に相関関係があるのではないかとの質問があり、発表者からは、本国では判事を出身県によって採否を決定することはそもそもなく、台湾における内地人判官の採否状況も出身県に由来するのかは本国と台湾を比較することによる反証が必要である、判官の登用は試験任用の原則に基づくのであり、出身県はあまり関係ないのではという応答があった。記録者の見解では、質問は通訳に関するものに集中していたように見受けられる。おそらく台湾の「本土化」の潮流にあって、多くの研究者が台湾らしさが日本時代においても如何に維持発展されたかということに関心をもっているためではないだろうか。この問題は日本時代の植民地統治が同化主義と特殊主義の狭間をどのように揺れ動いて歩んだかという問題に繋がる。
 私事ながら記録者は同じ植民地官僚である理蕃警察を研究対象としているため、今回の岡本氏の発表からは内容的にも研究方法的にも得られたものが非常に多かった。特に氏の官僚データーベースの整理や個別の官僚の情報を丹念に整理するという方法は是非自分の研究にも活かしたいものである。このような機会をくださった発表者やコメンテーター、当会幹事に心から感謝したい。(石丸雅邦記)

第46回
日時 2008年7月5日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北校園D328室
(台北市大安区金華街199巷5号)
報告者 陳 萱 氏(中央研究院台湾史研究所博士後研究)
テーマ 「台湾事件をめぐる言説空間―「爾乃少女」の描写にあらわれた日本国威発揚」
使用言語 北京語
コメンテーター 楊 素霞 氏(南台科技大学応用日語系)
参加費 無料
参考資料 河原功「日本統治下台湾での『検閲』の実態」『東洋文化』86号、東京大学東洋文化研究所、2006年3月。(当日会場でコピーをお配りします)
参加体験記
 2008年7月5日、淡江大学台北校園において日本台湾学会第46回台北定例研究会が開催された。参加者は報告者を含め15人で、大学院生を含む、比較的若手の研究者が中心に活発な議論がおこなわれた。
 まず、研究会の概要をまとめておきたい。発表は、陳萱氏(中央研究院台湾史研究所博士後研究)により、「台湾事件をめぐる言説空間―「爾乃少女」の描写 にあらわれた日本国威発揚―」というタイトルで行われた。なお、報告(および配布資料)は日本語で提供された。
 陳報告の主旨は、「台湾事件」(いわゆる、1874年の牡丹社事件)について、新聞などのメディアや戦記物などの言説を分析することで、当時の日本がど のような台湾理解を形成しつつあったのかを検討するというものであった。報告者が分析した史料は、日本で発行されていた新聞、「台湾事件」を題材とした実 録作品、それらに合わせて描かれた新聞錦絵などである。結論としては、台湾は原住民による食人習慣がある地域として、きわめて野蛮なイメージが定着しつつ あり、日本が「文明」的な教化の対象として台湾をとらえるようになったことが指摘された。なかでも、原住民の少女(「爾乃少女」)に日本式の教育を施し、 それが美挙として逐一新聞に報道されたことは、この事件を通して、日本が「国威発揚」の方法を獲得したとする。
 報告に対しては、楊素霞氏(南台科技大学応用日語系)から、次の5点にかんして、丁寧なコメントがあった。1) 近年の「台湾事件」をめぐる研究状況について、2) 言説空間をめぐるこれまでの研究動向、3) 当時の新聞の読者層について、4)食人習慣の情報を最初にもたらした英字新聞の出所について、5)「台湾事件」を扱った実録作品の作者について。
 議論は、楊氏からのコメントを皮切りに、活発に行われた。なかでも、報告者がスライドで用意した、「爾乃少女」の錦絵をめぐっては、その描かれ方などについてもさまざまな解釈の可能性が指摘された。
本報告は、ともすれば二次史料として軽視しがちな新聞記事や文学作品の検討を通して、「台湾事件」が明治初期の日本にもたらした意義を再検討するもので あった。これは、単に同事件のみとどまらず、その後の対外戦争や外交事件をめぐって、どのような言説空間が形成されたのかといった問題とも、比較・検討の 可能性を示しているだろう。
最後に贅言するならば、私はこれまで、日本で日本を対象とした歴史研究にたずさわってきた。今回の研究会に参加したことで、改めて、研究発表や論文執筆に どの言語を使用するかが、常に、誰に向かって発信しているのかを問うているのだと実感せざるをえなかった。報告が日本語で行われたため、議論に加わること が容易であったことは事実であるが、報告および議論をうかがっての印象は、明らかに外国研究としてのそれであった。外国研究としての日本史研究の可能性を どのように考えるかは、明治以後の日本の展開を考えれば、きわめて重要な作業なはずである。本研究会は、そのようなことを一考する契機となった。(市川智生記)

