最終更新:2012年4月5日


日本台湾学会台北定例研究会
第57-60回

第60回
日時 2012年3月3日(土) 15:00開始
場所 国立台北教育大学行政大楼A605室
(台北市大安区和平東路二段134號)
報告者 松田 京子 氏(南山大学人文学部准教授/台湾大学歴史学系訪問学人)
テーマ 「『原始芸術』言説と時間認識―台湾原住民の『固有文化』をめぐる言説の展開」
コメンテーター 張 隆志 氏(中央研究院台湾史研究所副所長)
使用言語 日本語
参加体験記
 2012年3月3日、国立台北教育大学において、記念すべき第60回台北定例研究会が開催された。今回の報告者は南山大学人文学部日本文化学科の松田京子氏(現在は台湾大学歴史学系の訪問学人で台湾に滞在中)で、「『原始芸術』言説と時間認識ー台湾原住民の『固有文化』をめぐる言説の展開」と題した報告を行った。それに対して、平埔族群史の研究でも有名な中央研究院台湾史研究所の張隆志氏をコメンテーターに迎え、16名の参加者のあいだで活発な議論が行われた。
 今回の松田氏の報告では、植民地下の台湾において台湾原住民の生活の中に発見された「原始芸術」が、日本「内地」の「芸術」あるいは「美術」をめぐる言説状況とどのような影響関係をもったのか、ということが中心に述べられた。
 発表内容は三つの柱に分けられた。まず、「Ⅰ.植民地台湾における原住民の『固有文化』への関心」という部分では、統治者である日本が台湾原住民の日常生活の中の芸術を「発見」し、それを「このままでは消滅してしまう」という危機感のもと、積極的に蒐集していたことが史料とともに示された。
 次に、「Ⅱ. 植民地台湾における『原始芸術』という言説の展開」では、原住民の彫刻や、舞踏、音楽などが「非常に幼稚だが、素朴で一種脱俗した美を有する」とされ、いわゆる「原始芸術」として紹介された現象を取りあげた。ここで興味深かったのは、「蕃地」の「内地化」政策が浸透していったという背景があったことである。つまり、原住民の「原始芸術」を守ろうと声高にいいながら、実際にはその芸術の基盤となるべき原住民の生活はどんどん「内地化」(あるいは近代化)していったという矛盾があった。そして、原始芸術の重要性を語ると同時に「原住民がいかに『原始文化』の状態に留まっているか」を主張し、従って彼らの生活の中の変化が常に軽微なものとして語られる、という状況を引き起こしていたこと、その不合理な時間認識についての論説も非常に興味深かった。
 最後に「Ⅲ. 宗主国日本における『原始芸術』という言語空間」では、植民地である台湾に対し、宗主国の日本内部ではどのように「原始芸術」論が展開されていたか、ということが述べられた。当時の特徴として、さまざまな分野で「日本人とは誰か」という議論が避けられないテーマであった、という背景がある。そのため、1930年代から出版された『日本文化史大系』冒頭に「日本民族論」がおかれ、「石器や土器を作ったのは日本人か」ということから議論されていた。その日本文化の源流、あるいは日本人という民族の構成をめぐる議論の中で、「原始的一様性」の学説をかかげ、「日本原始時代の工芸手法」と「台湾原住民の手法」が類似している、という主張が出されたことが取り上げられた。ここで、なぜ原始時代と現存する文物の比較が可能なのか、という問題に関して、松田氏は「思考されることのない『自明』なものとして、台湾原住民の『歴史性』は否定され、時間的距離は不問に付された」と解釈している。
 以上の報告に対し、張隆志氏からは松田氏の『帝国の視線:博覧会と異文化表象』の観点を踏まえ、以下の問題についてのコメントと質問がなされた。一つは日本側の台湾原住民に対する調査蒐集と展示という行動について、ふたつめは近代日本の自己認識と「他者」の認識について、最後に日本帝国史・植民地史研究における「日本語」、あるいは文化の翻訳という問題について、である。
