最終更新:2011年2月1日



松金会員の台北
2004.5-2004.9


この台北便りは,松金会員が台北に長期滞在した折に執筆していただいたものです。(全編収録:2005年3月19日)



【目次】
1 知ること、読むこと、聴くこと 2004年5月31日
2 綺麗なお店でコーヒーを飲みながら考えること 2004年8月31日
3 お月様と孔子様 2004年9月30日



第1回 知ること、読むこと、聴くこと(2004年5月31日)

 はじめまして。今回から台北便りを担当することになりました松金と申します。台北での長期滞在は5年ぶりです。実は、昨年の10月に来台しており、台北での生活もすでに8ヶ月が過ぎようとしております。

 今回、佐藤先生、岸川先生に続いて「台北便り」の執筆をと声をかけていただきました。しかし、両先生の深い政治・経済・文化への洞察力に私の力が及ぶべくもないことは重々存じ上げており、どうしようかとずいぶん悩んだのですが、よせばいいのになぜか引き受けてしまいました。せっかくおふたりが続けてきた台北便りが、「つまらなくなった」と、そんな風に思われてしまうことをもっとも恐れていますが、とりあえず、次の人までつなぐことだけを考えて、書いていこうと思います。台湾での経験も少ないですし、特別な観察眼をもっているわけではありませんので、私と台湾の人たちとの付き合いを通して得た小さな感想を書いていきたいと思います。よろしくお付き合いください。
 さて、今回の話題に入りましょう。
 最近、こちらで『私の十三年』(仮)という本をいただきました。なんの本かな、と開いてみると400首に及ぶ短歌が並んでいました。この三十一文字の作者のお名前は林さん。もちろん、「はやしさん」ではなく、「りんさん」。愛すべき台湾人のおばあさまです。すでに御年80歳を越えてはいますが、大好きな「ふるさと」や「あかとんぼ」を元気に歌う姿にいつも元気をもらっています。今回、これまで13年間にわたり詠み続け、日本のある歌壇に投稿し続けてきた短歌を集めて出版したとのことでした。
 ここまで書くと、ここは日本台湾学会のHPですから、台湾をよくご存知の方々には、「ああ、あれね」とか、「なるほど、日本語世代が・・・」と、なんとなく片付けられてしまいそうな本ですが、この歌集をもらって、恥ずかしながら、私ははじめて気づいたことがありました。というより、もらった瞬間には感じなかったのですが、あるとき、新聞の原稿依頼を受けて、この歌集を題材にしようと思い、手にとってページをめくったとき、ようやくあることを思い出したのです。
 私も台湾の歴史について勉強させてもらっているので、これまでも、あるときは文芸誌、あるときは自伝、あるときは昔の台湾のこと、あるときは句集など、いろいろな日本語の書籍を台湾の人から頂いてきました。個人的なノスタルジーと、研究者としての興味と打算と、日本人としての罪悪観といった気持ちが少しずつ入り乱れる中で、いつも「笑顔」と「感謝」とともにこれらの書籍をもらい続けてきましたが、これまで、今回のようなことをはっきりと感じたことはありませんでした。