第45回
日時 2008年3月15日(土) 15:00開始
場所 台湾大学台湾文学研究所220室(閲覧室)
(台北市羅斯福路四段一号)
報告者 安達 信裕 氏(広島大学大学院社会科学研究科博士後期課程)
テーマ 「植民地期台湾の公学校における台湾語の利用について」
使用言語 日本語
コメンテーター 陳 培豊 氏(中央研究院台湾史研究所)
参加体験記
 2008年3月15日に台湾大学台湾文学研究所で第45回台北例会がおこなわれた。報告者は安達信裕氏(広島大学大学院社会科学研究科博士課程後期)、コメンテーターは陳培豊氏(中央研究院台湾史研究所)で、13名の参加があった。
 報告のタイトルは「植民地期台湾の公学校における台湾語の利用について」。公学校教育の教授言語として台湾語がどのように使用されていたのか、そしてそ れは時期的にどのように変化していったのかを実証的にあきらかにしようというこころみであった。まず概要を以下にまとめる。
 公学校においては日本語の教育が中心であり、教授言語も日本語のみとされる場合が多かった、かりに台湾語が使われたとしても、それは「国語」教育のため の補助的手段に過ぎなかったと、一般的には理解されている。しかし、1910年代には低学年の修身の授業などは台湾語でおこなわれるのが普通だったようで ある。児童に内容を十分に理解させるためには台湾語の使用が必要であるといった意見が公学校長や教師からも表明されている。しかし1920年代後半あたり には教授用語としての台湾語を否定する意見もあらわれるようになる。台北第三高女主催の修身教授についての研究会の資料には、法規的あるいは教育的な観点 から主張された賛否両論が掲載されている。結局、学校においては日本語を使用すべきであるという原則論が力を持つようになり、教授言語のみならず学校内で の台湾語使用までもが批判の対象となっていく。さらに、台湾語を使わなくても可能な教授法も提案・実践されるなど、学校内における「国語常用」への動きが 強まっていった。
 こうした一連の変化は、台湾人教員と日本人教員のあいだの力関係にも大きな影響をあたえたのではないかと推測できる。台湾語が修身の教授言語でなくなる ことで、それまでの台湾人教員が優位に立っていた空間が日本人教員のコントロール下に置かれるようになっていったのではないだろうか。
 以上の報告に対して、陳氏は次のようなコメントをおこなった。日本統治期に台湾人に「忠君愛国」などを教えようとしたとき、それを日本語でおこなうとい うのは非常に非効率的ないとなみだったはずである。しかし、日本語の使用と日本人への「同化」を単純に一体化させる議論に、台湾語を使わなければ修身の教 授内容を理解させられないといった声はかき消されることになった。このような教育現場からの訴えには、植民地における「二言語併用」の問題を考察するため の手がかりもつかめそうだが、こうした観点は今日にいたるまでの台湾における言語と政治、言語と「近代性」の問題への示唆をも含むものだろう。
 紹介された台湾語使用の是非についての討論で話題になっているのは、「台湾語」であり「漢文」ではない。たとえば統治初期の漢文教育論争から浮かび上が る漢文のハイブリッド性などを参照することで、当時の台湾語と漢文の位置に対する視点も開けてくるのではないか。
 以上を受けての質疑応答では、各時期の資料が検討されているが、同時期の台湾総督府の文教政策との対照によって台湾語利用状況の変化をよりくわしく描き 出せるのではないか、教育関係者の主張や日本人/台湾人教員数の割合の推移にとどまらず、それらがどのように言語使用の実態に影響したのかに踏み込む必要 がある、日本人教員の議論を台湾人教員はどのように見ていたのか、公学校教師はそもそも「台湾語」と聞いてどのような対象をイメージしていたのか、それと 「漢文」とはどうかさなりあっていたのか、といった論点が提示された。
 今回の議論では、一口に「台湾語」と言ったときにそれが音声言語をさすのか、それとも漢文までをも含むのかという、日本統治期台湾の言語の問題を考える うえで非常に重要かつ複雑な問題が浮かび上がった。安達氏があきらかにしようとしている教育現場における台湾語の使用は、「国語」教育にかんする研究のか げに隠れてこれまであまり論じられてこなかったものであり非常に興味深かったが、日本統治期の漢文の問題をめぐる近年の意欲的な研究の成果も参照することで、より時代の文脈にそくした考察が可能になるのではないかと感じた。(冨田哲記)

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