 参加者からは、当時の「蕃地観光」という現象と原住民の「原始芸術」間のつながりについていくつか質問が出たほか、「1930年代」というキーワードがいささか広すぎるのではないか、という疑問点も出された。
私見では、今回の報告は前述の『帝国の視線』のほか、松田氏が近年執筆された関連論文数本の研究に跨がった総括的な内容だったように思えた。そのため、かなり広いテーマ(芸術、美学、観光、表象、日本史、日本文化論)に亘った発表内容であるが、松田氏がそれぞれの分野で論文を書いておられることもあり、分かりやすくまとめられ、非常に興味深い報告だった。特に、筆者は人類学の専門であり、例えば日本美術史のような分野にはあまり縁がないのであるが、松田氏が当時の政治的・イデオロギー的な背景の説明とともに批判的にとりあげた美術と政治のリンクという現象は自分の研究内容にも引き付けて考えさせられ、感銘を受けた。近年の日本植民地研究はアジアの地域史という枠組みにおいて語られることが多くなりつつあるが、本報告も台湾の表象の歴史につながる貴重なものであったと思う。(満田弥生記)
第59回
日時 2011年12月17日(土) 15:00開始
場所 国立台北教育大学行政大楼A605室
(台北市大安区和平東路二段134號)
報告者 山崎 直也 氏(国立政治大学外交学系訪問学者/国際教養大学国際教養学部准教授)
テーマ 「2000年代国民中学『社会』教科書の分析―『認識台湾』後10年の変遷」
コメンテーター 何 義麟 氏(国立台北教育大学副教授兼台湾研究所長)
使用言語 日本語
参加体験記  
 2011年12月17日午後3時から、台湾国立台北教育大学において、日本台湾学会第59回台北定例研究会が開催された。報告者は国際教育大学の山崎直也氏、コメンテーターは台北教育大学の何義麟氏、参加者は16名であった。報告者から3部(計16ページ)に及ぶ資料が配布される熱の入った報告であった。1時間半ほどに及ぶ発表の後、台湾教育の当事者でもある何氏より実情を踏まえた質問やアドバイスがあり、また、参加者からも多くの質問が寄せられ、6時を過ぎるまで議論が続けられた。筆者も台湾の学校へ通う子を持つ親として、台湾の教科書問題には大変ひきつけられた。
 以下では、山崎氏の報告「2000年代国民中学『社会』教科書の分析―『認識台湾』後10年の変遷―」の概要を記すこととする。興味はあるとは言え、筆者は教育分野に関しては素人であるため、理解不足の点もあるやも知れない。その点はご容赦願いたい。
 山崎氏は2009年出版の単著『戦後台湾教育とナショナル・アイデンティティ』より、台湾の国民中学における社会系諸教科の教科書の研究を続けてきた。氏の報告によれば、台湾の義務教育段階では、1968年の九年国民教育の実施以来、全教科で国定教科書が使われてきたが、1989年に国民中学の『体育』『音楽』『美術』『工芸』『家政』『童軍(ボーイスカウト)』『輔導活動(ガイダンス)』の教科書が審定制(検定制)に移行したことが端緒となって、「教科書開放」と呼ばれる教科書制度改革の過程が動き出した。検定制への移行はカリキュラムの改定と並行して段階的に進行し、2001年実施開始の『国民中小学九年一貫課程暫行課程綱要』に至って、全教科で検定教科書が使用されることとなった。
 国民中学の「社会」学習領域で検定教科書が導入された当時は、南一、康軒、翰林の3社とも、いずれも個性を持っており、教科書「解厳後」のテーマである「多元化」に向けて変化しつつあるように思えた。しかしながら、2004年、07年と改訂の度に、これらの教科書の内容は再び「一元化」に向けて収束しているという。