 なぜだろうと考えて行くうち、いくつかその原因が思い浮かびました。その中でもとくに気になったのは、「知っている」という状態の怖さでした。最近はいろんな台湾関係の書籍が日本でも出版され、日本人は台湾のことをよく知ることができるようになってきています。だから、例えば、台湾は日本の植民地であったため、戦前は日本語を国語とする教育が行われ、現在70歳を超える高齢者の中には、自らの「感情」や「想い」を表現する手段として「うた」を詠む人々がいる。なんてことは、いろんな本に書いてあります。そして、『台湾万葉集』が出版されたことにより、それはより知名度を増しました。もちろん林さんもその同人の一人です。そんな「親切な」文章たちを眼でおっていくと、「手段としてのうた」なんて、わかったような、わからないような理屈が、誰の頭にも入ってしまうのです。そして、そんな中、本を、そして想いを、集め続けていってしまうのでしょう。
 でも、そんな中で、久しぶりに歌集を手にとり、一首詠んでみたとき、ようやく気づいたのです。私がいただいたた短歌をまだきちんと読んでいなかったことに、そして、この400首が林さんのこの13年だということに。13年前はまだ90年代初頭。きっと、このHPをup時点で読んでいる人にはその頃の記憶があると思います。そんな時代の「うた」として、そしてその作者として、私は林さんを見つめてこなかったのです。読むことの大切さを学んできたはずなのに、このような歌や句、そして文章を、どうして読んでこなかったのか。また、その人個人の問題と切り離してしか論じてこなかったのか。
 もちろん、かかる書籍を、大切に、大切に読み込んできた方も大勢いることは存じているのですが、私は眼を通しただけで読んでこなかったのです。知っているから、分析ができているから、そんな理由しか思い浮かびません。
 その後、三首、そして次の三首、ページをめくり、台湾人が表現した「日常」を外国人の私が読んでいく、そんな作業がはじまりました。その瞬間、そのような現象が、台湾でおこっていることに、私が続けてどきどきしたのは事実です。もちろん、不勉強な私はこんな状況をカタカナ語でなんと言うのかは知りません。でも、うっかり声に出して詠むことはありませんでした。
 ところで、戦後育ちの子供たちは中国語を国語として教育されているので、林さんは当初「わが歌集/成る日のあらば/漢文の/翻訳つけて/子等に残さむ」と、歌集を出版する際には、一首一首短歌を翻訳するつもりだったそうです。実際、中国語の上手な方にお願いして訳してもらった部分もあったそうです。しかし、結局は、翻訳者には悪いと思いながら、翻訳をつけず歌を並べることにしたそうです。その理由を聞いてみると、本にも書いてあるのですが、日本語を解さないアメリカに住んでいる娘が林さんに、中国語に訳しても「日本の詩の韻律が出ないのでは?」と理解を示し、ご自身も「どんな言葉で訳しても三十一文字のあの特有の美しい調べには変えられない」と思ったためだからだそうです。このような母娘の会話をわれわれはどのくらい残すことができるのでしょうか。
 お世辞だとはわかってはいるのですが、林さんはいつも私に「松金さんの北京語はやさしい」といってくれます。それに続けて「若いころ自分が聞いた北京語も歌っているみたいに綺麗だった」といいます。「あかとんぼ」が大好きで「北京語を歌みたい」という林さんが、詠う「ソプラノの/ミ音がかすれ/歌へざる/我としなりて/日びを悲しむ」と。
 私は、歴史のどことどこをつなげて、どことどこを見つめなおすべきなのか?そんなことを考えつつ、やっぱりつながらない歴史をなんとかつなげようと意気込んで、また林さんに会いに出かけるのです。結局は「聴く」という作業しかできないのだけれど、台湾にいるからそれもできると自分を納得させながら。次の本を読むために。(校了日5/31)




