日本台湾学会台北定例研究会


 

第55回

 

日時 2011年1月15日(土) 15:00開始
場所 淡江大学台北キャンパス D303室
(台北市金華街199巷5號)
報告者 張 暁旻 氏(国科会人文学研究中心博士後研究員)
テーマ 「日治時期公娼制度之導入背景─以軍政期下的<性>問題為中心」
コメンテーター 楊 翠 氏(中興大学台湾文学研究所)
使用言語 北京語



参加体験記

 2011年1月15日午後3時、淡江大学台北キャンパスD303教室を会場として日本台湾学会の第55回台北定例研究会が開催された。報告者に国科会人文学研究中心博士後研究員の張暁旻氏を、コメンテーターに中興大学台湾文学研究所の楊翠氏を迎え、日本統治期の公娼制度導入の背景とその問題点をめぐって、16名の参加者とともに活発な議論が行われた。
 今回の張氏の報告は、東アジア地域において空間的な広がりを見せた帝国日本の性管理システムが、台湾社会においてはどのように導入されていったのか、すなわち台湾における公娼制度の形成過程とその背景に関して、当時の官報資料や新聞・雑誌資料などの一次資料を精査しながら検討を進めた歴史実証研究である。
 「一、前言」ではまず、分析の対象期間を、日本軍の台湾上陸の1895年5月末から「貸座敷並娼妓取締規則」が発布された1896年6月8日とし、1896年4月民政の実施後に導入された公娼制度の核となる法令「貸座敷並娼妓取締規則」の発布をめぐって、

(1) 台湾割譲から公娼制度公布までの約一年間に、植民統治政府はどのような「性」問題に直面していたのか
(2) 統治当局が緊急に公娼制度を実施せざるを得なかった原因はどのようなものであるのか、また、統治初期の「性管理」が植民統治政策において、どのような特徴と意義を有しているのか

の2点を分析すべき問題として提起した。
 「二、軍政下における性暴力」では、民政統治以前の1895年5月から1896年3月の期間について検討を行った。これは、日本軍が台湾に上陸、台湾民主国軍を制圧し軍政を終結させるまでの期間に当たるが、この間、日本軍の軍紀は乱れ、略奪・暴行が横行し、軍隊という妻帯の許されていない男性集団が統治者であったゆえに性的暴力が頻発していた。しかし、この時点では、こういった不法行為に対し訓告もしくは軍法処置にとどまっており、公娼制度に関して議論されることはなく、積極的な性管理制度の実施には、いったいどのような要因が強く影響したのかと疑問を呈す。
 「三、取り巻く性病の危機」から、公娼制度導入の核心的要因について言及していく。張暁旻氏は、新聞・雑誌記事と陸軍省統計資料から、日本軍男性内地人と本島人娼婦との間に親密な接触があり、特に城内の艋舺市街地などでは、風紀に著しい乱れが見られただけでなく、台湾各地の兵站病院で治療された多くの疾患が「花柳病」であったこと、また、傷病全体から見ればそれほど多いわけではないが、性病患者が治療に要する日数は長く、さらに、台湾植民地戦争に関与した師団に最も多く性病患者が発生していた点を指摘した。ここで氏が最も注目したのは、性病の蔓延による兵力損失に言及した統治政府の見解であった。
 「四、台湾の公娼制度を支えた陰の存在-陸軍軍医総監石黒忠悳」では、台湾における公娼制度導入にあたって隠然たる影響力を発揮した軍医総監・石黒忠悳の報告を検討した。1895年12月に提出された意見書は、公娼制の実施は壮齢の日本軍兵の性管理において必要であり、また、兵力維持という観点からも性病検査を経た公娼を設置することは不可欠であるという点で、嘉義軍医長の長尾修一の見解と一致していた。さらに、1896年3月、台湾における衛生政策上の重鎮が一堂に会して行った「東京星岡茶寮会談」でも、石黒が、性病の蔓延とアヘン飲用の習慣への憂慮から、内地より娼妓を送り、それをもって早急に日本軍男性の性管理を行うよう進言していた。1896年4月25日の「公娼設置之建議」を経て、5月28日、総督府が各地方県庁に娼妓酌婦・貸座敷及び飲食店等に対する取締規則の制定を通達し、1896年6月8日、台北県に、続いて、台中県、澎湖島、台南に公娼制度に関する法令が発布され、性管理ネットワークが確立し、台湾各地で内地人娼妓が激増していく。
 「五、結語」では以下の3点が総括として述べられた。

(1) 統治当局が公娼制を導入した最大の要因は、在台内地人の性病感染問題であり、兵力の損失を防ぐ意味で実施された。
(2) 公娼制実施の最大の目的は、在台内地人男性の「安全」な性管理であり、「衛生的」で「安全」な性の提供者として内地人娼婦が移入され、本島人娼婦は衛生政策上の対象外であった。
(3) 統治初期の植民政策における性管理制度は、内地人と本島人を区別して管理する統治差別主義に基づくものであった。

 以下、私見であるが、植民地台湾における性管理制度は、当初、在台内地人社会の安全性を確保する形で導入されたとする点に大きな異論はない。おそらく、張暁旻氏のこれに続く研究では、本島人の売買春管理の動向にも言及されているものと想像される。ただ、内地人娼妓の渡台後、さらに性病が蔓延し風俗が乱れたとする点など、今一歩資料的な裏付けがほしいと思う箇所もあった。敏感なテーマだけに、より慎重で一層丹念な歴史資料との格闘は、確かに必要であろう。しかし、本研究が日本の殖民統治期に関する歴史研究として重要な意味を持っていることに疑いはない。参加者からの指摘にもあったように、ジェンダーやポストコロニアルの観点から見ても、非常に意義深い問題を提起している。日本の近代化は、植民統治戦争を通じた空間的拡大と平行しつつ獲得されたものであるが、その過程で醸成されていった「不潔ナル土人」「非衛生」というイメージは、外地女性に刻まれるスティグマといった観点からも検討されるべき問題だからである。事実「悪習ある不潔な彼地」であったかどうかというより、そのとき本島人に向けられた「眼差し」がどのようなものであり、それがどのようにして正当化されていったのかが重要なのである。また、第一次世界大戦前後には朝鮮においても公娼制が確立し、相当数の朝鮮人娼妓の渡台、さらには台湾を経由した華南地方への娼妓の移動現象が見られ、台湾で実施された公娼制が、東アジア全域に拡大した性管理ネットワークの重要拠点として機能していたことなども見逃すことはできない。

 本研究は、支配―被支配関係のメカニズムやその成立過程を紐解く植民地歴史研究のひとつである。しかし、その文脈において、帝国主義的及び父権的な暴力性を補完するイメージの創出や、公娼をめぐる「ジェンダー」、「衛生」、「身体」といった問題についても議論されたことは、今回の研究会におけるひとつの収穫であった。今後、それらの解明に向けても検討が深められれば、より一層豊かな研究成果として結実するのではないかと期待してやまない。(百瀬英樹記)