最終更新:2011年2月1日


星会員の南部便り
2004.12-2005.12

この南部便りは,星会員が2004年12月から2005年12月にかけて高雄県美濃鎮より届けてくださったものです。(全編収録:2007年1月10日)


【目次】
1 「南部便り」考 2004年12月13日
2 同郷ネットワーク。 2005年3月19日
3 お金は大事です。 2005年4月12日
4 高雄国際労工影展。 2005年5月28日
5 端午節。 2005年6月15日
6 第一届亜州拉子影展。 2005年8月17日
7 六堆と美濃。 2005年9月28日
8 最後です。ご愛読ありがとうございました。 2005年12月16日

第1回 「南部便り」考(2004年12月13日)

 このたび台湾南部便りを書かせていただくことになりました、星と申します。台湾のコミュニティ運動を研究するため今年の9月に来台し、約3ヶ月の台北滞在の後、11月23日にここ高雄県美濃鎮まで南下しました。美濃は南部の客家集住地域である六堆に属し、橋を渡るとすぐ屏東県に着きます。わたしは拠点を当地のコミュニティ団体である美濃愛郷協進会におき、ひとまず年末まで滞在する予定です。今まで台湾便りを盛り上げてこられた諸先生方には及ぶべくもありませんが、思ったところを少し書いてみようと思います。
 しかし「台湾南部便り」を書くにあたって、はたと立ち止まってしまいました。果たして南部とは何か?南部の特徴は何だろうか?南部の反義語は北なのかそれとも台北なのか?「南部」の中には中部や東部は含まれるのか?
 考えてみると、確かに最近「北部偏重の解消」「南部初の××を設立」といった言い方をよく聞くようになったと思います。例えば、高雄師範大学には今年、南部初の客家研究の大学院として客家文化研究所が設立されました。定員は15人で、今年2004年の一期生は10人。教員は主に南部出身の客家文化研究者で、その中には以前美濃ダム建設反対運動に関わっていた人もいます。今後は屏東科技大学や美和技術学院と協力して南部客家研究センターを作る予定だそうです。
 なぜ、南部が強調されるようになったのか?南北台湾の経済格差や南部が「泛緑」の票田であることなど様々な原因が考えられます。わたしにはその理由を詳しく分析する能力はないのですが、美濃にいると台北とは違う台湾の姿が見えてきます。美濃の人は、台北捷運の客家語放送は奇妙で聞き苦しい、あれは北部の客家語だ、と言います。また、北部の客家語には「謝謝」を表す「按仔細」という言葉がありますが、美濃にはそれがない、なぜなら友達に対して互いによくするのは当たり前だからだ、星は「謝謝」を連発しすぎだ、と言います。そうかもしれません。美濃の客家語では「謝謝」を表す「感謝」という表現はあるのですが、北京語で「謝謝」ということが多いように思います。
 逆に台北を離れる際友人に「美濃に遊びに来て下さい」というと、「高雄県でしょ?遠すぎるよ、台北に来たら連絡してね」という返事が返ってくるのです。もちろん、皆さんとても忙しいのが原因なのですが、その中にはどこか「南部なんて」という口調が感じられます。それは宜蘭や花蓮に同じくらいの時間をかけて「大自然」や「きれいな風景」を見に行くほど気軽には行けない場所なのです。交通の便を考えれば決して気軽に行けない場所ではないはずなのですが。
 美濃愛郷協進会のスタッフが頻繁に台北に「北上」(「上京」という単語を彷彿とさせます)している姿を見るにつれ、この国の小ささと台北の求心力を感じます。また、同時に南北の様々な相違点と感情のすれ違いを感じるようになりました。このような二項対立は泛藍・泛緑といい、南部・北部といい、台湾社会に大きな影響を与えているといえます。しかし、この二項対立はグレーゾーンの存在を許さないという意味と、その二項対立から漏れているものは議論の対象にすらならないという意味で、非常に厳しいものがあります。南部台湾から何を伝えられるのか。これから考えていきたいと思います。

第2回 同郷ネットワーク。(2005年3月19日)