第2回 綺麗なお店でコーヒーを飲みながら考えること(2004年8月31日)

 前回、書き込みをしてから、ずいぶん時間があいてしまいました。これからがんばって書いていきたいと思いますので、どうぞお許しください。
 さて、最近、台湾で気になるものがあります。それは「喫茶店」です。
 かつて、台北でおいしいコーヒーや紅茶を飲もうと思ってもなかなか見つからず苦労?した方は多いと思います。今では、スターバックスやドトールはもちろん、シアトルコーヒー、ミスターブラウンコーヒー(ミスポランコーヒー??)、ISコーヒー、ダンテコーヒーなどなど、たくさんのコーヒーチェーン店ができています。そんなわけで、なにかというと「コーヒーでも飲みながら・・・」を連発する日本人研究者としては、「便利になった!」とは思うのですが、もちろん、ここで書きたいのは、如何に便利になったかということではありません。
 先日、ある台湾の友人から、高雄の街が最近とてもきれいになったという話を聞いたので、誘われたこともあり、高雄に行ってきました。たしかに、5~6年前とは大きなかわりようで、いろんな意味でかなりびっくりしてしまいました。
 高雄には愛河という有名な運河があることは皆さんご存知でしょう。しばらく前は、水質汚染が激しくて河岸によるだけで、思わず息を止めてしまうといわれて有名になっていましたが、今回そのかわりぶりには眼をみはるものがありました。もちろん、「泳げる」とか、「飲める」とかいうわけではなく、まだまだ鼻を突く臭いは多少残っています。しかし、運河にかけられている橋はきれいに塗りかえられ、運河の両側の歩道はライトアップされ、河岸や石畳なども綺麗に整備されていて、夜、時間がある時に「ちょっと、愛河へ」という人がいるだろうと思わせる、素敵な散歩スポットに様変わりしていました。
 運河には定期的に舟にのってごみを拾う人の姿もみられました。もちろん、舟には数種類のゴミ箱があり、拾うときには、分類もなされていることからわかるように、これは行政がその整備を進めているのです。どのような基準でゴミを拾っているのかはわかりませんが、高雄は現在、市長が策定した「港湾都市」というスローガンの下、ハードインフラを中心に整備を進め、また「友善都市」というもうひとつのスローガンの下、ソフト面を整えようとしています。これらの動きから、工業都市として名を馳せた高雄が、文化都市や観光都市としての側面をあわせもつ都市へと徐々に変化している過渡期にあると捉えてもいいような気がします。愛河の臭いを思い出しながら、そんなことを考えていました。
 ところで、ぼくは、この時ある団体に参加して高雄を巡っていました。日本時代から残る旧市街地区の整備、港湾地区の再開発・整備と観光資源創造、丘陵地・湖沼地の自然環境や生態保護、新たな湿地の創設、歴史的建造物の修復と教育や文化経済への再利用、そして愛河をはじめとした各運河の再生など、これまでの高雄とは大きく異なる高雄を眼にすることができました。ぼくがこれらの施設を見ると、高雄の人々は日本人のぼくに聞くのです。「これで、日本人観光客は高雄に来るか?」と。皆さまは如何お考えになりますか。たしかに、高雄には台北にない魅力があるのは事実です。「南部に行かないと本当の台湾がわからない」といった日本人リピーターや台湾通の声も聴こえてきそうです。しかし、そこでもう一度考えたいのは、このような整備を行い日本人観光客に期待をかける高雄に、果たしてどれだけの外国人が継続的に観光に訪れるのかということです。また、そうでないなら、その理由はどこにあるのでしょうか。専門家ではない、ぼくには彼らに説明することはできませんでした。「ぜひ一度、高雄に行ってみてください」と日本人の友人たちに伝えておきますということが私の精一杯のことばだったようです。だから、あらためてここで書くことにします。「ぜひ、一度高雄を訪れてみてください。」
