最終更新:2011年2月1日


日本台湾学会台北定例研究会
第49-52回

第52回
日時 2010年4月24日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D503室
(台北市金華街199巷5號)
報告者 佐藤 和美 氏(真理大学応用日語学系)
テーマ 「日台間の人の移動―在台湾日系企業アンケート調査のまとめ―」
コメンテーター 田畠 真弓 氏(東華大学社会発展学系)
使用言語 日本語
参加体験記
 2010年4月24日午後3時より、淡江大学台北キャンパスD503室で日本台湾学会第52回台北定例研究会が開催された。報告者は真理大学応用日語学系の佐藤和美助理教授、コメンテーターは東華大学社会発展学系の田畠真弓助理教授、その他10名が参加した。
 報告のテーマは「日台間の人の移動-在台湾日系企業アンケート調査のまとめ-」。最近は中国人観光客数が永年首位にあった日本人の座を奪おうとする状況下にあるが、日本人入国者107万人(2008年)中約30万人が業務目的であり、日台両国の実務関係やそれに伴う「人の移動」は一層頻繁である点には変わりがない。日本人台湾在住者は約二万五千人と推定されるが、特に駐在日本人ビジネスマンに関する実情調査は経団連や台湾経済研究院の8年ほど前の報告があるものの、その社会的実態に関する最新詳細の調査を欠いている。そこで報告者は台北市日本工商会の加盟企業を対象にアンケートを実施し、調査対象者の約二割にあたる128人から回答を得たことで、その分析評論が行われた。
 アンケート回答者の居住地は北部87%、南部10%、所属企業形態は現地法人(名称の多くが「台湾~」)が69%、支店支社(同「日商~」)12%、日系の資本参加法人が16%であり、企業規模は台湾人従業員数で見ると101-999人が36.5%で最多、また日本人従業員数では1-3人が57.0%で最多となっている。
 人の移動にかかわる出入国や居留制度については、回答者全体の78%が出入国管理に不便はないと回答、外国商務人員の快速通関についても多数者が「利用している」「円滑化に役立つ」等と回答した。だが、2009年よりビザや労働許可等を一本化する形で導入された「就業PASS」については大多数が「制度を知らない」と回答、またビザや居留証申請もほとんどの回答者が「代行者が申請」しており、特に問題を感じておらず、さらに「役員」「招聘」「家族呼び寄せ」等の特殊ビザの申請基準に関しても不満の声はほとんどなかった。ただ、「永久居留証」については、年間183日の滞在が申請の前提となるほか、家族全体で取得できなければ意味が乏しいことなどから、取得者はわずか8人に過ぎず、将来の取得希望についても意見は分かれた。また、対台湾投資優遇のための「梅花カード」は、台湾政府の対日広報が不十分なためか一人の取得者もなく、存在自体を知らないとする回答が100人に上った。就労条件については、専門的資格を日台が相互承認ことを希望する意見はほぼゼロに近く、外国人労働者のビザ等申請の問題についても大多数が雇用の必要がなく該当せずと答えている。旅券関係については、交流協会では平日しか手続きができない点が不便と指摘された。以上、特に「制度よりも台湾人の人情で住みやすく感じる」との回答意見に見られるように、日本企業間には現行制度への不満の声は概して少ないようである。また、経済交流の促進面については、日台EPAを69人が「できるだけ締結すべきだ」、27人が「国際政治上難しい」と回答、不必要とする見方は3人に過ぎず、投資通商の大きな枠組みの進展には期待感が存在するようである。
 田畠真弓助理教授からは社会学的アプローチからのコメントが行われ、これまで日本人技術者による指導など台湾の産業全体に日本人の与えた影響は大きいが、メディアも取り上げることなく研究に乏しいために、今後の研究が待たれることが指摘された。また台湾側の日本人受け入れへの姿勢については当局の姿勢が必ずしも明確ではなく、就労にも学歴関係の条件が厳しいこと、ブルーカラーへのインタビューの必要、日本国内の不況により個人単位で仕事を求めて台湾に来る例も多いのではないかと推測される点などにつきコメントがあった。更に参加者からは、在台日本人には大企業関係者が多いことは確かであるが、中小・零細的な個人移動の増大が台湾社会に持つ意味も興味深いテーマであること、更に永久居留証を取得している参加者からは、入国時も外国人扱いであるなど取得のメリットは特に感じておらず、このような条件を事前に知っていれば取得したいと感じることはないだろう、などのコメントもあった。
