最終更新:2011年3月31日


日本台湾学会台北定例研究会
第53-56回

第56回
日時 2011年4月2日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D303室
(台北市金華街199巷5号)
報告者 顔 杏如 氏(国科会人文学研究中心博士後研究員)
テーマ 「「島都」意象─在台日本人的都市空間書寫」
コメンテーター 蘇 碩斌 氏(国立陽明大学人文與社会科学院)
使用言語 北京語

第55回
日時 2011年1月15日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D303室
(台北市金華街199巷5號)
報告者 張 暁旻 氏(国科会人文学研究中心博士後研究員)
テーマ 「日治時期公娼制度之導入背景─以軍政期下的<性>問題為中心」
コメンテーター 楊 翠 氏(中興大学台湾文学研究所)
使用言語 北京語
参加体験記
 2011年1月15日午後3時、淡江大学台北キャンパスD303教室を会場として日本台湾学会の第55回台北定例研究会が開催された。報告者に国科会人文学研究中心博士後研究員の張暁旻氏を、コメンテーターに中興大学台湾文学研究所の楊翠氏を迎え、日本統治期の公娼制度導入の背景とその問題点をめぐって、16名の参加者とともに活発な議論が行われた。
 今回の張氏の報告は、東アジア地域において空間的な広がりを見せた帝国日本の性管理システムが、台湾社会においてはどのように導入されていったのか、すなわち台湾における公娼制度の形成過程とその背景に関して、当時の官報資料や新聞・雑誌資料などの一次資料を精査しながら検討を進めた歴史実証研究である。
 「一、前言」ではまず、分析の対象期間を、日本軍の台湾上陸の1895年5月末から「貸座敷並娼妓取締規則」が発布された1896年6月8日とし、1896年4月民政の実施後に導入された公娼制度の核となる法令「貸座敷並娼妓取締規則」の発布をめぐって、

(1) 台湾割譲から公娼制度公布までの約一年間に、植民統治政府はどのような「性」問題に直面していたのか
(2) 統治当局が緊急に公娼制度を実施せざるを得なかった原因はどのようなものであるのか、また、統治初期の「性管理」が植民統治政策において、どのような特徴と意義を有しているのか

の2点を分析すべき問題として提起した。
 「二、軍政下における性暴力」では、民政統治以前の1895年5月から1896年3月の期間について検討を行った。これは、日本軍が台湾に上陸、台湾民主国軍を制圧し軍政を終結させるまでの期間に当たるが、この間、日本軍の軍紀は乱れ、略奪・暴行が横行し、軍隊という妻帯の許されていない男性集団が統治者であったゆえに性的暴力が頻発していた。しかし、この時点では、こういった不法行為に対し訓告もしくは軍法処置にとどまっており、公娼制度に関して議論されることはなく、積極的な性管理制度の実施には、いったいどのような要因が強く影響したのかと疑問を呈す。 
 「三、取り巻く性病の危機」から、公娼制度導入の核心的要因について言及していく。張暁旻氏は、新聞・雑誌記事と陸軍省統計資料から、日本軍男性内地人と本島人娼婦との間に親密な接触があり、特に城内の艋舺市街地などでは、風紀に著しい乱れが見られただけでなく、台湾各地の兵站病院で治療された多くの疾患が「花柳病」であったこと、また、傷病全体から見ればそれほど多いわけではないが、性病患者が治療に要する日数は長く、さらに、台湾植民地戦争に関与した師団に最も多く性病患者が発生していた点を指摘した。ここで氏が最も注目したのは、性病の蔓延による兵力損失に言及した統治政府の見解であった。
 「四、台湾の公娼制度を支えた陰の存在-陸軍軍医総監石黒忠悳」では、台湾における公娼制度導入にあたって隠然たる影響力を発揮した軍医総監・石黒忠悳の報告を検討した。1895年12月に提出された意見書は、公娼制の実施は壮齢の日本軍兵の性管理において必要であり、また、兵力維持という観点からも性病検査を経た公娼を設置することは不可欠であるという点で、嘉義軍医長の長尾修一の見解と一致していた。さらに、1896年3月、台湾における衛生政策上の重鎮が一堂に会して行った「東京星岡茶寮会談」でも、石黒が、性病の蔓延とアヘン飲用の習慣への憂慮から、内地より娼妓を送り、それをもって早急に日本軍男性の性管理を行うよう進言していた。1896年4月25日の「公娼設置之建議」を経て、5月28日、総督府が各地方県庁に娼妓酌婦・貸座敷及び飲食店等に対する取締規則の制定を通達し、1896年6月8日、台北県に、続いて、台中県、澎湖島、台南に公娼制度に関する法令が発布され、性管理ネットワークが確立し、台湾各地で内地人娼妓が激増していく。
 「五、結語」では以下の3点が総括として述べられた。