 さて、ようやく「喫茶店」です。上に述べたような、これらの新たな文化スポットで、どこに行っても、ぼくが必ず眼にしたのが喫茶店だったのです。喫茶店といっても、お茶を飲むところではなく、コーヒーショップです。丘陵や湖沼の自然保護地区にこそないものの、古跡や歴史的建造物の再利用、旧市街地の再開発などで建造・修築された建物の中には、必ずといっていいほど、ソレはあります。ぼくも愛河の脇にある屋外喫茶店の椅子に腰をおろし、常設の舞台の上で、大小各種の台湾本島の形をしたオカリナを奏でる某政治家を眺めながら、その時は、こんな広報活動もあるのだ、なんてあたりまえの思考が働かず、思わずいい雰囲気でコーヒーを飲んでしまいました。帰り道、きれいに整備された愛河の脇の歩道を、下を向いて歩いていて、その時、ようやく台湾南部に行った時に、同じようなことを感じていたことを思い出したぐらいです。
 まるで遊んでばかりいるように思われるといけないので、簡単にしますが、それは台南市に行った時のことでした。台湾文学館を眺めつつきれいに整備された街路を歩いていくと、修復された台南城門に到着します。その城門に登ってみると、なんと、そこには喫茶店があったのです。
 また、台南県には玉井という街がありますが、その郊外に抗日運動ゆかりのやまがあります。もちろん、ぼくはそこにある抗日記念碑を視るために行ったわけですが、登ってみて見つけたのは、碑だけではありませんでした。碑の脇には夕暮れの中で雰囲気よくソフトドリンクが飲めるソレがあったのです。やまから降りて街に入ると、そこには綺麗に整備された街路と亭仔脚、そしてどの店にも掛けられている同じ形をした看板・・・。ここで思い出したのは、9・21地震の後の台湾中部の中小都市の復興後のメインストリートと、最近綺麗になったと評判の淡水の川縁と大稲埕でした。ご覧になった方も多いと思います。
 ご存知の通り、近年、文化建設委員会や各地方政府の文化局などを中心に、台湾では、日本でいう「まちづくり」的なコミュニティー創造運動や古跡や歴史的建造物を修復・保存し、それらを利用した文化経済振興が積極的に推進されています。そのような中、日本からまちづくりに従事している方が来ることが増えているようです。そんな人たちが台湾の様子を視察すると、政府側が資金面で積極的にいろいろ補助することや小学生ぐらいの子どもたちが、郷土教育の一環として先生の指導の下で地域を調べ、一生懸命に報告する姿を見て感動とともにある種の違和感を覚えるようです。日本ではこんなことはありえないなどという人もいます。そしてそこにあるのは決して非難ではありません。
 文化財→政府による整備→喫茶店など文化経済導入→そして、自分の地域のさまざまなことをよく覚えている子どもたち・・・。これから、どのようにこの動きが展開し、人々に影響を与えていくのか。これは注目すべきことなのかもしれません。本当に台湾の本土意識の定着といった単純な軸で捉えていいのでしょうか。
 はたして、この短期間で台湾の人々はどのくらいコーヒーを外で飲むようになったのでしょうか。もちろん、そんなことは調べられないのですが、まあ、まだまだ、高雄での調査が残っているぼくは、日頃は飲まない熱いコーヒーを、綺麗なお店で一生懸命飲み干しました。一日でも長く、この「素敵な場所」が維持できるように。(校了日8/31)




