日本台湾学会台北定例研究会


 

第9回

 

日時 2002年6月26日(水) 18:30-20:30
場所 国立台北師範学院 行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路二段134号)
報告者 洪 有錫 氏(長庚大学医療管理学系)
テーマ 「先生媽,産婆與婦産科医師」
使用言語 日本語
参加費 無料



参加体験記
 2002年6月26日(水)、国立台北師範学院で開催された日本台湾学会第9回台北定例研究会は、長庚大学医務管理学系副教授である洪有錫氏が「先生媽、産婆與婦産科醫師」というタイトルで報告された。
 報告者は1960年に雲林で生まれ、73年から97年まで日本で過ごし、その間山形大学医学部を卒業され、その後東京大学で博士号を取得し、現在のポストに就任された。報告者が研究しているのは台湾の医学史であり、現在台湾で医学史の研究しているのは5,6人と言うことである。報告者が特に研究しているのは、日本植民地時代に人々が医療技術をどう受け入れていったかである。報告ではまずこの点に言及され、医療制度は社会構成の1つのツールであり、日本統治時代は医療のマン・パワーを通じて社会を構成したことを指摘した。統治時代の医療については評価がする人が多く、台湾の人々のメンタリティーにも報告者は興味を持っているとのことである。
 今回の報告は、日本統治時代のお産がどのように行われていたかについて分析したものである。タイトルにある先生媽、産婆、婦産科医師の定義・区別について、詳細な説明が行われた。産婆や婦産科医師(産婦人科医師)は大体のイメージを作り出すことは可能であるが、先生媽という言葉はほとんどの方が聞いたことがない言葉であろうかと思う。先生媽とは自分がお産を経験している人、また代々それを家業にしてきた人もあるという。この言葉自体は、公医雑誌に出てくる言葉であるが、記述が非常に少ない。統治者は先生媽について、消毒が出来ないなどのことで否定的にとららえている一方で、1940年代では60%以上のお産介助をしたという。
 こうしたお産に関する職業が台湾ではどのように形成されたかについても、詳細な検討が行われた。また、当時の医学学校がどのような経緯で設立されたか、当時の医局についても、第2次世界大戦前後でどう変化したかについても合わせて説明された。さらに、当時の総統府がお産や医療についてどう考えていたかについても検討された。
 その上で、台湾南部(台中、台南)でのお産がどのようにして行われたかについて当時の統計資料を駆使しながら検討された。その中で、どうして日本統治末期に至っても産婦人科医が避けられ、先生媽に頼って女性が出産したかについて、検討された。報告者によると、当時の女性は医者の技術レベルが優れていても、また衛生的にも医者が優れていても、そうしたことを求めていなかったという分析をされた。また、産婆についても、お金が必要であることから一般民衆からは避けられる傾向があったことも指摘された。
 このようなお産に関する発表後、報告者ご自身の問題を率直に言われた。医学史をしていても、政治・経済が理解できないために大きいバックグランドが理解できないとのことである。また、台湾の医学雑誌についてはバックナンバーがあり、また台湾大学が設立100周年を迎えた時にこれらの雑誌を再整理したとのことである。さらに、今年11月には台湾医学会が設立100年を迎えるとのことである。この学会が発行している雑誌は、台湾で唯一植民地時代から続いた雑誌とのことである。これから、雑誌を全部スキャンして、ネットで公開することも検討していると報告された。貴重な資料が多くの研究者に提供されることは、これからの研究に更に裾野を広げることにつながると考えられるので、できるだけ早く公開する環境を整えて欲しいものである。
 報告者の発表を聞いて、統治時代のお産、あるいは医療がどういう形で行われていたかについて非常に興味深く話を伺うことが出来た。今後、このような分野の研究が発展していくことを願っている。今回のような発表は単に医学史で考えるだけでなく、社会開発などの分野においても大切な論点を提出すると考えられるからである。今回の発表で惜しかったのは、報告者はパワーポイントのみで発表を行ったため、レジュメを配られなかったことである。報告内容について全く予備知識のない者にとっては、報告内容を簡潔にまとめられたレジュメは重要なものだと言える。(池上寬記)