 ご無沙汰しておりました。年末を日本で過ごした後、1月31日に再び美濃にやってきました。今年2005年は初めて旧暦の新年を台湾で過ごしたことになります。天気はすでに非常に暑く、半袖のTシャツで過ごせます。蚊よけ及び日焼け防止のために、長袖は依然手放せないのですが。
 今回は美濃から外に出た人の話です。村に就業機会が少ない美濃では、多くの人が外に出ています。10日に一度発行される美濃のコミュニティ紙『月光山雑誌』は購読料を支払った購読者の名前と居住地が出るのですが、美濃鎮の他に高雄市、その郊外にある鳳山市などの購読者が多いことが分かります。他には北部、台北市、海外居住者もいます。
 そして、正月には多くの人が帰郷しました。『月光山雑誌』には、政治家や米国在住の美濃出身者が帰郷した記事が多く載りました。普段はなかなか顔を見せない台北などに住む親戚も、正月には帰郷する人が多いようです。大家さんの娘さん一家も樹林から美濃に来ました。台南で日本語を勉強している大学生のお孫さんに「美濃まで来るの大変だったでしょう?」と聞くと、日本語で「お年玉は大切です」。なるほど。
 年末の大掃除や正月料理の準備に加え、急激な人の増加で美濃は正月恒例の断水に遭いました。年末の渋滞が終わったと思うと、正月には車が道の両脇や家の倉庫、中庭にびっしりつまっていました。多くの人が車で美濃に帰ってきたことが分かります。普段人口4万人の村に20万人以上が滞在していたとか。
 一方、高雄市や屏東市在住の美濃出身の若者には正月でなくとも週末や休日に「帰郷」する人が少なからずいます。美濃から高雄市内までは、渋滞がなければ隣町の旗山から10号高速道路で40分程度、しかも、料金所がないので無料です。また、車を持たない学生にとって、原付に一時間以上乗って台南や屏東を行き来するのはそうめずらしいことではありません。正月の帰郷ラッシュやこの週末の「プチ帰郷」とあわせて考えると、この村を出た人々の存在が浮かび上がります。
 かつて、美濃の外に出た人々が美濃で存在感を発揮した場面がありました。それは、ダム建設反対運動に動員された各地の美濃同郷会です。美濃にダムを作る計画が持ち上がったとき、美濃の住民は激しい反対運動を展開しました。その美濃ダム建設反対運動が最も激しく展開された1999年には、立法院前での抗議などに美濃居住者、現地の台北美濃同郷会だけではなく、高雄など各地の美濃同郷会会員も参加しています。
 現在、美濃ではダム建設反対運動開始から10年余りがたちました。運動の中でネットワークがすでに認知され、動員の経験を豊富に持つ美濃の民間団体は、村の活性化という新たな目的に向けて方法を模索中です。村内部の資源には限界があるため、外部の資源を如何に資源として認知し、活用するかは台湾南部の一農村の活性化にとって重要な課題です。
 美濃愛郷協進会のあるスタッフはわたしにこう話してくれたことがあります。「われわれはどこからが組織の内部でどこからが組織外かを明確には決めていない。例えば、元スタッフ、ボランティアや関連団体のスタッフは我々の団体のメンバーともいえるし、そうでないともいえる。我々はあえてこの境界を定義しないことで、ネットワークを広げている。彼(女)らは台湾中、いや世界中に存在する。ということは、我々は世界中にネットワークを持つということだ。」小さい村だからこそ、全台湾、いや世界中の資源に目を向けていかなければならないのです。
 では、その資源のなかで同郷ネットワークはどのような位置をしめているのでしょうか?様々な同郷会の写真や報道を見ると、同郷会のメンバーが中高年を中心としていることがわかります。したがって、その同郷会と連絡を取る美濃在住者もやはり中高年が中心となります。
 では、同郷ネットワークは中高年に限られるのかというと、そうでもありません。美濃ダム建設反対運動開始から10年余りが経過した現在、かつて美濃愛郷協進会を中心とする民間団体で活動していた一定数の若いスタッフや理事が、運動の経験を買われて美濃の外で働いています。彼(女)らの中には美濃とのつながりを残しながら働く人もおり、ここに新たな若者の同郷ネットワークができているといえます。
 まちづくりのフロンティアである美濃にとって、この若者同郷ネットワークが美濃のまちづくりに如何なる役割を果たすのか、従来の同郷会ネットワークとどのような関係を持つのか、考察の価値はありそうです。

第3回 お金は大事です。(2005年4月12日)

 3 月に台北で髪を切りました。台湾で髪を切るのは2002年に美濃で切って以来2回目です。前回はバリカン使用、洗髪・デザイン不要の家庭式丸刈りで100 元でしたが、今回は洗髪+散髪で800元、日本で切ると同じくらいの値段でした。そのとき、わたしは慣れない場所で髪を切るのが恐かったので、事前にヘアカタログのついた一冊の雑誌を買いました。するとそこで紹介されている服飾品はどれも日本とほぼ値段が変わりません。しかし台北には、五分埔までは安くなくとも、手ごろな服を売る店が多くの若者でにぎわっています。
 食事についても値段が二極化しています。例えばスターバックスの値段は日本とほぼ同じ、ラテならトールサイズで90元です。しかし、わたしの食費は自炊生活の台北なら一日約80~100元、外食生活が主の美濃でも一日約100元前後です。日本円に直すと格安ではないでしょうか。特に外食の安さには驚きます。
 多くの方が感じることかもしれませんが、台湾には二つの価格体系があります。一つは屋台の食事、交通手段に代表される日常生活の値段です。これは、10元=100円という換算方式だと日本の物価感覚にほぼ一致します。例えば、台北のバスは初乗り15元(=日本円で150円)というようにです。もう一つは台北の101や百貨店、高級レストランに代表されるような高級品(とりあえずここではそう呼んでおきます)の値段です。わたしは、これらを市場レートでそのまま日本円に換算することにしています。日本の地方の物価は首都圏と異なるので、「日本の」金銭感覚と一致するとは言い切れないのですが、台湾の高級品の値段は少なくとも首都圏の金銭感覚にかなり近いと思います。
 もちろん、日本に二極化がないという意味ではありません。日本にも手の届かない高級品と、手ごろな値段で買えるものがあります。しかし、台湾の高級品は日常生活のものとより近い場所に並べられています。例えば、先日美濃で自転車につけるランプを新しく買いなおしたのですが、台湾企業製の250元のランプと日本企業製の600元のものが一緒に並んでいました。お店の人に聞くと「どちらもよく売れている」とのことでした。
 台湾の中の価格差に加えて、わたしはさらに台北の消費と美濃の物価や消費が異なることにも気づき始めました。例えば、美濃・旗山では700ccの真珠ミルクティーが15元で買えます。食費は前述の通り一日約100元、最近は大家さんや友人、またはその親戚から野菜をいただいて自炊することも多いので、さらに安く過ごしています。日本の農村でもそうですが、農業用機械の購入など大きな負担はあるものの、物価が安いうえに、まず買い物をする必要があまりないのです。さらにわたしの家賃は洗濯機、シャワーなしの三合院で月1700元。台北の101やデパートの商品をつい「家賃何ヶ月分」などと換算してしまいます。台北では真珠ミルクティーは25元、台北の家賃が高いのは言うまでもありません。さらに捷運、バスなどの交通費も見過ごせないものがあります。
 国内の経済格差はどこの国にもありますが、台湾の人たちは狭い国土をめまぐるしく移動する必要があります。その移動先は主に台北ですから、台湾全土の人たちは台北の物価や高級品の消費を多く強いられることになります。地方にいても、台北(場合によってはさらに海外)の求心力が物価のみならず生活の様々な方面で強くはたらくのは台湾の特徴ではないでしょうか。わたしを含めた美濃の住民が何かと台北に行くのを見ながらそう感じます。その結果、自分が美濃、台北、日本どの感覚を持って生活を送ったらよいのか混乱してしまうようになってしまいました。台湾人にはこのような混乱は起きないのでしょうか?

