日本台湾学会台北定例研究会


 

第54回

 

日時 2010年10月30日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパスD402
(台北市金華街199巷5號)
報告者 王 恩美 氏(国立台湾師範大学東亜文化及発展学系)
テーマ 「「中韓友好条約」締結過程における韓国華僑問題」
コメンテーター 朱 立熙 氏(「知韓苑」創設者兼執行長,政治大學韓文系、新聞系講師)
使用言語 北京語



参加体験記
 2010年10月30日に淡江大学台北キャンパスで、14名の参加者を集め第54回台北定例会が開催された。台湾師範大学東亜文化及発展学系助理教授王恩美氏が「『中間友好条約』調印過程における『韓国華僑問題』(1952-1964)」と題した報告を行い、それを受けてコメンテーターとして朱立熙氏 (「知韓苑」創立者兼執行長、政治大學韓文系・新聞系講師)が韓国華僑の置かれている歴史と現状について述べた。
 王氏が今回報告したのは、1964年11月に締結された「中韓友好条約」をめぐって、1952年以降交わされた中華民国と大韓民国両国の外交文書や記録などから読み解かれる両国の思惑と、韓国政府の態度に大きな影響を与えた在韓華僑の存在についてで、内容は以下の通りである。
 中華民国と大韓民国はともに反共を国是とし、「友邦」、「兄弟之邦」と称された。蒋介石とパク・チョンヒ(朴正煕)は盟友のようなイメージを持たれており、友好関係のピークであった60年代に「中韓友好条約」が結ばれている(1964年11月)。しかし実際は、早くも1951年12月に中華民国側は駐韓国大使館を通して「通商航海条約」の締結を申し入れたが、当時まだ朝鮮戦争中であった韓国は、戦時の安全保障の観点から「華人入国には門戸封鎖、域内の華僑が出国した場合の再入国不可」という立場を採ったことから条約締結は困難となり、最終的に韓国の拒絶により締結は果たせなかった。
 1952年1月に中華民国は改めて「友好条約」の締結を申し入れたが、再び韓国側の拒否にあった。その背景には、まだいずれの国とも同様の条約を結んでいない韓国にとって、今後類似の条約締結に大きな影響を与えるであろう「中韓友好条約」については、長期的な影響を考えて慎重を期するべきであるという論調とともに、両国民の出入国に対して拒否感があったためであった。韓国政府は同条約を在韓華僑に対する優遇条約であると見なし、在韓華僑に最恵国国民として待遇を与えれば、韓国の商業活動が華僑に牛耳られてしまうことを心配したのである。
 1950年代後半には、「中韓軍事同盟」を締結する可能性は低まり、中華民国側は再び積極的に「中韓友好条約」締結に向けて動き出し、1957年に再び「中韓友好条約」の草案を出したが、韓国側は条約草案の4、5、5条に問題があるとして受け入れなかった。とりわけ韓国側が問題にしていたのは在韓華僑の自由な出入国の権利を認める5条と、身分、財産、経済活動の保障を認める6条であった。
 その後、1964年8月に韓国外務省は友好条約の調印に同意することになるが、その背景には中国共産党が存在感を増したことによる国際情勢の変化、アメリカのベトナム戦争、パク・チョンヒの拡張外交志向などがあった。また、それまで懸念されてきた在韓華僑の経済力の衰退や、貿易相手国が中華圏である中国・香港から日本にシフトしてきたことも挙げられる。実際、在韓華僑は1960年代にはそのほとんどが小資本の飲食業に従事する者が主で、韓国経済にとってなんら脅威となるものではなかったが、「経済攪乱」、「密輸」、「不法入国」、「犯罪」などの戦後の動乱期の頃のマイナスイメージが、韓国政府の友好条約締結拒否という態度形勢に影響を与えていたのである。
 「中韓友好条約」をめぐっては、中華民国側と大韓民国側の思惑の違いは明からで、1950年代の「台湾海峡危機」後「反攻大陸」の可能性は低まり、北京政権の国際的な地位が高まる中、中華民国側が実質的な必要度よりも政治的意義を重視していたのに対して、韓国側はあくまでも「在韓華僑管理」という実質的な要因を重視していたのである。