氏の報告を理解するにあたり重要であるのが「同心円モデル」といわれる台湾教育の枠組みだ。これは、身の回りの台湾から中国大陸、そして世界へ目を向けていこうというもので、具体的には国民中学1年で台湾の社会経済を学び、2年で大陸を学び、3年で世界を学ぶとするものである。これは1994年改定の『国民中学課程標準』準拠の国定教科書(97年度より使用開始)で示された枠組みである。氏の調査では、2002年の入学者用の教科書では、南一のみが「同心円モデル」を採用していたものの、2003年では康軒もこれに準拠するようになり、2004年の改訂で全社が「同心円モデル」に基づく構成を採るようになったという。(ただし、2004年度入学者用の教科書では、三社とも第1学年の下学期で中国史の一部を教える構成を採っており、1年=台湾史、2年=中国史、3年=世界史という棲み分けが全社で徹底されたのは、07年度の改訂によってであった。)
 両岸関係についても、山崎氏は検定教科書導入当初は、扱う時期や言葉遣い(中共・中国・中華人民共和国)などで、教科書ごとに差異があったが、2009年では3社とも独立した章(第五章あるいは第五課)を立て、言葉遣いも中共か中華人民共和国に統一されていると述べた。
 また、教科書における「我国」の定義も従来の教科書では差異があったが、2007年度入学者用の教科書ではいずれも主権の範囲を定義し、異なった意見も尊重するように留意を促す記述も共通している。台湾の歴史区分についても『認識台湾(歴史編)』(国定教科書)の区分に準じて統一されるようになっている。その他、2009年までに「外省人」が全教科書で統一して使われなくなり、「新移民」の用語が全教科書で統一して使われるようになったことも指摘された。
 結論として検定教科書導入からこのような「一元化」への揺り戻しは、報告者は「標準答案」主義と教科書の「経典化」の結果ではないかと示唆した。
 これに対してコメンテーターの何氏より、いくつかの質問と意見があげられた。戦後の教育改革の中には、「教員養成の改革」も含まれているのだが、その点は触れられていない点が一点目。教科書も重要だが、教え方を指導する「綱要」も変化しおり、この点も研究すべきである。これが二点目。「同心円モデル」に各教科書が準拠しているとあるが、実際は現在の台湾で「同心円モデル」は支持されていないという点が三点目であった。また、フロアからも、実際の教科書のシェアはどのくらいであるのか。教科書の採択権はどこにあるのか、などの質問が出された。
 筆者も台湾の大学で教鞭をとるものとして、「標準回答」主義には当惑した記憶がある。教科書を「経典」とし、それに書いてある「標準答案」を暗記することに力を注ぐ学生が多いことも事実である。また、「民主化によって一元化が進むこともある」という報告者の知見にも賛同させられた。検定教科書制度によって教科書も商品となった以上、顧客の需要を満たすものでなくてはならない。台湾の教科書の顧客が試験に合格することを最大の目標にする以上、統一化された試験のための教科書が求められるのも自然な流れなのかもしれない。
 コメンテーターの何氏の指摘の通り、山崎氏の研究にはまだ補強すべき点は多いが、台湾教育の問題を扱う題材として教科書研究は有意義であり、今後の更なる研究が期待される。(国府俊一郎記)
第58回
日時 2011年10月8日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D303
(台北市金華街199巷5号)
報告者 林 冠汝 氏(真理大学財経学院助理教授)
テーマ 「台湾債券型ファンド分流政策実施以降のファンド産業の動向
―証券投資会社の経営実績と対応策を見る―
コメンテーター 鄭 力軒 氏(国立中山大学社会学系助理教授)
使用言語 日本語、北京語
参加体験記
