最終更新:2011年2月1日

佐藤会員の台北便り2001.7-2003.7


この台北便りは,佐藤幸人会員が2001年7月から2003年6月にかけて台北に長期滞在した折に執筆していただいたものです。(全編収録:2003年7月21日)


【目次】
1 九年ぶりの長期滞在 2001年7月24日
2 第1回台北定例研究会、開かれる 2001年8月22日
3 「台商」はつらいよ・大陸奮闘編 2001年9月26日
4 台湾大学経済学研究所での報告と議論 2001年11月2日
5 台湾の喧しさ 2001年11月30日
6 民主化後の二つの途 2002年1月22日
7 「助理」というお仕事 2002年3月29日
8 安東尼紀登斯教授の訪台をめぐって 2002年4月26日
9 「徴婚啓事」 2002年5月10日
10 新竹に対する誤解 2002年6月19日
11 日台不動産仲介料考 2002年7月7日
12 「顧問」というお仕事ほか 2002年8月5日
13 中央研究院研究人員連合会続報 2002年8月10日
14 夏の在庫一掃―会議・講演会・企業訪問― 2002年9月30日
15 台北按摩指南 2002年10月13日
16 生李登輝さんと黒い川 2002年11月12日
17 年の暮れにあれこれ考えたこと 2002年12月31日
18 日台のエチケットについて 2003年2月8日
19 甘い台湾 2003年3月13日
20 まちのつくり 2003年4月30日
21 SARS随想 2003年5月21日
22 SARSその後 2003年6月5日
23 インタヴュー奮闘記 2003年6月29日
24 最終回です。ご愛読ありがとうございました 2003年7月1日



第1回 九年ぶりの長期滞在(2001年7月24日)