(1) 統治当局が公娼制を導入した最大の要因は、在台内地人の性病感染問題であり、兵力の損失を防ぐ意味で実施された。
(2) 公娼制実施の最大の目的は、在台内地人男性の「安全」な性管理であり、「衛生的」で「安全」な性の提供者として内地人娼婦が移入され、本島人娼婦は衛生政策上の対象外であった。
(3) 統治初期の植民政策における性管理制度は、内地人と本島人を区別して管理する統治差別主義に基づくものであった。

 以下、私見であるが、植民地台湾における性管理制度は、当初、在台内地人社会の安全性を確保する形で導入されたとする点に大きな異論はない。おそらく、張暁旻氏のこれに続く研究では、本島人の売買春管理の動向にも言及されているものと想像される。ただ、内地人娼妓の渡台後、さらに性病が蔓延し風俗が乱れたとする点など、今一歩資料的な裏付けがほしいと思う箇所もあった。敏感なテーマだけに、より慎重で一層丹念な歴史資料との格闘は、確かに必要であろう。しかし、本研究が日本の殖民統治期に関する歴史研究として重要な意味を持っていることに疑いはない。参加者からの指摘にもあったように、ジェンダーやポストコロニアルの観点から見ても、非常に意義深い問題を提起している。日本の近代化は、植民統治戦争を通じた空間的拡大と平行しつつ獲得されたものであるが、その過程で醸成されていった「不潔ナル土人」「非衛生」というイメージは、外地女性に刻まれるスティグマといった観点からも検討されるべき問題だからである。事実「悪習ある不潔な彼地」であったかどうかというより、そのとき本島人に向けられた「眼差し」がどのようなものであり、それがどのようにして正当化されていったのかが重要なのである。また、第一次世界大戦前後には朝鮮においても公娼制が確立し、相当数の朝鮮人娼妓の渡台、さらには台湾を経由した華南地方への娼妓の移動現象が見られ、台湾で実施された公娼制が、東アジア全域に拡大した性管理ネットワークの重要拠点として機能していたことなども見逃すことはできない。
 本研究は、支配―被支配関係のメカニズムやその成立過程を紐解く植民地歴史研究のひとつである。しかし、その文脈において、帝国主義的及び父権的な暴力性を補完するイメージの創出や、公娼をめぐる「ジェンダー」、「衛生」、「身体」といった問題についても議論されたことは、今回の研究会におけるひとつの収穫であった。今後、それらの解明に向けても検討が深められれば、より一層豊かな研究成果として結実するのではないかと期待してやまない。(百瀬英樹記)

