日本台湾学会台北定例研究会


 

第47回

 

日時 2008年8月25日(月) 15:30開始
場所 台湾大学台湾文学研究所220室(閲覧室)
(台北市羅斯福路四段一号)
報告者 岡本 真希子 氏(早稲田大学東アジア法研究所・文学部兼任講師)
テーマ 「日本統治時期台湾の法院の司法官僚たち―判官・検察官・通訳たちの諸相―」
使用言語 日本語
コメンテーター 李承機(成功大学台湾文学系)



参加体験記
 2008年8月25日、台湾大学台湾文学研究所にて日本台湾学会第47回台北定例研究会が開催された。報告者は岡本真希子氏(早稲田大学東アジア法研究所・文学部兼任講師)、コメンテーターは李承機氏(國立成功大學台灣文學系)で、16名の参加があった。
 報告のタイトルは「日本統治時期台湾の法院の司法官僚たち-判官・検察官・通訳たちの諸相-」。氏はちょうど数日後に南投の国史館台湾文献館にて法院通訳についての報告を予定しており、同報告との重複を避けるために判官(判事)や検察官(検事)まで範囲を広げたとのことであった。報告(および配布資料)は日本語で行われた。

 概要を以下にまとめる。まず判官は大部分が内地人であり、検察官においては内地人のみだった。高等法院においては院長・検察官長は1920年代以後は数年ごとに交代した。本国(内地)から転任して短期滞在したケースもあれば、台湾で長い下積み時間を経験したたたきあげの者もいた。検察官においては在台 10年以上の者もいれば渡台前に本国で司法官をしていた者もいた。退職後は台湾や本国で弁護士、公証人をしており、一生司法に関わった。一方、地方法院の一例としてとりあげた台北地方法院では、在台期間が短く、教師や役人など法曹以外の者が高等文官試験司法科に受かって台湾で就任する場合が多い。つまり転身のチャンスとしていたことがわかる。また本国と台湾の間での人事異動も多い。このような判官や検察官は、制度上は植民地の言語を学ぶ必要はなかった。
 一方台湾人は1930年代に到るまで登用が行われず、1945年まででも6名程度あったにすぎない。行政官における台湾人登用排除と同じ構造があり、資格があっても登用されなかったため、弁護士になるか少数の者が本国で任官していた。この場合各地の法院を数年ごとに転勤するという内地人と同じ転勤のパターンがあった。
 このように裁く側の圧倒的多数が植民者であったのに対して裁かれる側の圧倒的多数が被植民者であり、当然両者の間には媒介者が必要であった。それが法院通訳で、内地人だけでなく台湾人もいた。台湾人通訳は台湾総督府に登用された数少ない台湾人官僚であり、1899年法院条例改正時から登用可能であった。内地人通訳は統治のツールとして台湾語を学習し、熱心な研究者もいた。「台湾語通信研究会」をおそらく1908年頃結成し、雑誌『語苑』を1908年から 1941年の間に出版した。1942年には『警察語学講習資料』に改題された。これは『語苑』の連載の一つに特化したものだった。各試験対策など実用的な記事が多かった。「台湾語」会話本や辞書を刊行し、「台湾語研究者」として「最良のもの」の吸収と提言をし、「先駆者」を自負する者がいた。職務に誇りを持ち、「台湾にては通訳は間接の判検事なり」という者もいた。一方で「台湾語」学習は「国語」普及の阻害要因として排斥されることもあった。また警察が求める実務型台湾語の必要と「雅」な「研究」「創作」との間に板ばさみになることもあった。

 以上の報告に対して、李氏は次のようなコメントをおこなった。内容に関しては(1)台湾人通訳は何人であったか?(2)通訳は「台湾人不在」ではないか?(3)通訳と警察の関係はどうであったか?例えば川合真永。彼が警察と仲が良かったのは何故か?(4)小野真盛(西洲)について。台湾語郷土文学論争に内地人が入っていたのか?中国を中心とした白話文派は台湾語を日本の方言とすることに反対していた。また方法論的には(5)今回の報告は人物やストーリーをいろいろ紹介する形であり、散漫な感じがする。いくつかのパターンに分類したほうがよい。(6)植民地法制と社会の関係を如何に認識するか。これは単なる言語の問題にとどまらない。如何に実証するかが大事である。

 コメントに対して発表者から(1)通訳中半分以上は内地人だが資料が少ない。通訳の多くは下級官僚で、履歴書などが残っている場合除けば関連資料は少なく、また、公文書からの分析には限界がある。(2)台湾人の残した文字資料が少ない。統治初期には台湾人通訳が多かったようで、清国時代からの官僚もいた。内地人には台湾語の人材が無く、北京官話の習得者しかいなかったため、日本語⇔北京官話⇔台湾語の二重通訳にならざるをえなかった(3)川合真永のように法院より警察との関係が深かった者もおり、警察に出張して台湾語を教え、警察の試験を作っていた。また試験に通り、法院通訳へ「上昇」していった元警官もいた。警部が検察官を兼ねたケースも多かった。ただし警察が判官を兼ねることはありえなかった。(4)小野真盛の文学論争における位置づけについては、今後の台湾文学研究者よる研究の伸展に期待している。『語苑』編輯長にもなった小野は、論説・回想など比較的広範な領域にわたる執筆をした稀少な存在といえるのではないか(5)ケースが多くて類型化が難しい。在台内地人社会そのものに亀裂があり、台湾から離れられない者もいれば台湾と本国の間を頻繁に移動するものもあった。といった返答があった。

 質疑応答では、各司法官僚の出身県と採否状況に相関関係があるのではないかとの質問があり、発表者からは、本国では判事を出身県によって採否を決定することはそもそもなく、台湾における内地人判官の採否状況も出身県に由来するのかは本国と台湾を比較することによる反証が必要である、判官の登用は試験任用の原則に基づくのであり、出身県はあまり関係ないのではという応答があった。記録者の見解では、質問は通訳に関するものに集中していたように見受けられる。おそらく台湾の「本土化」の潮流にあって、多くの研究者が台湾らしさが日本時代においても如何に維持発展されたかということに関心をもっているためではないだろうか。この問題は日本時代の植民地統治が同化主義と特殊主義の狭間をどのように揺れ動いて歩んだかという問題に繋がる。

 私事ながら記録者は同じ植民地官僚である理蕃警察を研究対象としているため、今回の岡本氏の発表からは内容的にも研究方法的にも得られたものが非常に多かった。特に氏の官僚データーベースの整理や個別の官僚の情報を丹念に整理するという方法は是非自分の研究にも活かしたいものである。このような機会をくださった発表者やコメンテーター、当会幹事に心から感謝したい。(石丸雅邦記)