第4回 高雄国際労工影展。(2005年5月28日)

 日本では気持ちいい季節のころでしょうか。美濃では稲刈りの季節がやってきました。稲穂が大きいのにこれほど暑いというのは日本では考えられないので、とても新鮮な感覚です。気温は30度をゆうに越えていますが、稲穂がさわさわと揺れるのを聞くと何とも言えない清涼感が体をかけめぐります。農村にいてよかったと思うひとときです。
 今回は「高雄国際労工影展」というドキュメンタリー映画祭の話です。門外漢のわたしが書くのは憚られるのですが、社会運動という面から少し書いてみようと思います。
 まず、なぜドキュメンタリーの撮影は社会運動といえるのかを明確にする必要があります。ここでいうドキュメンタリーとは、テレビ局などの既存のメディアが撮るものではなく、ある個人や団体が非営利目的で特定の企業や政府から独立し、独自の資金調達を通して、社会問題の啓発や社会運動の紹介を行い、また観客による議論の場を設ける映画です。ドキュメンタリーは、メッセージの伝達や議論・交流の場の設置によって、直接ではなくとも最終的には社会変革を志向している、つまり広義の社会運動といえます。
 ここからが本題です。5月1日から11日まで、メーデーにあわせて第4回高雄国際労工影展が愛河のほとりにある高雄市電影図書館で行われました。米国、カナダ、ベネズエラ、韓国、台湾などから労働問題に関するドキュメンタリーを一日1,2本放映し、放映後に座談会を開催するというイベントです。多くの大企業をかかえる労働者の都市という課題を、高雄一のデートスポットの愛河で映像という形で表現するのは、文化都市をめざす高雄市らしい催しといえるでしょう。
 ちなみに、この高雄市電影図書館は2001年開館の映画資料館です。エレベーターは北京語と台湾語の放送があり、月曜日の休館日以外は無料で映画を見ることができます。こんなガラス張りのおしゃれな場所にどんな人が労働問題に関するドキュメンタリーを見に来るのだろう?そう思いながら何本か映画を見ました。観客は120席の映画館に30人ほどで、学生と労働運動関係者と思われる人がほとんどでした。
 この映画祭の助成元は高雄市政府労工局、主催者は、労働問題を中心に16年ドキュメンタリーを撮り続けてきた、台湾南部を中心に活動する羅興階(A-kai)です。ドキュメンタリーといえば、この日本台湾学会のホームページでも紹介されていた呉乙峰の『生命』を思い出す方もいらっしゃるでしょう。わたしも去年9月に台北の総統戯院で『生命』を見ましたが、呉乙峰と羅興階は同じドキュメンタリーでも手法が少し異なります。そして、その違いは台湾の社会運動の傾向を反映しています。
 陳水扁総統が昨年9月に『生命』を映画館で見たことからも分かるように、呉乙峰は陳水扁総統と近い位置にいます。また、昨年9月の呉乙峰が主催する全景伝播基金会による映画祭はかなり大規模に行わたのは記憶に新しいところです。中華電信などのスポンサーをつけて、台北での約3週間の上映の他に台中、新竹などで興行するというのは、小さなイベントではありません。
 現在も、全景伝播基金会は呉乙峰が指導した学生が撮った第四原発のドキュメンタリー「貢寮、こんにちは」を南北各地で上映中です。この作品では呉乙峰は監督ではありませんが、プロデューサー(製作人)としてスタッフに名を連ねています。この映画は5月22日に美濃でも放映されました。第四原発反対運動の中心となっている貢寮自救会長、緑色行動聯盟理事長、および監督の崔愫欣を招き、屏東からの観客を含めて40-50人が集まる豪華なイベントでした。
 一方、羅興階は「社会運動は政治勢力から独立すべき」と主張します。したがって特定のスポンサーを持たない分、羅興階の資金調達は当然困難になります。今回の高雄国際労工影展も観客数といい、規模といい、去年の全景のイベントには遠く及びません。
 民主化運動が政治参与の機会を増やし、社会運動が民主化の突破口を作る過程で、社会運動勢力と民進党(及びその前身である「党外」)は強く結びついていました。しかし民進党は社会問題を選挙票を獲得するための争点にしたり、党としてではなく党員個人単位で社会問題に関心を持つという方法を採っていたため、 1990年代以降台湾政治の中で一定の地位と資源を得るにつれて、社会運動勢力との結びつきを総じて弱めていきました。同時に、多くの社会運動勢力も、より多方面からの資源を求めて特定の政党から距離を置く超党派的戦略へと転換していきました。羅興階はこの超党派の典型といえるでしょう。彼の映画の撮影方法はナレーションを入れず、社会問題の所在をより明確に描き出そうとするのが特徴です。愛河を散歩している人が気軽に入って見る映画ではないかもしれません。
 しかし社会運動勢力にとって、政治勢力との良好な関係構築は、より多くの資源や政治機会を確保できる、つまり運動をより安定的に展開できるという長所があります。そのため、社会運動勢力の中には呉乙峰のように、政治勢力(特に民進党)と近い位置を保っている個人・集団もあります。呉乙峰の撮影手法は、ナレーションを用いて社会問題の渦中にある個人のライフヒストリーに焦点を置くのが特徴で、ストーリー性があってより多くの人に感動を与える一方、社会問題の構造は見えにくくなります。
 羅興階と呉乙峰の差異は、政治勢力との距離という台湾社会運動の課題を反映しています。二人の差異はそれだけではありません。先述の撮影手法、つまり社会問題へのアプローチの他に、人材の育成方法も異なります。ドキュメンタリー人材の養成学科である台南芸術大学音像紀録研究所の設立にあたっては台南出身である羅興階の尽力が大きかったそうですが、彼は大学を出ていないため同研究所の教職にはつけず、後に大学でドキュメンタリーを学んだ呉乙峰が招かれたそうです。つまり、大学という研究・教育機関を通して後進を育成する呉乙峰と、学術的な権威を通さない羅興階の差異がここにあります。
 羅興階は先述の高雄国際労工影展の映画上映後、「台北人はすぐ台南在住の私を台北に呼びつける。しかも交通費は自己負担だ。台北人は我々が北上するのに交通費と時間がかかることを分かっていない」とぼやいていました。ドキュメンタリー制作界はこれからもより多くの人材を取り込んで多元化しそうです。