 まず、折角、学会のサイトにこのようなコーナーをつくっていただきながら、今までunder constructionにしておきましたこと、お詫び申し上げます。
 台北での生活もは早くも第4週に突入しました。長期滞在はほぼ9年ぶりになります。この間、わたしも変わりましたし、台北も変わりました。わたし自身について言えば、前回、来た当初は中国語も不自由でしたし、知り合いもごく僅かでした。今回は言葉で苦労することはずいぶんとなくなりましたし、知り合いもかなりいます。その分、リラックスしています。こちらでの身分も、留学生から「訪問学人」に変わり、当面のプレッシャーは大きくありません。留学生時代はは毎日講義に出るたびに、宿題の範囲と提出日を聞き逃さないようにするだけでも、ずいぶんと神経を使いましたから。正直言いまして、今、その分、かなりだらけています。
 それから、アジ研から送り出されている身分も違います。前回は断交後、初の派遣であったため、渡台直前に事務上の不備がわかり、一年間は休職して来ることになりました。そのため、金銭的な余裕がなく、大学の寮に住む以外に選択肢は考えられませんでした。でも、台湾の友達をつくる上では却ってよかったと思っています。もっとも、今回、あの寮にもう一度住みたいとは思いませんが。今、住んでいるのは天と地ほど開きがあるような大きく広い部屋です。
 一方、台北の変化と言えば、民主化とか、経済構造の変化とか大きな話をさておくとすると、生活上は何と言っても、「捷運」ですね。住み始めて改めてその便利さと快適さを味わっています。考えてみると、当時はバスの専用レーンすらなかったのですから。それから、新銀行。いろいろと問題は抱えていますが、金融機関の使い勝手がよくなったことは間違いないと思います。昔、銀行に行くときは、場合によっては喧嘩する覚悟で行ったもんです。でも、円TCは相変わらず不便です。それから、スターバックスをはじめとするコーヒー・ショップ、郊外の大型小売店、CATVの合法化等々。
 それと、もちろん台湾に限らない話ですが、十年前にはインターネットはなかったし、ケイタイも一般に普及するところまでいっていませんでした。おかげで便利になったのですが、その分、生活の立ち上げの手間は少し増えました。
 さて、以上はイントロダクションでありまして、ここから「台北だより」の第1回に入りたいと思います。
 話は到着当日、6月30日に遡ります。当面の宿、中央研究院の学術活動中心に着くと、たまたま社会学研究所の親しい友人とばったり会いました。その前に彼と話したときは、本を2冊、専門書と社会学の教科書を書くとか、大学院生をもっとたくさん育成したいとか、一般向けの原稿の依頼にこれまでより積極的に応じたいとか、意気軒昂だったのですが、その時は暫くはそれどころではないという話になりました。
 近年、台湾では研究者に対する規律付けが厳しくなっています。台湾学術界の頂点にある中央研究院は、当然、その先頭を走っています。どのように規律付けするかと言いますと、一定の期間にある本数以上の学術雑誌掲載論文を書かなければいけないというものです。学術雑誌も何でもいいわけではなく、台湾の一部の雑誌(ちなみに社会学では大学の紀要類はほとんど対象から外されています)とInstitute for Scientific InformationのSocial Science Citation Index (SSCI)にあるjournalしか認めていません。また、これらの雑誌は格付けがなされています。この条件を満たさない場合、最悪、解雇もあり得ます。一方、超過達成には、昇給などのインセンティヴが与えられます。つまり、アメリカ型のシステムです。
 特に朱敬一氏が副院長に就いてから、社会科学系の研究所でもシステム導入のピッチが早まっているようです。彼は元々台湾大学経済学系の教授で、わたしも十年前に講義を受けました。ご自身が優秀な経済学者である分(彼は若くして既に院士です)、講義の内容もハイ・レベルで、特に数学が難しく、単位を取るのに苦労しました。必修でしたから落とせませんので、必死でした。彼は、その後、行政院研考会の副主任委員(若干、記憶があいまいです)を経て、中央研究院に来ましたが、「隗より始めよ」ということで、お膝元の経済学研究所では既に事実上の処分を行ったということです。したがって、他の研究所もうかうかしていせれません。もっとも、人によっては、今までどおり、普通にやっていれば何も問題ないという人もいましたが。しかし、若干、人より心配性のわたしの友人は、当面、この条件をクリアすることに専念することにしたわけです。
 このようなアメリカ的な規律付けのシステムには、様々な問題点が指摘されています(例えば佐和隆光『経済学とは何だろうか』岩波新書)。学術雑誌に採用されやすいテーマに研究者の関心が集中してしまうこと、学術雑誌以外の形で発表された研究が軽視されかねないこと、時間のかかる研究、リスクの高い研究は忌避される可能性のあること等々。とはいえ、おそらく現実においてこれ以上、客観的で透明なシステムはないのだろうと思います。少なくとも、日本のようにあいまいなシステムよりはベターでしょう(日本にも学術雑誌の格付けはあるという話も聞きましたが、実際にはほとんど機能していないのではないでしょうか)。最善の選択肢が実際にはない以上、大枠としてアメリカの制度に倣うことは抗し難いと思います。
 しかし、台湾を研究する日本人研究者として、日台間の研究交流の進展を望む者として、看過できない問題が一つあります。それはこのようなシステムが普及すると、台湾の研究者にとって、日本との交流は非常に魅力が低いものになってしまう可能性のあることです。交流は様々な形態があり得ますが、とりあえず、日本で成果が発表される場合を考えてみましょう。今のところ、上記のシステムでは、日本語の学術雑誌はおそらく全て対象外です。日本で発行されている英文雑誌の一部がかろうじてポイントになります。本をどう扱うかは、中文、英文含めて、まだ未確定のようですが、システムが基本的にjournal志向である以上、重視されるとは思えません。
 このように、このシステムの下では、日本の学界と交流した成果を日本で、特に日本語で発表することは、台湾の研究者にとってほとんどメリットのないもの、時間と労力の無駄になってしまうのです。実際、わたし自身、アジ研の英文誌(Developing Economies)で台湾特集を組むことを企画していて、2名の台湾人研究者に参加を依頼していますが、二人ともアジ研の英文誌が国際的に認められているかどうかをまず訊き、一人はSSCIに入っているとわかると、喜んで書きたいという話になりました。
 見方を変えますと、アメリカ型のシステムとはアメリカを中心とする集権的なシステムであり、研究の基本的な課題はそこで形成されることになります。つまり、日台間の交流もこの枠組みの中に組み込まれ、直接、交流し、その中から独自の課題を作り上げていくということが困難になります。アメリカの偉大さをけして軽視するつもりはありませんが、それでいいとは思えません。日台が共有できる、或いは東アジアを通底する重要な研究課題は必ずあり、それならば、それを生み育てる空間は必要だと思います。昨今のグローバリゼーションの議論に照らし合わせるならば、社会科学の領域において、グローバリゼーションの一方的な進行に対抗するためのリージョナルな仕組みをどうつくるのかという問題になると思います。
 では、そのために何が必要なのでしょうか。台湾側は評価基準に幅を持たせた方がいいと思います。基準を甘くするのというのではなく、より多様な研究のあり方を許容できるようにシステムをつくってもらいたいということです。一方、それに対応できるように、日本側は日本のシステムの透明度を上げる必要があるでしょう。日本ではどのような発表形態がどの程度の評価に値するのか、よくわかりません。特に、多数の人間が執筆する編著の比重が大きいように思いますが、これは客観的な評価が難しいので、見直した方がいいように思います。アジ研も毎年たくさん出していますし、わたしもつくりましたが。
 幸い、『日本台湾学会報』は、匿名2名のレフリーによって査読が行われ、有資格のjournalであるための形式的条件を満たしています。後は内実を維持、発展させることで、これはSSCIの最高レベルのjournalに匹敵すると、台湾側に胸を張れるなりたいと思います。




