日本台湾学会台北定例研究会
第51回
日時 | 2009年12月5日(土) 15:00開始 |
場所 | 淡江大学台北キャンパス D504室 (台北市金華街199巷5號) |
報告者 | 松永 正義 氏(一橋大学大学院言語社会研究科) |
テーマ | 「陳映真と七〇年代の台湾」 |
使用言語 | 日本語 |
参加体験記
2009年12月5日に、松永正義氏(一橋大学大学院言語社会研究科)をむかえて第51回台北定例研究会がおこなわれた。「陳映真と七〇年代の台湾」と題しての講演で参加者は12名であった。
講演の要旨は以下のとおりである。
1970年代の東アジアでは、従来の冷戦構造を前提とした思想的対立軸が有効性を失いつつあった。文化大革命は毛沢東による権力奪回運動という重大な問題をはらみつつも、一方で既存の共産党体制への異議申し立てという側面を持ち、また韓国の民主化運動では、ナショナリズムをいかに社会変革にむすびつけていくのかということが課題となった。台湾では文革や米国の学生運動の影響で左傾化した雰囲気のもと保釣運動がくりひろげられていた。それぞれの状況はことなるものの、おそらく相互に影響しつつ運動が進行するのを目の当たりしながら(松永氏は)陳映真を読んでいた。
1970年代の台湾の政治運動は「五四言説」とでも呼ぶべき、急進自由主義的、五四運動的な議論をバックボーンとしていた。これが思想面で五四運動に親近性を持つことによるものだったのか、あるいは政治的危険を回避するための方略だったのかは検討の必要があるが、1979年の美麗島事件はそうした思想状況の転換点として位置づけることができる。すなわち、同事件において民主化運動と台湾ナショナリズムが合流したのであり、80年代になると、本土化論が政治運動の対立軸として立ちあらわれることになる。運動の主体は体制内反対派から党外勢力へとうつり、従来、外省人を排除するかたちで主張されていた台湾独立論は、いまここにある台湾による国際的人格の獲得をめざすようになった。そして、70年代の郷土文学論争においてすでに葉石涛との分岐があきらかになっていた陳映真は、本土化論に対抗すべく、たとえ保守派であっても中国民族主義者との共闘を選択するようになる。
陳映真の文学創作は第一作「麺攤」を発表した1959年以降、4つの時期に分けることができる。すなわち、1968年に民主台湾同盟事件で逮捕されるまでの第1期には運命に抵抗することのできない人間、およびその悲しみがえがかれる。1975年の出獄後、1982年までの第2期は「批判的リアリズムの時代」と位置づけられるが、この時期の作品にはあまり好感が持てない。続く第3期(~1994年)は、焦点が「運命」から「歴史」へとうつり、また消費文化に対する批判があらわれる時期である。しばらく作品を書かなかった時期をへて1999年からの第4期には、第3期の「歴史」の発見を具体化する作品-たとえば大陸に残留した国民党軍の台湾人兵士や、民進党政権のもとでも引き続き雇われる国民党の特務などがテーマ-が発表される。なお1985年から1989 年までは、計47期をかぞえた雑誌『人間』の編集にあたり、社会問題の発掘につとめていた。
陳映真は1988年に中国統一連盟の創設にかかわり主席に就任する。もし中国革命が80年代に堕落したのだとすれば、白色テロの犠牲者は無駄死にしたことになるのではないかと彼は厳しく指摘する一方で、天安門事件を学生たちの暴挙と断じ、事件から1年とたたない1990年には、中国統一連盟代表団をひきいて北京を訪問し江沢民と会見している。彼の言動は矛盾に満ちているようにも見えるが、実はかなり確信犯的にこうした矛盾を演じているのではないだろうか。
以上を受けた質疑応答では、左派そして統一派としての陳映真の立ち位置、さらには台湾社会における左/右派、あるいは独立/統一派の意味にかんする話題が多かった。左翼思想は戒厳令下の台湾の言説空間においても一定程度の影響力を持ち続けていた、白色テロの摘発者にはむしろ左派が多かったのではないか、 80 年代以降、文革の実態があきらかになるまでは、左派であることと統一派であることは矛盾するものではなく、中国革命の延長上に台湾の解放を構想することも不自然ではなかった、民主化運動が進展する過程でも、ある時期までは台湾と中国/中華民国というアイデンティティが未分化な状態が続いていた、といった指摘が松永氏からあった。また、沖縄返還運動や在日台湾人研究者の思想的立場にも話がおよんだ。
執筆者の特権での余談だが、松永氏も冒頭で指摘したとおり、本例会の会場で筆者の勤務先でもある淡江大学は、7、80年代台湾の文化風景をイメージするにあたって少なからず興味をかきたてられる空間である。陳映真は淡江大学の前身、淡江英語専科学校(卒業時は淡江文理学院)の出身である。「校園民歌」(キャンパスフォーク)草創期の「淡江事件」で名を知られる李雙澤も淡江文理学院に学んだが、キャンパスの一角には彼のささやかな記念碑が設置されている。淡江事件の年に淡江に入学したというある同僚は、なつかしそうに筆者に当時の雰囲気を語ってくれた。また、李雙澤作曲の名曲「美麗島」の歌詞は詩人陳秀喜の「台湾」を改作したものだが、それを手がけたのは、数年前に退職するまでドイツ語学科で教鞭をとっていた梁景峰である。(冨田哲記)