第54回
日時 2010年10月30日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパスD402
(台北市金華街199巷5號)
報告者 王 恩美 氏(国立台湾師範大学東亜文化及発展学系)
テーマ 「「中韓友好条約」締結過程における韓国華僑問題」
コメンテーター 朱 立熙 氏(「知韓苑」創設者兼執行長,政治大學韓文系、新聞系講師)
使用言語 北京語
参加体験記
 2010年10月30日に淡江大学台北キャンパスで、14名の参加者を集め第54回台北定例会が開催された。台湾師範大学東亜文化及発展学系助理教授王恩美氏が「『中間友好条約』調印過程における『韓国華僑問題』(1952-1964)」と題した報告を行い、それを受けてコメンテーターとして朱立熙氏 (「知韓苑」創立者兼執行長、政治大學韓文系・新聞系講師)が韓国華僑の置かれている歴史と現状について述べた。
 王氏が今回報告したのは、1964年11月に締結された「中韓友好条約」をめぐって、1952年以降交わされた中華民国と大韓民国両国の外交文書や記録などから読み解かれる両国の思惑と、韓国政府の態度に大きな影響を与えた在韓華僑の存在についてで、内容は以下の通りである。
 中華民国と大韓民国はともに反共を国是とし、「友邦」、「兄弟之邦」と称された。蒋介石とパク・チョンヒ(朴正煕)は盟友のようなイメージを持たれており、友好関係のピークであった60年代に「中韓友好条約」が結ばれている(1964年11月)。しかし実際は、早くも1951年12月に中華民国側は駐韓国大使館を通して「通商航海条約」の締結を申し入れたが、当時まだ朝鮮戦争中であった韓国は、戦時の安全保障の観点から「華人入国には門戸封鎖、域内の華僑が出国した場合の再入国不可」という立場を採ったことから条約締結は困難となり、最終的に韓国の拒絶により締結は果たせなかった。
 1952年1月に中華民国は改めて「友好条約」の締結を申し入れたが、再び韓国側の拒否にあった。その背景には、まだいずれの国とも同様の条約を結んでいない韓国にとって、今後類似の条約締結に大きな影響を与えるであろう「中韓友好条約」については、長期的な影響を考えて慎重を期するべきであるという論調とともに、両国民の出入国に対して拒否感があったためであった。韓国政府は同条約を在韓華僑に対する優遇条約であると見なし、在韓華僑に最恵国国民として待遇を与えれば、韓国の商業活動が華僑に牛耳られてしまうことを心配したのである。
 1950年代後半には、「中韓軍事同盟」を締結する可能性は低まり、中華民国側は再び積極的に「中韓友好条約」締結に向けて動き出し、1957年に再び「中韓友好条約」の草案を出したが、韓国側は条約草案の4、5、5条に問題があるとして受け入れなかった。とりわけ韓国側が問題にしていたのは在韓華僑の自由な出入国の権利を認める5条と、身分、財産、経済活動の保障を認める6条であった。
 その後、1964年8月に韓国外務省は友好条約の調印に同意することになるが、その背景には中国共産党が存在感を増したことによる国際情勢の変化、アメリカのベトナム戦争、パク・チョンヒの拡張外交志向などがあった。また、それまで懸念されてきた在韓華僑の経済力の衰退や、貿易相手国が中華圏である中国・香港から日本にシフトしてきたことも挙げられる。実際、在韓華僑は1960年代にはそのほとんどが小資本の飲食業に従事する者が主で、韓国経済にとってなんら脅威となるものではなかったが、「経済攪乱」、「密輸」、「不法入国」、「犯罪」などの戦後の動乱期の頃のマイナスイメージが、韓国政府の友好条約締結拒否という態度形勢に影響を与えていたのである。
 「中韓友好条約」をめぐっては、中華民国側と大韓民国側の思惑の違いは明からで、1950年代の「台湾海峡危機」後「反攻大陸」の可能性は低まり、北京政権の国際的な地位が高まる中、中華民国側が実質的な必要度よりも政治的意義を重視していたのに対して、韓国側はあくまでも「在韓華僑管理」という実質的な要因を重視していたのである。