第2回 第1回台北定例研究会、開かれる(2001年8月22日)

 初回が硬かったので、次は軟らかいものでなどと意識してしまったですが、余計、書けなくなってしまいました。硬軟は意識せずに書いていきたいと思います。

 台北定例研究会の第1回、8月16日に立ち上がりました。20人が集まる盛会でした。その様子は、別途、参加記が掲載される予定ですので、そちらもご覧いただきたいと思いますが、運営の担当者として雑感を述べます。
 10年前に滞在していたときも、似たような勉強会をおよそ月一回のペースで開いていました。当時のことを思い出し、月日の経過を改めて感じます。当時の参加者は今は散り散りになっていますが、川嶋さんと柳本さんのお二人には今回もご参加いただきました。お二人とも今ではそれぞれの分野で華々しくご活躍されています。十年前、人を集めたいという意図もあって、第1回のご報告は若林さんにお願いしました。その時はお髭はありませんでした。第2回は確か瀬地山君で、まだ院生だったはず。小島麗逸さん、故・戴国煇さん、その後、日本ビクターの社長になられた守隨さん(当時、台湾松下総経理)等々、今思うとなかなか豪華な顔ぶれをお呼びしていたと思います。台湾の方にもお話いただきました。そのうち、林佳龍さんや林継文さんは、現在、台湾の政界、学界で大活躍されています。
 ついつい思い出に浸ってしまいましたが、台北定例研究会は以前の勉強会を単に復活させたものではありません。学会の活動の一部という役割を帯びています。ただ、そこが悩ましいところでもあります。台北で定例研究会を始める話が持ち上がってから、基本的にはいいことだと考えて、ここまで進めてきましたが、その位置付け、中文で言えば「定位」をどうするか、ずっと考えています。つまり、日本台湾学会の定例研究会を台湾で開くことの意味は何かと。結局、ずばりこれという答は見つからず、ともかく交流の場として設け、参加する人それぞれが位置付けをしてくれればいいと考えることにしました。
 しかし、第1回を終えて、やはり難しさは常に残るなと思いました。具体的には参加する人のバックグラウンドがばらばらなんですね。研究者だけ見ても、政治、経済、社会、歴史、人類学、教育学、文学等々、さらに研究以外の仕事に携わっている人も参加しています。したがって、当然、視点や関心は異なります。日本にいれば、台湾を一つの適当な研究対象の単位と考えて、様々な分野の人が集まって議論することにあまり違和感がないのですが、台湾では台湾は研究の対象としてやや大きすぎる感じがしてしまうのです。言い方を換えれば、それぞれの研究分野が適当な規模で成立していて、個別の研究者はそこで学術的な討論をすればいいわけです。その意味で、台北定例研究会には恒常的に遠心力が働いているのだと思います。
 とはいえ、様々な分野の人が集まって、台湾について意見を交換することは何らかの意味があるのだと、わたしは思います。それはまだはっきりした輪郭を持った形にはなっていないけれども、きっとあると信じています。ですから、難しさを頭の片隅に置きつつ、台北定例研究会を盛り上げていきたいと思っています。
 考えてみると、これは結局、日本台湾学会そのものの課題の一つでもあるし、さらには地域研究が常に問われ続けてきた問題とも重なるんですよね。そして、明確な答はいつも見つからず、でも、多くの人が答はあるはずだと思って地域研究を続けてきたんだと思います。