 また、条約調印にあたっての「同意記録」の解釈についても双方で異なる理解であった、中華民国は「同意記録」は双方の理解を記録したものであって、条約の不可分の一部とは見なしていなかったのに対して、韓国側は条約の一部であり、条約同様の拘束力を持つとの理解であった。韓国では1965年11月10日に条約と「同意記録」が国会で批准され、官報で公布された。韓国側の意向から「同意記録」では在韓華僑に対する制限を設けたが、中華民国側は条約締結の「政治的効果」を強調するあまり、在韓華僑の権益を犠牲にすることを惜しまず、「中韓友好条約」を実質的内容が伴わないものとしてしまったのである。そして、友好条約締結をめぐる1962年の韓国外務省の検討内容から、在韓華僑に対する韓国政府の見方が見て取れる。それは①条約を締結したら多くの中国人が韓国に入国するのではないか、②自由な出入国により長期不法滞在者や密輸、脱税などの社会秩序を脅かす状況をもたらすのではないか、③勤勉で結束力が強く、経済活動に長ける中国人に対して経済活動上の制限を緩めたら、法律が中国人の経済発展を保障することになるのではないか、④東南アジア諸国の対華政策は処理困難状態にあることから、韓国も華僑の経済活動に疑念を抱かざる得ないといった点である。けれども、実際問題、1950年代以降、在韓華僑の経済力は韓国経済を脅かすレベルにはなく、さらに居住、出入国、土地所有など多くの権利が厳しく制限され、華僑の勢力は非常に衰退していたのである。
 「中韓友好条約」締結をめぐって、「韓国華僑問題」はつねに障害となる要素であり、両国の対立と争議の焦点であった。また中華民国にとって言えば外交政策の妨げでもあった。そして「友好条約」締結の過程から見えてくるのは、表面上なんら衝突することはないように見えていた両国間にも実は利益衝突が存在していたということであり、そこから東アジアの反共同盟間にも多様で複雑な一面があるということがわかる。
 以上の王氏の発表は、外交文書や記録から浮かびあがってきた「友好条約」締結をめぐっての在韓華僑ファクターであったが、その報告を受けて、「韓国華僑とはいかなる人々なのか」という問いに答える形で朱立熙氏が韓国華僑の置かれている歴史と現状について述べた。もとより排外的な韓国社会にあって、外国人として生きる難しさに加え、韓国居住そのものや、経済活動や土地所有など法的にも数々の制限を加えられてきたその歴史や、中華民国との国交断絶、中華人民共和国との国交樹立などに翻弄されている近年の状況、進学のために台湾に「帰国」した若い世代もまたアイデンティティの問題に悩むことになる・・・といった、「誤った時代に、誤った土地」に住むことになってしまった在韓華僑たちの悲哀が語られると同時に、誰にも答が出せない「それではどうしたらいいのか」という問いが投げかけられた。
 会場からは、在日外国人の権利闘争として指紋押捺反対運動に積極的に関わっていた80年代の日本の在日コリアンとの比較についての意見が出されたが、さまざまな制限から学術界に進む道もなく、政界にも経済界にもオミットされた在韓華僑には、自身のオピニオン・リーダーが育たなかったという事情があったとの説明があった。また当時、指紋押捺反対運動に関してある在韓華僑留学生が、留学生たちの発行する雑誌に韓国における華僑の置かれている差別的な待遇を告発する文章を寄せたところ、韓国人留学生の反対に遭って掲載が見送られたという実話が、雑誌刊行に関わっていた参加者から披露された。韓国社会の華僑に対する厳しい見方が、「対外輸出」されていたことを知り興味深かった。
 ただ、現在では状況は少しずつ変化している。キム・デジュン(金大中)政権下、外国人をめぐるいくつもの差別的な規制が撤廃されていることや、中国経済の台頭とともに、大手企業が中国語人材を即戦力として欲するような状況になって、それまで不可能だった大企業への就職も一部実現していることや、在韓華僑が、直接中国に投資してレストラン経営や土地購入などを始めるなどの新たな動きも見え始めている。とはいうものの、世界で唯一「縮小する中国人社会」に生きる在韓華僑が、王恩美氏という若き研究者を得て、これまでの不可視的な状況を脱し、さらに今回のように台湾や日本の研究者にその存在と歴史を知ってもらう機会を得たことは、在韓華僑と縁ある者として、個人的にも喜ばしく思っている。在韓華僑は、その歴史だけでなく、移民と「揺れる本国」の関係、移民の権利問題、自国文化保持とアイデンティティ、言語習得など、「越境」に関わる今日的なトピックで語りうる多くの興味深い側面を持っており、華僑自身の研究者輩出を含め、それぞれの分野の今後の研究を期待したい。(永井江理子記)