 また、条約調印にあたっての「同意記録」の解釈についても双方で異なる理解であった、中華民国は「同意記録」は双方の理解を記録したものであって、条約の不可分の一部とは見なしていなかったのに対して、韓国側は条約の一部であり、条約同様の拘束力を持つとの理解であった。韓国では1965年11月10日に条約と「同意記録」が国会で批准され、官報で公布された。韓国側の意向から「同意記録」では在韓華僑に対する制限を設けたが、中華民国側は条約締結の「政治的効果」を強調するあまり、在韓華僑の権益を犠牲にすることを惜しまず、「中韓友好条約」を実質的内容が伴わないものとしてしまったのである。そして、友好条約締結をめぐる1962年の韓国外務省の検討内容から、在韓華僑に対する韓国政府の見方が見て取れる。それは①条約を締結したら多くの中国人が韓国に入国するのではないか、②自由な出入国により長期不法滞在者や密輸、脱税などの社会秩序を脅かす状況をもたらすのではないか、③勤勉で結束力が強く、経済活動に長ける中国人に対して経済活動上の制限を緩めたら、法律が中国人の経済発展を保障することになるのではないか、④東南アジア諸国の対華政策は処理困難状態にあることから、韓国も華僑の経済活動に疑念を抱かざる得ないといった点である。けれども、実際問題、1950年代以降、在韓華僑の経済力は韓国経済を脅かすレベルにはなく、さらに居住、出入国、土地所有など多くの権利が厳しく制限され、華僑の勢力は非常に衰退していたのである。
 「中韓友好条約」締結をめぐって、「韓国華僑問題」はつねに障害となる要素であり、両国の対立と争議の焦点であった。また中華民国にとって言えば外交政策の妨げでもあった。そして「友好条約」締結の過程から見えてくるのは、表面上なんら衝突することはないように見えていた両国間にも実は利益衝突が存在していたということであり、そこから東アジアの反共同盟間にも多様で複雑な一面があるということがわかる。
 以上の王氏の発表は、外交文書や記録から浮かびあがってきた「友好条約」締結をめぐっての在韓華僑ファクターであったが、その報告を受けて、「韓国華僑とはいかなる人々なのか」という問いに答える形で朱立熙氏が韓国華僑の置かれている歴史と現状について述べた。もとより排外的な韓国社会にあって、外国人として生きる難しさに加え、韓国居住そのものや、経済活動や土地所有など法的にも数々の制限を加えられてきたその歴史や、中華民国との国交断絶、中華人民共和国との国交樹立などに翻弄されている近年の状況、進学のために台湾に「帰国」した若い世代もまたアイデンティティの問題に悩むことになる・・・といった、「誤った時代に、誤った土地」に住むことになってしまった在韓華僑たちの悲哀が語られると同時に、誰にも答が出せない「それではどうしたらいいのか」という問いが投げかけられた。
 会場からは、在日外国人の権利闘争として指紋押捺反対運動に積極的に関わっていた80年代の日本の在日コリアンとの比較についての意見が出されたが、さまざまな制限から学術界に進む道もなく、政界にも経済界にもオミットされた在韓華僑には、自身のオピニオン・リーダーが育たなかったという事情があったとの説明があった。また当時、指紋押捺反対運動に関してある在韓華僑留学生が、留学生たちの発行する雑誌に韓国における華僑の置かれている差別的な待遇を告発する文章を寄せたところ、韓国人留学生の反対に遭って掲載が見送られたという実話が、雑誌刊行に関わっていた参加者から披露された。韓国社会の華僑に対する厳しい見方が、「対外輸出」されていたことを知り興味深かった。
 ただ、現在では状況は少しずつ変化している。キム・デジュン(金大中)政権下、外国人をめぐるいくつもの差別的な規制が撤廃されていることや、中国経済の台頭とともに、大手企業が中国語人材を即戦力として欲するような状況になって、それまで不可能だった大企業への就職も一部実現していることや、在韓華僑が、直接中国に投資してレストラン経営や土地購入などを始めるなどの新たな動きも見え始めている。とはいうものの、世界で唯一「縮小する中国人社会」に生きる在韓華僑が、王恩美氏という若き研究者を得て、これまでの不可視的な状況を脱し、さらに今回のように台湾や日本の研究者にその存在と歴史を知ってもらう機会を得たことは、在韓華僑と縁ある者として、個人的にも喜ばしく思っている。在韓華僑は、その歴史だけでなく、移民と「揺れる本国」の関係、移民の権利問題、自国文化保持とアイデンティティ、言語習得など、「越境」に関わる今日的なトピックで語りうる多くの興味深い側面を持っており、華僑自身の研究者輩出を含め、それぞれの分野の今後の研究を期待したい。(永井江理子記)