 以下は付け足しです。前回の台北便りに若干、加筆・修正したいと思います。
 一つは、前回書いたものの最後で、日台学術交流のために何が必要かということを述べましたが、書き忘れたことがありました。もう一つ、台湾などで発行される中文、英文の学術雑誌などに積極的に書いていくということを加えたいと思います。結局、学術界はネットワークの世界ですから、台湾が構築しつつあるネットワークに日本の学界が如何に橋を架けるかが課題なんだと思います。日本における研究成果を踏まえた論文が、台湾の学術雑誌に掲載されれば、それによってリンケージができていくでしょう。
 もう一つ、イントロのところで金融機関の使い勝手がよくなったと書きましたが、あれは下方修正します。やはり不愉快なことは起きました。先日、日本円を換えに行ったら、一枚の一万円札にちょこっとした疵があり、交換を拒否されました。そこでいったんむっとはしましたが、仕方がないと思いつつ、念押しのため、「没関係吧」と言ったところ、「客戸会在乎」という答が返ってきました。「こっちだって客だ」と怒鳴りたくなりましたが、我慢したのは人間が丸くなったからなのか、覇気が衰えたからなのか。
 それにしても、お札の信用とは関係ないところで、お金の流通が滞るのは困りもんです。以前、台湾の友人で人の財布からお金を出させて、きれいなお札と自分のややくたびれたお札とを取り替える人がいて、唖然とさせられましたが、彼女は例外ではなかったのでしょうか。




第3回 「台商」はつらいよ・大陸奮闘編(2001年9月26日)

 今回は台北便りならぬ、蘇州・東莞・深圳便りです。このタイミングで書くとなると、当然、台風の話題になりそうなものですが、幸運と言うべきでしょうか、大陸を回っていたため、台北で水に漬かることは免れました。22日に台湾に戻りましたが、家そのものは既に電気も水も正常化しており、台風の痕跡を感じさせるのは、地下のフロアから漂ってくる消毒液の臭いと停電中の近所のセブン・イレブンだけでした。
 ただ、翌日以降、外を歩いてみて、けして他人事ではないことを思い知りました。「捷運」が動かなくなったことで、行動は大いに制約を受けています。10年前に戻ったと思えばいいのですが、やはり一度、楽な状態を経験しているだけに辛い。また、単身者にとっては何かと便利なデパ地下のスーパーとフードコートが閉鎖されているのも打撃です。