第5回 端午節。(2005年6月15日)

 旧暦5月5日の端午の節句がすぎました。今年は新暦の6月11日でした。端午節にはちまきがつきものです。そこで今回はちまきの話をしたいと思います。日本台湾学会ホームページにふさわしい内容かどうか分かりませんが、しばしお付き合い下さい。
 デパート、ホテル、コンビニ、有名食品メーカーなどは様々なちまきを売り出しました。XO醤入り、海鮮、健康、黒豚、田舎風などその種類は非常に豊富です。これらのちまきは自分の家で食べるというよりは贈答品として流通しているため、きれいに包装され、一箱500元を越える値段でも売れています。そして、贈答品としてのちまきは個人の胃袋の容量を越えて大量に流通し、贈られます。特に職場で共同購入することが多いのだとか。これを読んでいる皆様は、去年の台北便り(2004.10.1「お月様と孔子様」)に書かれていた中秋節の月餅の話を思い出すかもしれません。そういえば、去年中央研究院には月餅の共同購入の申込書が掲示してありました。このようなちまきや月餅は台湾の何を現しているのかという先述の「お月様と孔子様」の問いに答える能力はわたしにはないのですが、その流通量にはただ驚くばかりです。
 また、ちまきに関する報道も、世界最大の660キロのちまきを作る、ちまきから防腐剤が検出された、衛生検査で不合格になった、病死した豚肉が流通したなど多く見かけました。これらのニュースはとかく感情的、突発的に報道され、食品の安全性など背後にある問題があまり提起されないのですが、いずれにせよ、この三角の食べ物が単なる端午節の食べ物でないように思えてきます。
 しかしここ美濃はそんなちまき商戦や報道とは無縁の世界です。コンビニでもスーパーでも、わたしは箱に入ったちまきを美濃で見たことがありません。美濃の人に聞いてみたところ、端午節のちまきは自分の家で作って、都会に出ている子どもや親戚に送るのだそうです。実際、ちまき用の葉の大きな束を売っている屋台や、庭先で女性がその葉を洗っている風景をよく見かけました。美濃ではちまきは自分の家で作るもので、友人や親戚に持って行く気軽な贈り物ではあっても、ブランドなどの付加価値のついた、外で買う箱入りの贈答品(中国語でいう「禮盒」)ではないことが分かります。
 この時期、ちまきに代わるものかどうかわかりませんが、美濃の贈答品はやはりライチです。ライチは出回る期間が短いため、ちまきのような季節感があります。先日あるNPOの事務所には、美濃鎮長から大きなライチの箱が送られました。玉荷包というライチの品種は高級品だと一斤200元するものもありますから、贈答箱入りのライチは決して安いものではありません。赤くて大きくてみずみずしい、初めて食べる生のライチにわたしは思わず感動してしまいました。
 手作りのちまきや、かまどの神様の鎮座する台所に並べられた大家さん自作のパイナップル味噌の瓶をみると、都会では忘れられがちな手作りの食べ物を中心とする季節のサイクルが、ここ美濃では健在であることを実感します。しかしそれは、家の味に飽きた若者にとっては苦痛といえます。実際、若者がちまきをコンビニで買う光景を見かけました。日本の若者がおせち料理に飽きるように、自家製のちまきから逃げ出したい若者もいるのです。
 多くの住民が持っているであろう、村の素朴な居心地のよさと、色々なものから「逃げられない」という閉塞感のジレンマ――端午節の爆竹が鳴り響く中、NPO職員のお母さんが作ったちまきをいただきながら、それが何となく理解できるようになってきました。美濃に住んではや4ヶ月余り。帰国まであと約5ヶ月です。

第6回 第一届亜州拉子影展。(2005年8月17日)