第53回
日時 2010年7月31日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパスD326室
(台北市金華街199巷5號)
報告者 川上 桃子 氏(アジア経済研究所)
テーマ 「『破壊的革新』の担い手としての台湾企業の興隆:IT機器産業の事例」
コメンテーター 田畠 真弓 氏(東華大学社会発展学系)
使用言語 日本語
参加体験記
 2010年7月31日午後3時から、淡江大学台北キャンパスD326室で日本台湾学会第53回台北定例研究会が開催された。報告者はアジア経済研究所の川上桃子氏、参加者は計15名であった。川上氏の報告「『破壊的革新』の担い手としての台湾企業の興隆:IT機器産業の事例」の概要は以下の通りである。
台湾の電子産業の発展は、従来、受託生産取引の拡大を通じて実現されてきた。ところがここ数年、台湾発のブランド企業が世界の電子産業の表舞台で頭角を現し、米・日企業の手ごわい競争相手に成長しつつある。これは、台湾の産業発展が新たな段階を迎えたことを示唆する重要な変化であると考えられる。
この新たな現象は、台湾企業による製品イノベーションの活発化の表れとして理解できる。本報告ではAbernathy&Clark[1985]によるイノベーションの枠組みと、Christensen[1997]の「破壊的革新」概念を手がかりに台湾の自社ブランド企業による革新を検討した。
 具体的な事例として報告がとりあげたのは、ネットブック、液晶テレビ、簡易ナビゲーションデバイス(PND)である。アスーステックによるEeePCの開発は、典型的な「ニッチ創出型革新」であり、かつ「破壊的技術」の実践例であった。このイノベーションの重要な意義は、ノート型PCメーカーとしては周縁的な存在だったアスーステックが、産業秩序を完全に掌握していたインテルの行動に大きな影響を与えた点にある。またPNDと液晶テレビでは、ビジオやガーミンのPND部門のように、表向きは米国企業だが、実質的には台湾企業と呼んでもよいような「広義の」台湾系のブランド企業が台頭しつつある。
 以上のような台湾発のブランド企業の興隆の背景としては、①これらの新興ブランド企業が、台湾の受託生産企業との緊密な協業とこれらの企業との交渉力を巧みに活用することで自らの競争力を高めてきたこと、②近年の電子産業では、製品の中核的な機能を一つのチップに統合化する動きが進んでおり、これが、製品開発をめぐる先発企業と後発企業の技術格差を縮める作用をしていること、が挙げられる。
 台湾企業のなかからついに、製品市場の表舞台に登場し、日本や米国のブランド企業の手ごわい競争相手となる存在が出現しつつあることで、受託生産を通じた補完的・協業的な関係を基軸としてきた日台企業間の関係には変化が生じると考えられる。台湾の産業発展は新たな段階を迎えつつある。
 報告に対するコメントは東華大学社会発展学系の田畠真弓氏がつとめた。発言の要旨は以下のとおりである。台湾のIT機器産業は、「そこそこ品質があって安い」製品を作ることによってニッチ市場を拡大させていったが、この点で川上氏がクリステンセンの理論をもちいて分析をおこなったのは的確であり、その意義を高く評価したい。クリステンセン自身も6月末に来台した際、台湾のアスーステックは破壊的革新の代表例だと発言している。では、そうした破壊的革新はいかなる条件のもとで出現、発展するものなのか。川上氏やクリステンセンは受託生産を重要な要素としてあげているが、あらゆる途上国において受託生産が破壊的技術を生み出すことになるのか。生産を受託する側は発注側のさまざまな要求に対応しなければならず、非常にきびしい環境におかれることになるが、途上国が先進国に対抗するにあたって破壊的技術がはたしうる役割はどの程度のものなのだろうか。
 参加者からは、台湾企業のOLPC(One Laptop per Child)運動への取り組みや、今日さかんに喧伝されているMIT(Made in Taiwan)製品などと報告内容との関連、日本企業などが持続的技術から破壊的技術へとシフトできないことの背景、日本企業の台湾OEMメーカーに対する協力のあり方、台湾企業にとってのブランドを持つことの意味、などについて質問や発言があった。
 複数のブランド企業から製造を受託される立場を利用し、ニッチ市場から主要市場へと打って出る力を獲得した台湾のIT企業のしたたかさ、巧妙な情報蓄積におおいに感心させられる報告であった。しかし、質疑応答である参加者から指摘があったとおり、今日までの「成功」は、台湾IT企業が今後、破壊的技術を利用した他勢力の追い上げにさらされることをも意味している。「アマチュア」の消費者のニーズをうまくすくいとることに成功し、それによって競争力をも高めてきた台湾IT企業は、あらたなステージにおいてみずからの立ち位置をどのように設定していくのだろうか。(冨田哲記)

注記:報告内容にかんする部分は川上氏提供の報告要旨により、コメント以下は冨田があらためて執筆した。川上氏に記して感謝申しあげる。ただ本体験記すべての文責は冨田にある。

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