 さて、本題に入りたいと思います。今月10日から2週間、川上さんと一緒に大陸の「台商」を訪ねて回りました。蘇州(呉江を含む)に1週間、広州(週末のみ)、東莞、深圳に1週間という日程でした。調査の成果を踏まえた本格的な分析はいずれ川上さんがするでしょうし、わたしも今後の研究に取り込んでいきたいと思っていますが、ここではとりあえず幾つか印象に残った点をスケッチしておきたいと思います。
(「台商」の悲哀)
 まず、表題にも書きましたとおり、「台商」は大陸でたいそう苦労しています。彼らは必ずしも大陸に来たくて来たというわけではないようです。システム・メーカーは、アメリカなどのバイヤーから大陸に出るように急かされて出る。一社が出れば同業他社も出ざるを得ない。システム・メーカーが出れば、そこに部品・材料を供給しているサプライヤーもついていかざるを得ない。というようにして、次々と大陸へ進出しています。
 しかも、辛いのは大陸へ行って仮にコスト・ダウンできたとしても、その利益は自分の手元にとどまる可能性は低いのです。おそらく多くはバイヤーに吸収されてしまうでしょう。もっとも今の不景気の中では、彼らもそれを吐き出さざるを得ないでしょう。とすると、最終的には先進国の消費者が得していることになるわけですが。
 もちろん、必ずコスト・ダウンできるとは限りません。確かに労賃は格段に低いし、土地も安く、環境保護に多くのコストをかける必要もありません。しかし、中国の税関はまだ十分に整備されていませんので、近年の短く且つ目まぐるしく変更されるオーダーに対応するのはたいへんです。急なオーダーの増加に応じるためには、部品や材料の在庫を多めに抱えなければなりませんから、その分のコストを負担しなくてはなりません。また、オーダーがキャンセルになった場合、そのために輸入した部材は中国内で転売できませんので、台湾に送り返さなくてはなりません。
 「台商」、特に部材のサプライヤーにとってさらに辛いのは、彼らの地位がいつまでも安泰とは言えないことです。まず、大陸へのシフトに伴って「台商」間の関係が「洗牌」されますので、そこで脱落する企業が出てきます。しかし、より大きな脅威は、いずれ出てくるであろう大陸のローカル企業です。今のところ、台湾のシステム・メーカーが大陸の企業から調達しているのは包装材のような簡単なものに限られていますが、いずれキャッチアップの容易なものから順に「台商」からローカル企業への置換が進んでいくことになるでしょう。

(蘇州と東莞)
 今回の調査は、「台商」の投資先が華南から華東へ「北移」していることを調べるのが主たる目的でした。とにかく最近、華南とりわけこれまで「台商」の投資が集中していた東莞のイメージが著しく悪化しています。8月に電電公会が大陸各地の投資環境に関するレポートを発表しましたが、東莞のランクはかなり下になっています。一方、華東、特に蘇州の評判は頗る芳しくなっています。
 今回の調査でも、そのような評価は大方の「台商」が認めていました。元々、そう思ったから華東を選んだ蘇州の「台商」は当然として、東莞の「台商」も否定はできないようでした。評価の明暗を分けるのは、主として税関、地方政府、治安の違いです。多くの「台商」が華東の政府は比較的「正規」なのに、華南の政府はそうではないと思っています。
 ただ、何故、そういう違いがあるのかという点では見方が分かれます。華東と華南では本質的に違うという説と、華東も急速に開発が進めばいずれは華南のようになるんだという説があります。どちらが正しいかは数年後の華東を見るしかありません。
 個人的に2つの地域を続けて回った感想を言えば、蘇州の方が暮らすには快適だろうなと思います。東莞は何もないところに短期間で工場が林立するようになったため、かなり殺伐とした感じがします。一方、蘇州は街がもっとしっとりとした感じを与えます。

(街の中の「台湾」)
 大陸の街の中で台湾から持ち込まれたものをいくつか見つけました。まず、各地でお世話になったのが上島コーヒーをはじめとするコーヒー・ショップ。大陸の物価水準からすると値段はかなり高めだと思いますが、こぎれいな店作りで、冷房がきいていて、コーヒーの味もまずまずでした(わたしはあまりよくわからないのですが)。上島コーヒー系ではメニューの中に蓮の葉で包んだ「荷包飯」というのがありますが、けっこうお薦めです。
 夜市やフードコートでは「台湾珍珠奶茶」や「台湾熱狗」をしばしば見かけました。
 それから、足裏按摩も至るところで目にしました。泊まったホテルには必ずありましたし、街中にもここかしこで看板が出ていました。日本人観光客目当てという可能性もありますが、やはり台湾の影響ではないでしょうか。