 6 月からだいぶご無沙汰して申し訳ありません。8月5日から10まで台北に行ってきました。美濃は冷房・扇風機なしでも過ごせるのですが、台北では一日中扇風機が欠かせません。そして冷房は非常に寒いです。道が舗装されている上に緑が少ないためでしょうか。日本でも非常に暑いとのこと、皆様くれぐれもご自愛下さい。
 今回台北に行った目的の一つは本文の題名の映画祭を見ることでした。日本語に訳すと「第一回アジアレズビアン映画祭」。この「拉子」は英語のlesbianの音訳で、拉拉、女同志、女同という呼び方もあります。今回はこの映画祭について書いて見ようと思います。5月の高雄国際労工影展に引き続きまた映画の話なのと、内容が南部便りではなく台北便りになるので申し訳ないのですが、台北まで頻繁に北上するのも南部暮らしの一部ということで、お許し下さい。
 第一回アジアレズビアン映画祭は8月5日から10日まで、台北市中山北路の光点台北で行われました。韓国、香港、マレーシア、フィリピン、日本、インド、イスラエル、タイ、中国の映画およびビデオを公開するもので、台湾国内はもちろん海外は香港、中国、シンガポールなど華人圏を中心に巡回上演するというイベントです。映画の長さは5分から52分まで、10分から20分程度の短編を中心に31本が上映されました。また、上映後の会場や大学のキャンパスであわせて座談会も数回開催されました。
 主催団体は台湾性別人権協会(Gender/Sexuality Rights Association Taiwan)。文字通り台湾のジェンダー・セクシュアリティに関する権利を促進する会で、具体的にはレズビアン・ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、性的違和感を覚える人たちなど様々なセクシュアリティを持つ人(ここではそれぞれの頭文字をとってLGBTIと言います)の権利擁護に関する教育、研究、政策提言を行っています。そして協会の中心は急進的な発言で知られる中央大学性/別研究室(セクシュアリティ研究室)の何春蕤、丁乃非たちです。ちなみに、台湾では「性/別」はセクシュアリティ、「性別」はジェンダーを意味するそうです。しかし、性別人権協会の英訳はGender Rights Association Taiwanではなくセクシュアリティも含むとなると、もしかしたらこの二つの単語は混同されることがあるのかもしれません。
 この映画祭の助成団体は台湾民主基金会、行政院青年補導委員会(青補会)の他に、文化建設委員会、教育部、台北市文化局、民進党婦女発展部、後は同性愛の団体やメディアが続きます。この助成団体のリストは二つの意味で興味深いものがあります。一つは台湾民主基金会の助成です。上映された映画の中には、マレーシア政府が上映を禁止した、レズビアンに関する20分のPR映画がありました。この映画の上映、特に海外での上映は、台湾が政府としては同性愛を禁止しないという意味で台湾の民主主義を示す場になります。このように同性愛の運動が民主主義=多様性の保障という戦略からアプローチするのは、台湾に特徴的といえます。つまり、この台湾民主基金会の助成は、台湾が国家の国際的地位向上のために民主主義や多様性を推進し、国内外(特に海外)にアピールしていることを象徴しています。もう一つは台北市文化局、教育部など行政の助成です。日本の行政はエイズ予防などの名目でLGBTIに助成しても、LGBTIの人権擁護に直接助成する例は多くありません。しかし台湾の行政はこの映画祭でも助成していますし、台北市文化局が同性愛者のパレードに助成したのも有名な話です。大衆的支持なしに政策や助成が実現するのは、性別人権協会の超高学歴エリート女性達による政策提言や陳情を中心とした運動戦略が効を奏していると思います。
 日曜日は券が完売、月曜日は休館だったので火曜日に見に行きました。わたしは二回分を見たのですが、約80人の客席がほぼ満席、観客は数人の外国人を含めて大部分が20代、30代のレズビアンカップルと思しき人たちで男性は僅か一人でした。この観客相は東京で今年14回目を数えた東京国際レズビアン・ゲイ映画祭と大きく異なります。2003年の第12回東京国際レズビアン・ゲイ映画祭の観客は、主催者によると同性愛者が43%、トランスジェンダーが12%、異性愛者が36%、その他が9%となっています。それに対し、わたしが台北で見るかぎり当事者であるレズビアンの多さはとにかく圧倒的でした。男性は入るのに勇気が必要だったと思います。わたしは全部の回を見たわけではありませんし、主催者側もアンケートをとっていなかったので、正確な観客層の数字は分かりませんが、この東京と台北の映画祭の観客層は当事者の比率が大きく異なります。そしてそれは利害関係者の構成という社会運動の課題を反映しています。