 2010年10月8日午後3時から、淡江大学台北キャンパスD303室にて、日本台湾学会第58回台北定例研究会が開催された。報告者は真理大学財経学院助理教授、林冠汝氏、コメンテーターは国立中山大学社会学系助理教授、鄭力軒氏、参加者は計7名であった。参加者は多くなかったものの、報告の後、活発な意見の交換がなされ、また、台湾の金融政策にあまり詳しくない日本人参加者のために、林氏が教壇に立ちホワイトボードを使ってさらに詳しい説明を行ったり質問に答えたりするなど、和気あいあいとした雰囲気の中、6時近くまで討論が行われた。
 林氏の報告「台湾債券型ファンド分流政策実施以降のファンド産業の動向―証券投資会社の経営実績と対応策を見る―」の概要*は以下の通りである。
 2004年に聯合投資信託会社事件が発生したのを契機として、台湾政府は債券型ファンドに対する改善策を導入し、また、2005年に債券型分流政策を実施した。分流政策実施以降、債券型ファンドへの投資家が著しく減少したため、証券投資会社の営業収入も大幅に減少した。加えて、証券投資会社は仕組み債の処分に係わる損失の負担が大きかったので、証券投資会社に経営危機が発生した。しかし、証券投資会社は積極的に適切な対応策を採用して、この経営危機を乗り越えてきた。また、近年、証券投資会社は債券型ファンドからの営業収入が減少しても、かわりに、運用管理費用率の高い株式型ファンドと外国投資商品運用型ファンドからの営業収入を増加させており、全体の営業収入に大きな影響を与えない仕組みを構築している。そのため、2010年12月に分流政策転換期終了を迎えても、分流政策実施の証券会社の経営実績に与える影響が緩和できたのである。
 分流政策実施以降、証券投資信託協会の統計によると、2011年8月までに、準短期金融市場型ファンドから転換された短期金融市場型ファンド基金額の全ファンド基金額に対する比率(38.42%)は他のファンドの構成比率を超えて、株式型ファンド(35.78%)と並んでいる。また、調査対象会社のうち、ほとんどの会社では、短期金融市場型ファンドが会社での重要な営業項目になっている。その理由では、短期金融市場型ファンドは安定性と流動性の高くかつ普通預金金利より高い収益率を持つという性格をもっているので、短期投資目的な法人投資家に好まれている。加えて、国内•外株式市場が低迷する時期になると、短期金融市場型ファンド市場が投資家にとって短期的な資金を扱う場所になる。そのため、短期金融市場型ファンドのニーズは市場に存続し続ける。しかし、現在では、国内での金利が低い状態を続けているので、国内投資商品運用型ファンドの収益率が上昇しにくい。国内投資家にとっては国内投資商品運用型ファンドの魅力がなくなり、かわりに、高収益率である株式型ファンドや外国投資商品運用型ファンドに対する興味が深くなっている。将来、高収益率で運用管理費用率の高い株式型ファンドと外国投資商品運用型ファンドが証券投資会社にとって、重要な営業項目となり、重要な営業収入ともなるであろう。これに対して、短期金融市場型ファンドの重要性が減少していく可能性が高いと考えられる。
 また、現在では、台湾国内では低金利の状態が続いている上、ファンドの方が、小口資金から運用可能、かつ、株式より変動リスクが小さく、収益率が銀行普通預金より高いなどのメリットがある等の理由で、保守的かつ短期的な投資家に好まれている。以上の事情により、外国投資商品運用型ファンドの拡大などとともに、ファンド産業の発展は今後も続くのではないだろうか。ただし、政府はファンドの国際化グローバル化を進展させるため、上述した課題に対し積極的に改善措置をとるべきであろう。加えて、法令と制度のグローバル化、金融市場での商品多様化と規模拡大、証券投資会社の経営の合理化、大型化、行政の効率化、外資を導入する環境の改善などを推進すべきであろう。さらに、ファンド業界は自社の競争力を強化し、経営実績を向上するために、経営の合理化、効率化、大型化を促進し、投資商品におけるリスクの管理を強化してファンドの収益率を向上させ、また、収益率のより高い、特徴的で、潜在力のある新ファンドを積極的に導入し、またグローバル化に対して、国際金融市場の人材の育成と在職員の教育を強化をすべきであろう。