(台商学校)
 東莞ではなかば成り行きで、昨年、開校した台商子弟学校に行くことになりました。いろんな意味で興味深かったのですが、いちばん印象に残ったのは、この学校に参加した教員や職員の人たちが、ここを一つの実験の場、あるいは理想の実践の場と考えて盛り上がっている雰囲気でした。案内をしていただいた方の説明からは、台湾ではいろいろと障害の多い新しい教育をこの新天地で試みたい、また、学校を核としてコミュニティ作りをしたい、そんな意気込みを感じました。そういう意味において、東莞はビジネス以外の面でも一種のフロンティアなのだと思いました。
 もちろん、いろいろと矛盾も抱えています。言うまでもなく、中国にある台湾人子女のための学校をつくるということが矛盾といえば矛盾です。それに加えて、一方では何百、何千、何万の従業員の「老板」である「台商」の子弟が妙な優越感を持たないようにしなくてはいけないと言いながら、他方でエリートの養成をかなり意識している節があり、うまく調和するだろうかと、ちょっと疑問を感じました。五年後、十年後、ここの卒業生たちはどのようになっているのでしょうか。

(黒い川)
 東莞では虎門鎮のホテルに泊まりました。ここがすごい所でした。ホテルは新しく、やたらと派手なつくりだったのですが、周囲は工事をしてるところだらけで、埃がもんもんと舞っています。極めつけは傍を流れている川です。墨汁のように真っ黒。川べりにはこれまた真っ黒なヘドロがべっとりとたまっています。臭いがまたすごくて、一刻も早く立ち去るしかありませんでした。子供の頃、近くにどぶ川があって、同種の臭いがしましたが、虎門鎮の川の臭いの方が何倍もきついように感じました。ここには三泊しましたが、おかげで調査で出る時を除いてホテルに閉じこもることになりました。
 日本も台湾も環境を先に汚してしまい、後から少なからぬコストをかけてきれいにすることになりましたが、中国でもどうやらその経験は活かされずに同じ途を歩んでいるようです。あの川が幾らかでもきれいになる日は何時来るのでしょう?




第4回 台湾大学経済学研究所での報告と議論(2001年11月2日)

 「台北便り」は、毎月、1本は必ず書くと自らに課していたのですが、とうとう10月中には書けませんでした。無念。それだけとんでもない月でした。でも、ここで愚痴るのはやめておきましょう。