 社会運動の課題の一つに支持者の拡大があります。支持者の拡大方法の一つは当事者、つまりある問題に対して直接の利害関係を持つ人の範囲を広げることです。わたしの住む美濃では、ダム建設反対運動に際し美濃住民だけではなく、環境、客家、農村などダム建設という課題を様々に拡大解釈し、訴えることで多方面の当事者を取り込み、その結果支持者拡大に成功しました。美濃では当事者の拡大解釈によって支持者が獲得されたといえます。しかし、LGBTIはその当事者性を告白すれば、環境問題、農民、客家の利害関係者より社会的差別を格段に強く受けますから、その当事者性を告白するのが非常に困難です。さらに、 LGBTIの当事者性は身体的なものですから、環境運動のように被害地に引っ越す=自らが当事者になって運動に関わるという関わり方はしにくくなります。その結果、LGBTIの当事者は拡大しにくくなります。このような運動の性格は当事者性を告白しにくい運動、例えばエイズ患者の人権擁護などにも見られます。
 では、当事者を拡大できないLGBTIの運動は、どのように支持者を獲得して行くのでしょうか。東京のゲイ・レズビアン団体をみると、当事者限定のイベントのほかに、良心的支持者(支持者会員)を拡大するイベントによって非当事者の取り込みをはかっていると考えられます。良心的支持者とは、当事者ではないが、当事者を支持する人を指します。LGBTIへの差別は異性愛者から生まれますから、異性愛者つまり良心的支持者の参与があってこそLGBTIへの差別は改善されます。ここに非当事者がLGBTIという課題に参加する余地が生まれます。イベントのサークル内では、自分がLGBTI であるかどうかという当事者性は問われず、ただ同性愛という課題に対して自分が関心や共感を持っていれば「良心的支持者」として同性愛という課題の輪の中に参加することができるのです。もちろん、自発的に当事者性を告白するのは自由ですし、当事者の視点は尊重されます。
 それに対し、台北のアジアレズビアン映画祭では、あたかも参加資格を当事者に限定したかのように当事者が非常に多く見られました。また、台湾性別人権協会の主催するエッセイコンテストの参加資格も「自分をレズビアンと同定している人」と当事者性を要件としています。すると、台北のレズビアンは非当事者の取り込みをあまり図っていないようにみえます。では、何をもって台北のレズビアンは広範な支持を補完するのでしょうか。それは、先述した超高学歴エリートによる政策提言や陳情を中心とする運動戦略だと思います。また、政策提言や陳情のほかにも、メディアの利用も大きな要因です。何春蕤らのメディアへの急進的な発言は有名ですし、メディアも理解の有無は別として、レズビアンカップルの心中事件などLGBTIの話題を日本のメディアよりセンセーショナルに報道しますから、それに対する印象はまた別として、LGBTIの存在は世間に知られることになります。
 なぜ同性愛の中で特にレズビアンをとりあげるのか?とアジアレズビアン映画祭のスタッフに聞いたところ、同性愛という課題の中ではレズビアンよりゲイが主流になる傾向があり、またゲイよりもレズビアンに対してより厳しい差別の目が向けられる。もとより、台北ゲイ映画祭は9月に開催されるので、それに対して女性の同性愛に関するイベントを開きたかった、と話していました。この映画祭のサブタイトルが「レズビアンの夏祭り」ですから、先述の通り広範な支持を必要としない運動戦略を考えれば、実際当事者のためだけのイベントだったのかもしれません。また、この運動戦略から考えれば、これだけ大きなイベントを開くことができても、それはレズビアンが一般社会に広く受け入れられていることを必ずしも意味しないこともまた容易に想像がつきます。会場を後にしてふと振り返ると、芝生に囲まれた、白さがまぶしい瀟洒な建物が中山北路の過密なビル群からふわふわと浮いて見えるのでした。