 個人的には今回の報告の示す企業社会の「満足ぶり」にやや意外な感もあったが、一方でこのような調査・研究は時間をおいて価値を増して行くものとも思われた。長期在住の日本人に話を聞く際に感じられることだが、わずか十~二十年前の台湾日本人社会の実態も、次第に知ることが難しくなっているかもしれない。企業人は数年で台湾を去る人々が多く、日々の生活は目前の必要と卑近な生活事情に満ちているだろうが、台湾高鉄やMRTの建設等にも関与した人が多いはずである。在台日本人ビジネスマンも将来は台湾社会の重要な一部分として回顧されるかもしれず、当報告のような一見地味ながら即時かつ網羅的な情報蓄積は、考察の材料として価値を持って行くだろう。(小金丸貴志記)

第51回
日時 2009年12月5日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D504室
(台北市金華街199巷5號)
報告者 松永 正義 氏(一橋大学大学院言語社会研究科)
テーマ 「陳映真と七〇年代の台湾」
使用言語 日本語
参加体験記
 2009年12月5日に、松永正義氏(一橋大学大学院言語社会研究科)をむかえて第51回台北定例研究会がおこなわれた。「陳映真と七〇年代の台湾」と題しての講演で参加者は12名であった。
 講演の要旨は以下のとおりである。
 1970年代の東アジアでは、従来の冷戦構造を前提とした思想的対立軸が有効性を失いつつあった。文化大革命は毛沢東による権力奪回運動という重大な問題をはらみつつも、一方で既存の共産党体制への異議申し立てという側面を持ち、また韓国の民主化運動では、ナショナリズムをいかに社会変革にむすびつけていくのかということが課題となった。台湾では文革や米国の学生運動の影響で左傾化した雰囲気のもと保釣運動がくりひろげられていた。それぞれの状況はことなるものの、おそらく相互に影響しつつ運動が進行するのを目の当たりしながら(松永氏は)陳映真を読んでいた。
 1970年代の台湾の政治運動は「五四言説」とでも呼ぶべき、急進自由主義的、五四運動的な議論をバックボーンとしていた。これが思想面で五四運動に親近性を持つことによるものだったのか、あるいは政治的危険を回避するための方略だったのかは検討の必要があるが、1979年の美麗島事件はそうした思想状況の転換点として位置づけることができる。すなわち、同事件において民主化運動と台湾ナショナリズムが合流したのであり、80年代になると、本土化論が政治運動の対立軸として立ちあらわれることになる。運動の主体は体制内反対派から党外勢力へとうつり、従来、外省人を排除するかたちで主張されていた台湾独立論は、いまここにある台湾による国際的人格の獲得をめざすようになった。そして、70年代の郷土文学論争においてすでに葉石涛との分岐があきらかになっていた陳映真は、本土化論に対抗すべく、たとえ保守派であっても中国民族主義者との共闘を選択するようになる。
 陳映真の文学創作は第一作「麺攤」を発表した1959年以降、4つの時期に分けることができる。すなわち、1968年に民主台湾同盟事件で逮捕されるまでの第1期には運命に抵抗することのできない人間、およびその悲しみがえがかれる。1975年の出獄後、1982年までの第2期は「批判的リアリズムの時代」と位置づけられるが、この時期の作品にはあまり好感が持てない。続く第3期(~1994年)は、焦点が「運命」から「歴史」へとうつり、また消費文化に対する批判があらわれる時期である。しばらく作品を書かなかった時期をへて1999年からの第4期には、第3期の「歴史」の発見を具体化する作品-たとえば大陸に残留した国民党軍の台湾人兵士や、民進党政権のもとでも引き続き雇われる国民党の特務などがテーマ-が発表される。なお1985年から1989 年までは、計47期をかぞえた雑誌『人間』の編集にあたり、社会問題の発掘につとめていた。