 10月25日、台湾大学経済学研究所のセミナー(「研討会」)で話をしてきました。セミナーというのは、週に一度、オムニバス形式で外から講師を招いて話を聴くというものです。出席さえすればよく、他の講義のように宿題が出たりすることはありませんので、昔、学生だった時には、ちょっとほっとする1コマでした。
以前は1コースしかなく、テーマで分かれていませんでしたが、今はミクロ、マクロ及び貨幣、計量、産業経済、経済史に分かれています。その分、1コースに参加する学生は少なくなって、議論しやすくなった反面、ちょっと寂しい気もします。ミクロ、マクロ、計量は必修科目と同じテーマですが、産業と経済史のコースは経済学研究所の「本土化」の現れです。1989年に修士課程に入った時、台湾に関しては僅かに薛琦教授が「産業経済」の中で取り上げるくらいでした。その後、在籍する間に、「台湾経済発展」(薛琦及び陳博志教授)、「台湾経済史」(葉淑貞教授)、「大陸経済」(張栄豊研究員)が開講されました。今、振り返ると、時代をよく反映していたことがわかります。このような流れから、セミナーにも産業経済と経済史のコースが設けられたのだと思います。よく見ると、葉教授以外、みんな政府関係の要職についています(薛琦教授は現在、政府を離れ、台湾金融研訓院院長)。
 それで、わたしは「日商的組織特性與在台子公司的管理方式」という報告をしてきました。簡単に結論を言いますと、日本企業のチーム志向の現れとして、台湾にある日系企業では、本社から総経理が派遣される比率が、他の外資系企業よりも高いというものです。そして、ある日系電子メーカーを事例から、そのような特徴の結果として、現在、どのような問題が生じているのかを紹介しました。内容的には産業経済コースがいちばん適当だと思いましたが、たまたま知り合いの先生が経済史コースの責任者だったため、その枠で話すことになりました。なお、この報告の元になった論文は、12月に遠流から出版される劉仁傑編『日系企業在台湾』に収められる予定です。ご興味のある方は、ご購読ください(宣伝です)。
セミナーには知り合いの先生方もいらしていただき、けっこう賑やかになりました。報告する以上、やはり人が少ないと悲しいので、とてもうれしかったです。他方、先生方を前に報告するのはかなり緊張しましたが。
報告は1980年代以降、日本で盛んに行われた日本企業に関する議論をベースにしています。台湾の経済学界は日本との交流が薄いので、多分、それなりに新鮮に聞こえたのではないかと思います。同時に、かなり怪訝な顔をされたところもありました。
 議論の中で、考え方が違うなと思った時が何度かありました。まず、事例に取り上げた企業が近年かなり苦しい状況にあることを述べた後、一言、「我也很擔心」と言ったところ、ある先生から「為什麼?」と突っ込まれました。「可能是我有一種nationalism」とか、わけのわからない返答をしてしまったのですが、その先生の突っ込みの意図は、台湾でのオペレーションが苦しいのならば、撤退すればいいのではないか、台湾企業自身が大陸へシフトしているのに、日本の企業が無理して頑張る必要はないだろう、だからわたしが心配する必要などないということでした。
 実に合理的な考え方で、理屈で反論する余地はありません。でも、現実はなかなかそう割り切れないだろうなとも思いました。わたしの取り上げた日系企業は長い歴史を持ち、台湾の日系企業を代表するような企業です。仮にこの企業が台湾から撤退するとなれば、経済面にとどまらず、社会的、政治的にかなりのインパクトを与えることは必至です。先般、ソニーの子会社が閉じる時も、少々、騒がれましたが、おそらくその比ではないでしょう。そして何よりも、日系企業自身が、外資系企業であるとはいえ、社会とのしがらみをあっさり無視することはできないのではないかと思います。企業を社会的にどう見るのか、台湾と日本の違いを感じました。
 もう1つは学生から出された質問です。わたしの報告では、日本企業はチーム的な特性を多分に持っているとしたのですが、その学生はそれを聴いて、家族経営が行われていると思ったようです。これは明らかに誤解で、さすがに周りの人はわたしの報告の主旨を分かって、そうではないと彼女に説明してくれました。しかし、それにしても、彼女の質問は台湾の社会における家族の重さを示していると思いました。報告ではチーム的な特性として信頼の生成を強調しましたが、台湾において信頼とは何よりも家族の中に最も豊富に存在するのでしょう。だから、信頼と言えば家族、血縁という発想になるのだと思います。或いは、何だかんだいって、台湾の企業は今でも大部分が家族経営ですから、日本の多くの企業のように、特定の家族とは無縁の企業というものが、そもそも想像しにくいのかもしれません。
 日本と台湾は世界の他の国と比べれば、多くの共通点を持っていると思いますが、意外と大きな違いもあります。今回はそのことが改めて感じられました。それが1つの収穫でした。
もう1つの収穫は、台湾と日本の間の相互理解、今回に関しては特に台湾側の日本に対する理解の不足を感じたことです。台湾の多くの人は、日本のことを一通り知っていますが、それはかなりステレオタイプ化されていると思います。それは学界にも当てはまります。例えば、今回の議論で台大の先生が「終身雇用」に言及しましたが、わたしの理解では、日本の学者の多くは「終身雇用」という言い方に懐疑的です(「長期雇用」の方が適当)。
 また、10年以上昔ならばともかく、今はすっかり状況が変わってしまっているのに、根強く残っている日本企業のイメージもあります。1人の学生からは、日本企業が総経理のポストを抑えているのは、技術移転をしたくないからではないかという意見が出されました。これに対する直接の回答としては、技術移転するかしないかを決めるのは親会社なので、総経理が日本人であるかないかは関係ない、ただし、日本人が総経理の場合、在台子会社での研究開発を抑制する効果はあったかもしれないと指摘しました。それはともかく、日本企業の技術の出し渋りというイメージは未だにあるのだなあと、ちょっと驚きました。1990年代に入って、多くの日本企業は技術を出し惜しみするような余裕を失っているからです(そもそも、それ以前もイメージほど出し惜しみをしていたかどうかは疑問ですが)。LCDがいい例でしょう。でも、まだ20代と思われる学生でも、1980年代までのイメージが染み付いているようです。