第3回 お月様と孔子様(2004年9月30日)

 今回はなんてことはない一日のことを書こうと思います。こんなことを台湾学会のHPに書いていいのだろうか、とも思いつつも、雑談にしばしお付き合いください。
 9月末になって、もちろんまだまだ暑いのですが、すくなくとも台北の風はようやく秋の気配を感じさせるようになってきました。でも、先日、ふと、最近なかなかそんな「けはい」を感じなかったのは、なぜだろうか?と考える機会がありました。もちろん、ぼくには季節を味わうなんて雅な趣味はあるはずもなく、いろいろな日常に気をとられ、かわりゆく時季に気をとめていなかったから、というあたりがその理由なのでしょう。そこで今回は、最近、何が気になっていたのかということから書いていくことにします。
 こんなことを書くと、また遊んでる!と思われるのでしょうが、ここ2~3週の間、気になることといったら、眼の前に積まれていく円い形をした甘いお菓子と、ちょっと皮の厚い柑橘類をどうするか?ということだったのです。そう、あの季節、中秋節がやってきていたのです。今年は9月28日がその日でした。3週間ぐらい前から、あんこ入りやたまご入り、松の実入りはもちろん、マンゴー味やブルーベリー味、ヨーグルトに、コーヒーに、チョコレート、人間の知力を尽くしたといえるかもしれない、さまざまな月餅がぼくの眼の前に現れました。
 時には、電話をとると、「今日、何時まで事務所にいる?月餅もって行くから!」と友人から。ぼくは「いいよ、悪いから」と応えるのですが、その返事は「まあ、遠慮するなって!」と、よく考えなくてもわかる台湾らしい会話がそこでは交わされ、人間の知力の「結晶」は、またひとつ机と本棚に並ぶのです。
 元来甘いものが好きなぼくは、「愉しく」月餅をいただきつつも、「箱ごと」食べると病気になりそうなので、ほかの事務所の人たちと分け合おうとするのですが、ひとつ渡すと、別の味がひとつ戻ってきます。ああ物々交換ね、と思いながら、夕食が月餅なんて日もあり、ますますぼくの身体の中の「知の結晶率」は上昇していきました。
 はたして、台湾ではどのくらい月餅が生産され、消費されているのでしょうか?ただ、前回滞在していたときとちょっと違ったのは、以前はお母さんが作ったなんていう、ぜったい食べねばならない月餅を結構いただいたものでしたが、今回は立派な、かさばる木の箱に入った月餅をもらうことも多く、「どうやって返そう」なんて心配してもはじまらないことを心配することが増えたことでした。箱の中で忘れられないよう、できるだけ早く取り出しつつ、月餅市場は広がっているんだ、なんてよくわけのわからないことを考えていました。中秋節の前の日の午後、案の定、台北の道路は混んでいて、月餅を送る人による渋滞、なんてことばをいろんなところで聞きました。端午節のちまきといい、この月餅といい、台湾の何かを示しているのはたしかでしょうが、いったい何を示すものなのでしょうか?
 ところで、中秋節といえば「賞月、烤肉、吃月餅」なんて言われるのですが、たしかに、あちらこちらでBBQ(バーベキュー)が繰り広げられていました。今回の中秋は火曜日だったので、その前の週末にBBQは済ませたなんて、知り合いは言っていましたが、これも週休二日の影響でしょうか?ぼくも「BBQで煙が出ると、お月様が見えないよ」なんてことは言ってもしかたないので、言われるままに「烤肉」へと向かいます。中秋節当日は朝5時すぎから、そこはかとなく、肉を焼く臭いが・・・もちろん「幻臭」だと思いますが、そんな中今年は孔子廟に向かいました。
 そうです。今年の中秋節は、教師節と重なっていたのです。孔子様の誕生日。当然、日頃は閑散としている孔子廟が人で埋め尽くされる日です。朝、台北市の孔子廟に向かうと門の前に人が並んでいます。ここは台北市政府が管理していますから、廟の脇の街路は、石畳風にきれいにデコレーションされています。そして、そこに大型のスクリーンが置かれ、中の儀式の様子が映し出されていました。たまたま来た日本人観光客にガイドさんたちは「今日は行事をやっているから中までは行けません」との言。
 大勢の人が見守る中、こどもたちが、「伝統」衣装を着て、「伝統」舞を踊ります。儀式は粛々と進行し、門が閉じられ一連の儀礼が終了すると、舞台の上に現れたのは、市長と教育・民政・文化局長など、行政のトップの面々でした。大勢の地元の人々、メディア、外国人を前に舞台の上で、紹介と挨拶が始まります。挨拶の次は、見学者におもちを配り、最後は「出演者」たちへの感謝状贈呈、そして彼らとの写真の撮影会+握手会でした。上空を航空機が飛んでいくこと以外、すべてがいつもと違う孔子廟でした。
 もちろん、行事は市長が帰った後も続きます。日ごろから経典を勉強しているグループによる礼、折り紙や習字などの体験、周辺古跡のスタンプラリーなどなど、行政と地域による文化活動がそこには展開されていました。でも、そこには月餅の姿はありませんでした。
 早起きして眠くなったので、自宅に戻ると、肉を焼く臭い。今度は本物でした。中秋という「伝統」にBBQを愉しむ。孔子という「偉人」に地域を託す。そんないろいろな考え方や価値観が同時に存在しているなかで、人々はどんな季節を感じているのか?とてもとても知りたいと思いましたが、そんなことは無理なのでしょう。ただ、その中に「冬」という季節を強く意識した人物が、さっきまでこどもたちが踊っていた舞台で、熱弁を振るう姿は、季節感があるのかないのか、考えれば考えるほど、よくわからなくなってしまいました。
 一度寝て、起き上がり、「そうだ今年は美味しいアイスクリームの月餅を食べてない」と思ったとき、中秋にどっぷりとつかりながら、季節を感じていなかった自分にやっと気づきました。アイスクリームを食べるには少し涼しくなったなと思った瞬間、なるほど、孔子廟にいた冬を感じる人たちは「感性」が鋭いんだと改めて心得したのです。
 でも、ぼくの「感性」は鈍いので、その夜は、しっかりと、円いまるいお月様をあらためて眺めることにしました。見ているうちに、秋が始まるんだなと実感し、嬉しくなりました。そして、次ぎの日の朝の風はやっぱり秋の風でした。(校了日9/30)