 陳映真は1988年に中国統一連盟の創設にかかわり主席に就任する。もし中国革命が80年代に堕落したのだとすれば、白色テロの犠牲者は無駄死にしたことになるのではないかと彼は厳しく指摘する一方で、天安門事件を学生たちの暴挙と断じ、事件から1年とたたない1990年には、中国統一連盟代表団をひきいて北京を訪問し江沢民と会見している。彼の言動は矛盾に満ちているようにも見えるが、実はかなり確信犯的にこうした矛盾を演じているのではないだろうか。
 以上を受けた質疑応答では、左派そして統一派としての陳映真の立ち位置、さらには台湾社会における左/右派、あるいは独立/統一派の意味にかんする話題が多かった。左翼思想は戒厳令下の台湾の言説空間においても一定程度の影響力を持ち続けていた、白色テロの摘発者にはむしろ左派が多かったのではないか、 80 年代以降、文革の実態があきらかになるまでは、左派であることと統一派であることは矛盾するものではなく、中国革命の延長上に台湾の解放を構想することも不自然ではなかった、民主化運動が進展する過程でも、ある時期までは台湾と中国/中華民国というアイデンティティが未分化な状態が続いていた、といった指摘が松永氏からあった。また、沖縄返還運動や在日台湾人研究者の思想的立場にも話がおよんだ
 執筆者の特権での余談だが、松永氏も冒頭で指摘したとおり、本例会の会場で筆者の勤務先でもある淡江大学は、7、80年代台湾の文化風景をイメージするにあたって少なからず興味をかきたてられる空間である。陳映真は淡江大学の前身、淡江英語専科学校(卒業時は淡江文理学院)の出身である。「校園民歌」(キャンパスフォーク)草創期の「淡江事件」で名を知られる李雙澤も淡江文理学院に学んだが、キャンパスの一角には彼のささやかな記念碑が設置されている。淡江事件の年に淡江に入学したというある同僚は、なつかしそうに筆者に当時の雰囲気を語ってくれた。また、李雙澤作曲の名曲「美麗島」の歌詞は詩人陳秀喜の「台湾」を改作したものだが、それを手がけたのは、数年前に退職するまでドイツ語学科で教鞭をとっていた梁景峰である。(冨田哲記)

第50回
日時 2009年11月14日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D322室
(台北市金華街199巷5號)
報告者 林 初梅 氏(台灣師範大學台灣文化及語言文學研究所)
テーマ 「台湾郷土教育思潮のなかの「日本」―「近代日本像」は如何に語られているか?」
コメンテーター 松永 正義 氏(一橋大学大学院言語社会研究科)
使用言語 北京語
参加体験記
 本日11月14日(土)淡江大学台北キャンパスにて、第50回台北例会が行なわれた。参加者は23名。院生を中心とした日本人が半数以上を占める中、教育や文学分野の台湾人研究者の姿も見られた。報告者である林初梅氏は、2007年に一橋大学院言語社会研究科の博士課程を修了し、翌年9月より台湾師範大学台湾文化及台湾語言文学研究所にて、教鞭を執っている。今回の報告は、今年2月に東信堂より出版された『「郷土」としての台湾 郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』の内容を元に、『台湾郷土教育思潮のなかの「日本」―教育の台湾化、そして日本統治下の「過去」の受容問題』というテーマで進められた。
 台湾における「本土化」(台湾化)教育と日本植民統治の連続性の受容との関係が議論の焦点となった。まず、台湾社会において「日本統治時期の台湾」はどのように解釈されているのか、『認識台湾』とそれ以後に出た教科書にはどのように記述されているのか、台湾人がアイデンティティについて考える際に「日本」という歴史記憶の要素はどのように利用され、文化的アイデンティティへと転化しているのか等が問題意識として、林氏から提議された。これらの問題を考えるために林氏は具体的な例として『認識台湾 歴史篇』の第七章と第八章の節ごとのテーマと、記述に対する批評者の主だった意見を表にまとめ提示した(例えば「日本は台湾を南進の補給基地にした」という記述が批評者によって「南侵の基地」に差し替えるべきだと提案された事例等が紹介された)。更に、後藤新平のアヘン政策を、教科書会社各社がどのように記述しているかも比較。これらの具体的動きを通して、日本統治への評価が90年代の台湾教育界では「手探り」の状態であったことを指摘した。