第7回 六堆と美濃。(2005年9月28日)

 中秋節も過ぎ、美濃は朝晩とても爽やかです。中秋節は日曜だったこともあり、週末に三合院の中庭などで30人以上の大規模なバーベキューを楽しむ光景が多く見られました。わたしは中秋節の夜にバーベキューの煙で曇らない月を見るべく、自転車で用水路に沿って隣町の屏東県高樹郷まで行きました。蛍がちらちらと飛ぶ姿、おぼろげに浮かぶバナナ畑とアスファルトを塗った竹の支柱、および雲一つない広い空に浮かぶ中秋の名月は、去年の中秋節を過ごした台北では見られなかったものです。それを考えると、静かな幸せと寂しさが身にしみる、すてきな中秋節でした。調査も大詰めを迎え、色々焦っていますが泣いても笑ってもあと少し。それまでしばしお付き合い下さい。
 9月13,14日に六堆を見学する機会があったので、今回は六堆およびその中における美濃の位置づけについて書きたいと思います。六堆とはその名の通り六つの客家集住地区、すなわち右堆(美濃、高樹)、左堆(佳冬など)、中堆(竹田)、先鋒堆(萬巒)、前堆(麟洛、長治)、後堆(内埔)の総称で、屏東県と高雄県にまたがります。かつては「六隊」と表されたように、各堆は武装勢力を持ち、集結して乱の「平定」に当たるなど密接な関係を持っていました。高雄で集合してから佳冬、内埔、竹田、萬巒などに行ったのですが、言葉や街並みなどが美濃に似ていて、とても親しみが感じられました。例えば、密集した集落の中の曲がりくねった小道や、道路拡幅のために切られた三合院、道々にある土地公(伯公)は自分の生活世界と非常に近く、美濃とこれらの地区が同じ文化圏に属するのだということを実感しました。
 その六堆の歴史的な中心は竹田の忠義祠 (1958年までは忠義亭)です。忠義亭の起源は、1721年に六堆の各軍が内埔の廟に集結し、朱一貴の乱を「平定」したために清朝から忠義亭建立の勅令が下り、「義民」の英霊を弔うことを得たというもので、実際には新竹県などの義民廟にあたる廟といえます。ここ数年は合同で祭典を行うなど南北の義民廟の交流がさかんですが、それは全て北部の義民廟で行われているそうです。その理由は、この竹田の忠義祠の信徒数や組織が新竹県などの義民廟には及ばないためと考えられますが、忠義祠から見れば、単に台湾客家に関する資源がいわゆる桃竹苗、つまり台湾北部に集中しているだけにも見えるようです。例えばある忠義祠の主任委員は、忠義祠の中秋節の祭典には客家委員会から3万元の補助しか出なかったが、新竹県の義民廟はもっと多くの補助金を得ている、と嘆いていました。しかしいずれにせよ、屏東県政府が忠義祠の土地の寄付を受けてその後ろに客家文物館を建てた2001年からは、この忠義祠は少なくとも六堆に関する文化および行政の中心となっていると思います。それは、六堆の文化や歴史に関する雑誌である『六堆』を発行する六堆文教基金会の事務局がここ忠義祠に置かれ、多くのいわゆる地方史研究家が集まってくることからも分かります。
 その六堆のなかで、美濃鎮はほぼ唯一高雄県に属します。「ほぼ」と書いたのは、右堆のなかに高樹、美濃だけではなく、美濃に隣接した六亀、杉林などの客家集住地区を含むこともあるからです。そのため美濃およびその周辺と屏東県の六堆では、同じ文化圏に属しながらも行政や交通の中心が異なります。例えば、高雄県の客家行政は高雄県政府文化局および民政局客家事務課が中心であるのに対し、屏東県では屏東県政府客家事務局が担当しています。したがって、屏東県政府が六堆に関するイベントを行うときは基本的に美濃を含みません。もちろん、高雄県と屏東県が合同でイベントを行うことは可能ですが、それにはさまざまなコーディネーションが必要になります。
 では、六堆の中で美濃はどのような位置を占めるのでしょうか。現在、屏東県の六堆の客家人口が約20万人なのに対し、美濃つまり高雄県の六堆の人口は約4万5千人ですから、六堆全体のなかで美濃が人口的に大きな比重を持つとは考えられません。しかし、美濃の知名度は高雄県、六堆の中のみならず、「南部客家」の代名詞となるほど高くなっています。そのため、美濃は単独で六堆と銘打って活動をすることは多くありませんが、その知名度はときに屏東県の「六堆」の知名度を越えます。それは90%を越える客家人口の比率からも、客家電視台や新聞などメディアの取材の多さや美濃の旬刊コミュニティ紙「月光山雑誌」の存在からも、さらに客家委員会の主委李永得および文化建設委員会の副主委呉錦發が美濃人であることからもうかがえます。(ちなみに、李永得の父親はわたしの住む里の里長です。) 美濃にも外省人の移民集落はありますし、隣の杉林郷も客家人口の比率が約70%と決してひけをとらないのですが、やはり美濃は観光地および社区総体営造の実験地として多くの費用を得、またその効果を出しています。したがって、現在の六堆の中心は竹田のほかに、美濃も相当その役割を果たしていると思われます。例えば、ここ3年の南部六堆の客家文化節は2回美濃で行われています。このイベントは屏東県政府が「六堆の大部分は屏東県なのだから屏東県で客家文化節を行うべき」と主張するのに対し、高雄県政府は「美濃のほうが客家地区として有名だから美濃で行うべき」と主張し、結局2回は美濃で開くという結果になったのだそうです。
 このような美濃の知名度に対し、屏東客家の地方史研究家やコミュニティ団体の関係者は複雑な心情を持っているようです。忠義祠の管理委員を務める美濃のコミュニティ団体のスタッフは、自分は屏東客家のコミュニティ関係者から、美濃は色々なコミュニティプロジェクトをやっていてすごいと称讃されるが、その称讃の中には少なからずなぜ美濃だけがかくも多くの助成金や資源を得られるのかという嫉妬にも似た感情を感じる、と言っていました。また、屏東の60歳代のコミュニティ関係者は美濃から来たわたしに対して、美濃にはあなたのような若い人がたくさんいていいね、と羨ましそうに言いました。二県にまたがるこの六堆という地区は同じ文化圏に属しながらも様々なポリティクスを含んでいます。2日間の六堆の見学だけでは日頃の不勉強のためその全体像を見て取れませんでしたが。

第8回 最後です。ご愛読ありがとうございました。(2005年12月16日)

