定例研究会 歴史・政治・経済部会


 

第46回

 

日時 2008年7月11日(金) 17:00開始
場所 早稲田大学 22号館510教室(早稲田キャンパス)

報告者1 黄 偉修 氏(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程)
テーマ 「李登輝総統における大陸政策の組織過程:辜汪会見を事例として」
要旨  本報告は、1998年台湾海峡両岸の辜汪会見をめぐるいくつかの事例を検討したうえで李登輝初代直接民選総統時代における大陸政策決定過程の体系化を試みることを目的としている。
 93年の辜汪会談において台湾政府は野党からの批判も浴びたし、大陸委員会と海峡交流基金会も終始対立していた。これに対し、辜汪会見においては、台湾の与野党も達した成果を評価したし、辜汪会見における政府の運営も研究者とジャーナリストに評価された。確かに李登輝が初代直接民選総統に就任した時、国家安全会議を活用し、組織的に大陸政策決定過程を運営していたが、「戒急用忍」および「特殊な二国論」のような政府の決定過程を経ていない決定もあった。そこで、辜汪会見をめぐる政策決定は、李登輝が組織的に大陸政策決定過程の運営を成功させたモデルケースと言えるため、辜汪会見の決定過程を明らかにすることによって、李登輝初代直接民選総統時代における大陸政策の組織過程を解明することができると考えられる。

 本報告はまず、法律から大陸政策過程の組織、およびその関係を検討する。次に、辜汪会見をめぐるいくつかの事例における台湾側の決定過程を検討する。最後に、以上の事例研究によって大陸政策決定における組織過程を体系化すること試みる。

報告者2 森田 健嗣 氏(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程)
テーマ 「戦後台湾山地における『国語教育』の展開(1945-1954)」
要旨  日本植民地下における台湾の山地では、「理蕃」と称する警察官の統治のもと、「授産」の名目で水田耕作や牧畜が奨励され、また「蕃童教育所」や「蕃人公学校」が設置されて先住民族の子女に対し日本語の教育が行われた。これらの施策は先住民族の固有の文化や生活様式を無視した性急なものであった。しかし、エスニシティの観点から言えば、言語・習慣も異なる先住民所属に対して画一的な統治が押し付けられたことは、諸族にまたがる汎先住民族アイデンティティの基礎を作ることにもなったという。そして「国語」(日本語)が当時の若い世代の先住民諸族の共通語になったことはその点を端的に示すものである。また、原住民エリートにいたっては、原住民自治主義イデオロギーの原形にまですでに達していた。

 しかし、戦後台湾にやってきた統治者は、戦後すぐの段階から、原住民を劣った人々である、と認識しており、平地とくらべ内容の質の劣る教科書が原住民用に編纂され、日本人引き揚げに伴う教師不足のため、急場しのぎの教師が育成された。原住民がすでに日本の近代化を受け入れていた、ということは無視されていた。そうした中で行われた山地行政や教育対して原住民エリートは異議を申し立てた。だが、遷台した政府は、山地住民を純粋素朴で、共産党の思想に引きずり込まれる、という疑いの目を持っていた。結果、原住民にとっての戦後台湾の経験とは、中華民国の統合と国民党による党国(パーティ・ステイト)体制に異議を唱えるもの(もしくは唱える危険のあるもの)には、国家暴力が容赦なく襲いかかるものであった。政治に関する「恐怖」が生じ、原住民独自の文化を語ることは抑圧されることだった。また共産党に恐怖を抱いている国民党政府は、原住民エリートを封じ込め、ひいては悲劇に遭わせる、という手段をとった。そして共産党との対抗関係において、原住民を争奪するために、「国語教育」や「山地平地化」という、漢民族に同化させて、山地を共産党の支配から守ろうとする動きがあった。実際のところ、山地近代化が停滞した中で、住民たちは「国語」学習意欲に欠ける動きがあった。にもかかわらず、1952年に台湾省議会議員であった原住民エリート・林瑞昌が白色テロに遭い逮捕され、1954年に処刑されることになった。これは山地で行われる様々な政策にたいして下からの意見の代弁者を失うことでもあり、ひいては、上から進められる「国語教育」などに反発する空間は失われたことを意味する。

 こうした抑圧、閉じられた空間(=山地)において「国語」に代表される一元的な教育が展開され、原住民が有する言語・文化を消失させることになったことを論じる。