 以上の報告に対し、コメンテーターの鄭氏からは以下のコメントがなされた。本論文では、証券投資会社に関する経営実績と対応策の二つのポイントが議論されており、それぞれさらに詳しく研究することで、二つの論文にしてもいいのではないか。金融機関の経営実績は、金融政策の変化よりもリーマンショックなど世界経済の動向に左右される場合が多いため、個々のファンドの歴年の成長率の分析のみでは不十分であり、外国のファンド産業や他の産業の実績と比較する方が適切であろう。債券型ファンドに関しては、89件から50件に減少した原因をさらに詳しく分析すること必要があろう。また、鄭氏からの質問としては、台湾の社債市場の規模はどうなっているか、2004年に発生した債券型ファンド産業の経営危機に対し、政府は改善策を行ったが、ファァンド業界はその政策にどのような経営方式で応じているのか、などが挙げられた。
 一方、フロアーからの質問やコメントとしては、証券投資会社へのヒアリング結果は、本土系と外資系に分けるべきではないか、仕組み社債と転換社債などの金融商品は証券投資会社にとってどのような特別な意義があるか、政府が規定した政策は与党が変わると内容が変わってしまわないか、金融政策も政治の影響を受けるのではないか、などが提起された。
 筆者は、正直申し上げ、金融分野にはあまり関心がなかったが、今回は林氏の友人として応援するつもりで参加した。結果、学ぶところが大変多く、わずかではあるが新たな視野を広げる貴重な経験をいただいた。自分の専門分野と異なる台湾研究分野に対しても積極的に学ぶ姿勢を持つ大切さを、改めて実感した次第である。林氏の発表は、金融分野の研究発表がまだ数少ない日本台湾学会において貴重なものであり、林氏の研究の今後ますますの発展が期待される。(佐藤和美記)
*注記:報告の概要部分は、林氏提供の報告要旨による。林氏に記して感謝申しあげる。
第57回
日時 2011年6月11日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D208室
(台北市金華街199巷5号)
報告者 許 時嘉 氏(名古屋大学学術研究員)
テーマ 「近代文體成形過程中「傳統」文體的變異:漢詩文的自我相對化與再生」
コメンテーター 藍 弘岳 氏(国立交通大学)
使用言語 北京語
参加体験記  
 2011年6月11日に第57回台北例会が淡江大学台北キャンパスで開催され、許時嘉氏(名古屋大学学術研究員)が「近代文體成形過程中「傳統」文體的變異:漢詩文的自我相對化與再生」(近代文体の形成における「伝統的」文体の変容:漢詩文の自己相対化と再生)と題して報告をおこなった。コメンテーターは日本思想史が専門の藍弘岳氏(交通大学社会與文化研究所)で、参加者は7名だった。
報告の概要は以下のとおりである。
 本報告は、明治日本と植民地台湾における漢詩文意識を例にとり、ナショナル・アイデンティティーと文学的規範の齟齬とその原因の考察を試みたものである。