 美濃では12月に入ると、稲刈りの後に植えられたタバコがキャベツより大きな葉を地に広げ、あっという間にわたしの背丈を越えました。また、夜は三合院の裏庭から見るオリオン座が存在感を増してきました。裏庭から大根のにおいの充満する台所を通って前庭に出ると、青白い月の下で、すっぽんが養殖池の中に跳び込む音が響き渡ります。「月とすっぽん」などとばかげたことを考える前に、台北では考えられない闇の静寂にふと涙が出てしまいました。
 今週ついに帰国したのですが、この数ヶ月間感じたことを書きたいと思います。最後の南部便り、お付き合い下さい。
 今回は、台湾のNPOスタッフについての話です。理由があって10月に一時帰国したとき、現在大阪のNPOで働いている元職場の上司を訪ねました。さらに彼女の家にまでおしかけ、翌日出勤の彼女と朝の4時半まで話していたのですが、そのときにNPOスタッフの流動性について話す機会がありました。
 日本では新卒者がNPOで生計を立てられる就業機会を得るのは非常に困難です。なぜなら、NPOに人を育てる力がない、したがってNPOが新卒の人材を求めていないからです。また、NPOから企業など他セクターへの転職が困難なことを考えると、新卒でのNPOへの就職は将来のキャリアの選択を大きく狭めることになります。したがって新卒者のNPOへの就職希望者は潜在的にNPOで働きたい人数よりかなり減ります。日本のNPOスタッフの離職率は4年で7割といいますから、求人がないわけではないのですが、日本NPO学会のメーリングリストなどを見る限り、大部分は経験者採用で、新卒採用は非常に少ないのが現状です。そして新卒、経験者を問わず一般的に給料は非常に低く、実務経験者でも月給15万円前後、さらには時給計算(800円前後)の職もあります。
 それに比べると、美濃や屏東のNPOの多くは大学の新卒者ないし1,2年目の社会人をスタッフとして採用します。初任給は月給2万元強が相場のようです。彼 (女)らにNPOに入ってきた理由を尋ねると「大学生時代にボランティアしていて、卒業後あまり深く考えずにNPOに就職した」という答えが返ってきました。多くのスタッフはNPOでの仕事を「きつい」「学習の場」「長くする仕事ではない」と捉えています。では、NPOではどんなスキルが得られるのかと聞くと、コミュニティにおける人脈作りや組織化、コミュニケーションという答えが大半でした。現在政府機関で働く元スタッフは「コミュニティにおける人脈作りやコミュニケーションさえ会得すればどこの職場でもやっていける」と話していました。事実、NPOでの経験は政府に好感を持たれるようで、旗山区コミュニティカレッジ(旗山区社区大学)の主任によれば、社区大学には政府から人材引き抜きの依頼がよく来るそうです。つまり、美濃のNPOスタッフの多くはコミュニケーションやコミュニティの組織化というスキルを求めて大学卒業後NPOに入り、思考や実務の訓練を経てそれをステップに他セクターへと移っていくといえます。
 前述の元上司にこのような状況を話すと、非常に羨ましがっていました。彼女によると、日本では前述の通り、NPOから他セクターへの転職が困難です。したがって、NPOでの仕事を経験した人材はNPO界の外に出て行かず、若い人材が入りにくくなっています。日本のNPO法人数は2万4千を越えましたから、NPOセクターが拡大していないわけではありません。しかし生計を立て、キャリアを積める就業機会はNPO法人数の伸びに比べてさほど増えていません。それを考えると、日本のNPOは台湾のNPOに比べて若い人材の入る余地があまりないうえ、企業や政府にNPOでの勤務経験者が少ないため、NPOが変化を起こしにくいばかりか、他セクターから広範な支持を得られないというのです。台湾でNPO関係者が県政府や中央政府に入り、 NPOとの協働を容易にしていることを考えれば、台湾のNPOは日本より活発であるといえます。
 美濃の若いNPOスタッフの流動性の高さには、いくつかの背景があります。1つは政務官(地方政府は機要職)・事務官という公務員制度です。政務官や機要職は試験を経ずに公務員になることができますから、上司の招聘さえあればNPO職員でも簡単に政府入りすることができるのです。2つ目は、大学院もNPOに関する学科や社会人コースを設けるなど、NPO職員のキャリアアップという需要に応えていることです。3つ目は、美濃のNPO自体が調査、研究を行うため、元々将来研究に関わりたい人が学術・実務の訓練のために先にNPOで仕事するということです。あるスタッフは、将来博士課程に行って研究をしたい、NPOスタッフという経験はそのための参与観察だ、と話していました。そして4つ目は、とにかく仕事がきついことです。休日がほとんどなく、私生活と仕事の境界が曖昧である状態は長く続けられるものではありません。このような背景の他にも、スタッフの中には将来NPOで仕事したい大学生からの無言の圧力があるようです。NPO4年目のスタッフは「NPOの仕事はある程度やったら若者に譲るべきだ。大学新卒でNPOに入って来たい人はいくらでもいる」と話していました。制度的にも、スタッフの意識的にも、NPOの仕事は長く続けられるものではないようです。
 台湾でNPOスタッフが理念志向ではなく、比較的気軽なキャリアの一つと考えられているのは、就職にかなりの覚悟を要する日本のNPOスタッフと異なり、若者を入りやすくしているといえます。しかし流動性の高さは代償を伴わないわけではありません。まず、気軽に入れるゆえに気軽に出て行くこともできるため、NPOでのキャリアを長く持った人がNPO界に蓄積されにくいという欠点はあります。そのため、NPOは常に若い人材を育てるというコストに直面せざるをえません。第2に、都会・農村を問わず台湾のNPO一般にいえることですが、若い人材を手荒く育てる結果、激務に耐え切れない若者を追い出してしまうことになります。特定の組織に所属せず、自分の理念を追求したいという台中のある活動家は美濃の様子を「働きすぎ」と評していました。彼が言うには、社会運動を長く続けるには「ぼちぼち」行くのがいいそうです。台湾でNPOがキャリアとして追求できるようになったのはそれほど昔のことではありませんが、この流動性の高さは当分続くでしょう。そしてそれはわたしの元上司がうらやむばかりのものではなさそうです。
 この1年強の滞在を振り返って、非常に多くの経験をしたと思います。今回はNPOスタッフのキャリアパスについて書きましたが、実はわたしにとって最も印象的なのは三合院での生活でした。冷房もテレビも扇風機もなく、朝は鳥の鳴き声または爆竹で目が覚め、毎日ほうきでヤモリの糞と格闘するのは都会育ちのわたしにとって非常に新鮮な経験でした。その三合院に同居する若いNPOスタッフのするどい思考にはいつも刺激され、敬服するばかりでしたが、日頃NPOや学術機関に接触していない、色々な世代の方々とも交流を持てたのは幸いでした。彼(女)らからは台湾に生きる人の知恵を学んだと思います。その他とても紹介しきれませんが、多くの方にお世話になりました。本当にありがとうございます。
 また、「南部便り」をここまで読んでくださった皆様にも感謝申し上げます。今まで日本台湾学会のウェブサイトを盛り上げて来られた方には遠く及ばず、お恥ずかしいのですが、台湾での生活感などを少しでも感じ取っていただければ「南部便り」の目的は達成されたことになります。また、執筆の機会を下さった佐藤幸人さんにも感謝しなければなりません。毎月書くなどという大技は無理でしたが、「南部便り」の執筆は生活のよいペースメーカーになってくれました。今後は日本に拠点を移して、台湾との関わりを様々な方面で続けていきたいと思います。 (2005.12.16 星 純子)

アーカイブトップに戻る