日本台湾学会台北定例研究会


 

第16回

 

日時 2002年4月25日(金) 18:30-20:30
場所 国立台北師範学院 行政大楼506室(社会科教育系討論室)
(台北市大安区和平東路2段134号)
報告者 蘇 碩斌 氏(世新大学社会心理学系助理教授)
蘇碩斌助理教授の論文【PDF,中国語,1.00MB】
コメンテーター 葉 肅科 氏(東吳大學社會學系助理教授)
葉肅科助理教授のコメント【PDF,中国語,403KB】
テーマ 「空間視覚化与現代治理性:日治時期台北都市形態演変為例」
使用言語 中国語
参加費 無料



参加体験記
 第16回日本台湾学会台北定例研究会が2003年4月25日、台北師範学院で開催された。今回の報告は蘇碩斌助理教授(世新大学社会心理学系)により、「空間視覚化与現代治理性:日治時期台北都市形態演変為例」をテーマに行われた。
 台湾での近代化の開始には清朝末期の劉銘博による改革から、もしくは日本の台湾植民地化後からという説がある。この論争に関して報告者は都市の「空間」 の近代化、即ち都市形態の変化という点に着眼し、清末から日本植民統治下の台北の都市の変化を中心に、台湾の近代化の過程に関する報告を行った。主題にも 使われている空間視覚化とは、簡単に言うならば、調査、地図製作、統計などを通じ、都市の「空間」が観察可な存在へと変化し、都市の「視線史」から近代化 の変容を分析するという見方である。
 まず清朝末期、台北市における劉銘博の改革について、特に当時の市街整備と鉄道建設から検討した。当時の台北市は、「艋舺」、「大稻埕」、「城内」と三 つの市街に分かれ、各自半独立的な司法性を擁していた等、統一性を持っていなかった。劉銘博が計画した鉄道建設は、主に清末近代開始説を支持する者にとっ て有力な論拠の一つとなっているが、報告者はこの鉄道建設では、風水の影響、または有力者の墳墓を避けるためなど様々な原因から、当初の路線予定をかなり 変更することを余儀なくされたことを指摘した。
 続いて日本の植民地化後の台北市の変容について分析を行った。植民地後、台北市で六度にわたる大規模な市街整備が行われ、城壁の排除、街道の整備が進め られた。こうした都市整備により、艋舺、大稻埕、城内に分かれていた台北市は、一つの都市へと統合されたのである。また公共衛生設備の建設は、衛生の改善 だけでなく、不衛生を消滅させることにより、都市に対する「視覚」が変化したことを指摘した。
 また日本が実施した土地調査は、清末劉銘博が行った土地調査とは地図技術の差異だけでなく、全く異なる本質を持った調査だったことを指摘し、清末から日本の植民地時代にかけて、台北市の「視覚」が根本的に変化し、都市の近代化が進んだことを示した。
 続いて葉蕭科助理教授(東呉大学社会学系)が報告に対し、「都市の近代的建設」における権力と統治の「運用形式」、都市と空間、日常生活と資本主義のロ ジックとの関連性、政権の変化と政策の需要の変化があたえた台北市の都市の発展の変容などの点から、報告に対するコメントを行った。

 今回の報告は、主に台北市の近代的な「視覚」が政府によってどのように生産されたのかという点を中心に行われた。討論では、このように新しく創られた 「視覚」の変化が「下からの視線」、すなわち一般市民の生活や意識にどのような変化を与えたのだろうかという問題が出され、議論された。こうした「下から の視線」は非常に重要な観点であり、不可避な視点だが、資料の制限などから、研究を進める際、非常に難しいことが報告者から指摘された。
 また今回の報告は中国語で行われ、レジュメも同様に中国語だった。報告では「近代化」ではなく、「現代化」という用語が使われた。それに対して日本語で は「近代」、「現代」という用語は使い分けられ、日本人にとって、植民地時代の発展を「現代化」と書かれると、非常に違和感があるが、中国語ではこの二つ の用語には明確には明確な区別がないことが指摘された。
 またテーマ名にもなっている治理性とは英語では、“govermentarity”となるのだが、この用語についての定義、または中国語に翻訳される際、生じる問題点についても、議論された。(水野真言記)

報告者の蘇助理教授(左側)とコメンテーターの葉助理教授(右側)
報告者の蘇助理教授(左側)とコメンテーターの葉助理教授(右側)