 次に、日本時代に作られた郷土読本に対する評価が、『羅東郷土資料』復刻版の序文などを例に提示された。参加者の興味を強く引いたのは、台北にある士林小学校や日新小学校にいまだ残る日本時代の石柱や日本風デザインの校章の画像での紹介であろう。これら目に見える物にまで殖民統治の連続性、台湾社会の受容の様子が見てとれる恰好の例と言えよう。
 コメンテーターの一橋大学教授・松永正義氏からは流暢な中国語で、日本においても日本の植民統治は評価が分かれていること、五四運動が戦前台湾の郷土文学に影響を与えたように、「中国」という要素も台湾人の郷土意識を考える上で無視できないのではないか、「日本統治下の近代化」についてはあくまで「植民地的近代化」という性質から見つめるべきである、といった指摘が挙げられた。
 参加者からも質問やコメントが多く出た。紙幅の都合でポイントのみ紹介すると--○教科書の記述、編纂、審査を誰が、どんな基準に基づいて行なうかというと、現時点ではより多数の人に受け入れられやすい意見・見方が採用される傾向にある。○学校という場での歴史認識のあり方も、例えば創立年数を日本時代から数えるか、戦後から数えるかといった点から看取できる。その他、「郷土」「本土」といった用語の使われ方についての現状や、日本語で言う「近代」とは中国語で「現代」で、日本語の「現代」は中国語の「当代」にあたる--といった議論も活発に行なわれ、会場は盛り上がった。
 また、有名作家の著述やテレビ番組や映画作品等、学術や教育界以外からの歴史認識形成に与える影響もあるのではないか、という参加者からの指摘もあった。
 私個人は、林氏の「日本統治の連続性には受容されるものとされないもの、受容できる人とできない人がいる」という主張が印象的だった。日本語世代の歴史記憶、アイデンティティを研究するため日本語で聞き取り調査を行なう人間として、例えば日本語を上手に話す=親日家、日本の植民統治を肯定している、と考えるような短絡性に陥ってないか、自分に深く問うてみたいと思った。(津田勤子記)

第49回
日時 2009年7月11日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D206室
(台北市金華街199巷5號)
報告者 藤本 典嗣 氏(福島大学共生システム理工学類)
テーマ 「民進党政権期における台湾の地域構造の変容-本社・支所立地の観点から」
コメンテーター 田畠 真弓 氏(東華大学社会発展学系)
使用言語 日本語
参加体験記
 2009年7月11日、淡江大学台北キャンパスで第49回台北例会が行われた。報告者は藤本典嗣准教授(福島大学共生システム理工学類)、コメンテーターは筆者の田畠真弓(国立東華大学社会発展学系)で、5名の参加があった。
 報告のタイトルは「民進党政権期における台湾の地域構造の変容-本社・支所立地の観点から」。国営企業の民営化やハイテク産業の台頭、そして台湾企業の中国進出といった近年の変容が、台北市を中心とした一極集中型都市システムにどのような影響を与えるかを実証的に明らかにしようとする斬新な試みであった。以下、報告の概要をまとめる。
 通常、先進資本主義諸国では民主化や中央政府権限の地方政府への移譲から経済機能の首都一極集中が起こりにくいというのが定説になっている。しかし、東アジア諸国の中で首都への一極集中が著しい国土構造が見られるのが日本、韓国、台湾等だという。対照的に、社会主義国家である中国の首都、北京は経済中心地から地理的に大きく離れている。経済機能の首都一極集中化という現象は、台湾社会のどのような背景から生まれ、今後どのような変貌を遂げるのだろうか。このような問題意識から、藤本教授は既存の台湾企業研究を回顧し、台湾企業の本社・支所の立地に着目した研究が欠落している点を指摘、マクロとミクロのギャップを埋め、台湾全土におけるオフィス立地構造や経済機能の台北一極集中がもたらす問題点について明らかにするというセミマクロ的な分析の枠組み構築に取り組んでいる。