 まず、日清戦争期の漢字・漢文論争での漢語漢文の〈実体化―機能化〉の過程から、大江敬香の漢詩文観と籾山衣洲の植民地詩文活動における文体/国体の二重性を例にとり、帝国の拡張過程における日本人漢詩人の位置について考察を試みた。東洋に共通する漢学は中国の産物であったにもかかわらず、日清戦争における中国敗北の事実と日本にとっての漢学の不可欠性の認識が交錯する中で、漢学界には〈中国に由来する漢学〉を〈日本によって再興される漢学〉としてとらえ直す趨勢が生じた。こうして、漢語漢文は倫理教育の一つの〈道具〉として従来よりも国民教育に重要な位置を占めるようになったかに見えるが、漢文体が代表する言語としての価値は「我文脈」である和文脈に置き換えられた。しかし、文体は一方で国体と外部的合体を果たし、他方ではその内部において自己疎外を生じた。この意識の二重化によって、漢詩人として明治詩壇で活躍した大江敬香と田邊蓮舟が植民地台湾に赴く籾山衣洲に贈った「任重クシテ道遠シ」という言葉には、アンチ・シナによって具現化しえた日本の国家意識が潜んでおり、且つ日本を中心にアジアの再興を目指そうとする漢学意識も内包されていた。「任重クシテ道遠シ」という言葉が二義的に読み取られることによって、明治期の漢詩人たちの複雑な心理は、文体(漢文脈/和文脈)と国体(中華文化圏に属する日本/東洋の中心たる日本)とが錯綜、交差する歴史を反映することになるのである。一方、日本人漢詩人は植民地に赴き、日本の国威を喧伝する任務を背負っていたが、漢詩を作る際には「漢詩らしさ」を保持しようとして厳しく自戒してもいる。彼等は台湾人を「文明化」し、日本に畏服させる意思を抱いて意欲的に台湾に渡ってきたが、漢詩文という類型の伝統的規範性――「キャノン」(中国古典)に近ければ近いほど優れた作品と評価される――を自己撞着的に意識せざるをえなかった。〈規範〉意識が国威の宣伝など政経イデオロギー現象のみに尽きるものではないことは、この漢詩文再興の全体をさらに複雑化しているのである。
 同じ漢詩文擁護の態度は植民地台湾においては全く別の運命を迎えた。植民地における漢詩の伝統は、清朝以来の民族意識に支えられた、帝国の日本語政策に対峙する文学活動であったが、渡台した日本人官員の提唱と総督府の容認によって、清朝時代よりむしろ盛んになった側面がある。ところが、興味深いことに、20年代台湾島内における漢詩文へのこだわりには、「民族」的な理由によって「親日(=懐柔される)」「抗日(=中国民族性の保存)」のレッテルを同時に矛盾なく貼り付けることができる。多くの研究者が指摘したように、この二律背反的な現象は東アジア漢字圏の同文的システムから生じる一種のイタズラと言える。東アジアの同文性を構築した漢字文化は各地域に根を下ろし、各地域の風土人情に相応しい特色を持つ漢詩文の文化を生み出すと同時に、儒学思想を体現する伝統的経典とその神聖性、規範性がまた人々の意識を有形無形に規定している。その結果、漢詩文を堅持する連雅堂の態度は大江敬香の漢詩観と似通っており、ともに伝統文学を保持する協力関係があるにもかかわらず、漢民族意識の保存機能からみれば対立の立場を示すことになる。また、知識の啓蒙は文体の改革とは関係なく、むしろ旧文体を放棄することこそ知識の放棄に繋がると主張する連雅堂の漢詩文意識は言文一致的な新文学意識と対立しているとはいえ、日本帝国主義がもたらした同化政策に抵抗する立場では張我軍と一致している。帝国-植民地の統治関係の正当性は、一方では近代西洋文明を導入し、植民地人民を「文明化」することによって成り立っており、他方では漢詩文の伝統を意思疎通、感情的連帯の紐帯とすることによって築かれている。この二重性が同時に存在する事実は、漢詩文自体の規範性(政経的側面と審美的側面の両立)の干与を通して、漢詩文という文体に対する新旧知識人の立場の齟齬を一層複雑化させていく。
 漢詩文という旧文体は日本国内の言文一致運動や中国・台湾の白話文運動という近代文体の出現によって歴史の舞台から去っていったと一般的には認識されているが、文体の価値判断の揺れが必ずしも近代国民国家イデオロギーの普遍化のみによって規定されていたわけではないことは注目に値する。(冨田哲記)

※報告の概要は、許氏から提供していただいた要約にもとづいている。許氏にしるして感謝もうしあげる。

台北定例研究会トップに戻る