 日本の場合、上場企業の本社立地は首都東京に集中し、関西の本社立地は減少傾向にある。一方、台湾の事業所立地構造を見ると、北部の伸び率が相対的に低く、中部、南部において高い成長率となっている。また、上場企業のオフィス立地パターンでは電子業の上場企業が増加し、絶対数では台北市内に本社立地が集中しているが、その一方で新竹サイエンスパークが大きく成長している。さらに政治的な影響から見ると、民進党政権の誕生で党営企業のスリム化が進み、 2008年3月、国民党に政権交代してからもこうした「小さい政府」を目指す政策的なコンセンサスは維持されているため、2000年代以降、民営化の一層の推進で党営事業が縮小しつつある。藤本教授は、本社の台北集中は戦後の開発独裁のプロセスで、政治機関が集中する台北での国営企業の創業を促進したことによるものであり、民主化やグローバル化の進展を通じて立地構造が大きく変化しつつあると分析している。特にハイテククラスター(産業集積地)の果たした役割は大きく、2000年代以降、新竹サイエンスパークに代表されるような、政府機関と日常的な対面接触が困難な台北市以外の北部(新竹県市、台北県の中和や新店)という地理的条件において、民間のハイテク企業を中心とした本社の増加が見られるようになっている。新竹サイエンスパークのエレクトロニクス企業はそのほとんどが米国で理工学系、経営系の学位を取得して帰台した人材や公的研究機関(工業技術研究院等)の技術者が創業しており、開発独裁や党営事業との関連性は極めて低い。このことから、企業の創業・運営において台北市所在の政治及び行政機関の影響力が低下しつつあることが伺える。
 こうした一連の変化をふまえて、藤本教授はさらに中国沿海部における台湾企業の立地行動と制度的諸要因についても言及した。米国、日本、韓国、台湾から中国に向けての生産工程の移転は、雁行形態論(赤松)、プロダクトサイクル論(バーノン)、多国籍企業論(ハイマー)等の枠組みから国民経済相互の産業構造の国際調整(低廉な労働力、中国市場の潜在力、産業集積を求めて進出する立地)という視点から論じられる場合が多い。しかし、藤本教授の分析によれば、中国における省別、都市別の産業立地における外資は、国別に偏向して分布しており、台湾企業の場合は制度的要因が投資行動に大きく影響している。例えば、日本企業は北京に集中しているが、台湾企業は華南地区に集中する傾向がある。中国政府は台湾企業に対して外資としてではなく「自国籍待遇」を適用しており、そのような制度的な要因が立地要因に影響を与えているという。
 以上の報告内容に対して、筆者は以下のようなコメントを行った。藤本教授の分析が示すように、党営企業の縮小、ハイテククラスターの発展に伴い経済機能の台北一極集中化は緩和されつつある。ここに「小さな政府」を目指す政策的な意図が表れているのかもしれない。しかし、その一方で台湾政府は新竹のほか、桃園、台湾中部、南部のサイエンスパークの発展に力を入れており、台北市の本社立地一極集中が急速に緩和される可能性がある。インフラ整備で台湾全国を短時間で移動できるようになり、ハイテククラスターの運営効率が高いということになれば、海外企業からの受注が今まで以上に増加することが容易に予想できるためだ。その意味で、政府の政策的な支援は台湾経済の発展に今後も強い方向性を与えていくのではないか。近年、経済地理学の世界では組織、技術、地理的空間相互のコーディネーションを一つの社会システムとして把握するアプローチが注目されているが、企業と地理的空間との相互関係を分析する上で、行政、すなわち国家が与える影響についても引き続き検討する必要があるのではないか。
 以上を受けての質疑応答では、中小企業の本社機能は都市一極集中型になる傾向があり、企業の規模の大小を考慮して本社の立地構想を分析するべきではないか、民進党政権がオフィス立地パターンに影響を与えたのは党営企業の縮小という現象だけだったのか、民進党政権は地方分権化にどのような影響を与えたのか、地方分権化とは民進党政権が打ち出した明確なビジョンだったのか、外国人労働者の大量流入が本社機能の地方分散に影響を与えたのか、直轄市の増加が与える影響の是非等の様々な興味深い論点が提示された。
 今回の報告は、経済地理学の領域から台湾企業の本社立地構造というテーマに切り込み、既存の台湾経済や台湾企業組織に新しい視点を与えただけでなく、アジア資本主義発展研究の新たな可能性にまで踏み込んだ斬新な分析結果となっている。今後、このような経済地理学、社会学、経済学、経営学、政治経済学といった社会科学の様々な理論的視角が台湾研究に取り込まれ、台湾経済や社会発展のより深く緻密な理解に大いに貢献することだろう。(田畠真弓記)

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