 台北もすっかり秋になりました。だらだらと長い夏と、じめじめと寒い冬との間の、束の間のですが、過ごしやすい日が続いています。




第5回 台湾の喧しさ(2001年11月30日)

 台湾滞在中、中央研究院社会学研究所に籍を置かせてもらっていますが、仕事は主に家でする体制にしてあります。特にここ二月は、「捷運」が動かなくなって、通うには時間とエネルギーをより多く費やさなくてはならなくなったこと(最も頻繁に使うバスは212か205、両方とも大有巴士です)、原稿の締め切りが次々とやってきたことから、家で仕事をしている時間が増えました。というわけで、研究室に電話をしてもほとんどいません。すいません。
 それで、台湾はとてもうるさいということに改めて気がつきました。家は市の中心部にあるとはいえ、大通りからは引っ込んでいるので、静かな住宅地に居を構えたつもりでいました。しかし、それは大きな見込み違いでした。一階に教会がありますので、日曜日に賛美歌が聞こえますが、それはご愛嬌として、ここのところ、数ヶ月にわたって、住んでいる建物の一階の一角がずっと改装中で、その騒音に悩まされ続けています。考え事をしていると、がーっとドリルや電鋸の音が鳴り響いてきます。ある日、今日は一段とうるさいと思ったら、隣の建物でも改装が始まっていました。
 わたしは自分自身が普通の人よりもやかましいこと、鉄道のすぐ側で育ったことから、音にはけっこう耐性がある方だと思います。しかし、ここの音はなかなか耐え難いものがあります。それでも、誰も文句を言いに行っている気配はどうもないようです。台湾の人の音に対する強さには感心させられます。
 そういえば、10年前もそうでした。夏休みにアメリカにいる同僚のところへ遊びに行ったとき、夜の静けさに驚くとともに、台北ではいかに音に囲まれた生活をしていたのか、耳がいかに疲れていたのか、思い知らされました。

 さて、かまびすしいと言えば、選挙です。いよいよ明日が投票日です。台北市は市長選挙がないせいか、比較的静かなようですが、それでも時折「掃街」の車がやってきます。台北市以外では、先週、民進党の国際選挙観察団に加わって、花蓮と高雄の集会を見てきましたが、これはにぎやかというか、がんがん音を響かせていました。特に張俊雄行政院長が2つの集会とも来ていましたが、彼の声はきんきん響きます。思わず耳を塞いでしまいました。
 選挙に関しては、台湾学会には名うての選挙ウォッチャーというか、選挙オタクというか、そういう人が何人もいますので、恐れ多くて分析などする気はさせさせありません。ただ、観察団に入って回ってみて、いくつか感想がありますので、それをメモしておきたいと思います。
 集会の「助選」の主役の一角は、当然のことながら、行政院の面々が担っています。花蓮では行政院長のほか、秘書長、蒙蔵委員会主任委員、衛生署長、農業発展委員会主任委員等が来ていました。高雄県の集会にはほぼワンセット来ていたようです。おかげで図らずも、経済建設委員会主任委員をしている陳博志先生とご挨拶する機会ができました。陳先生は本来、地味でちょっとシャイな方なのに、演台に「站台」しているのを見るのはとても不思議です。不思議といえば、そもそも、行政院の各部会の長が民進党候補の「助選」に来ているという姿は隔世の感があります。ちょっと前まで街頭で活動していた党が、今では与党とは。台湾は淡々と、しかし気がついてみるとかなり大きく変わっているということを、改めて実感しました。
 さらに、もう一つの不思議は、陳水扁総統はじめ、民進党がさかんに「安定牌」を打っていることです。与党になった以上、これまた、当然といえば当然なのですが、ついこの間まで国民党の専売特許だったはずなのに(多少、「安定」の意味合いは違いますが)。国民党の「安定牌」は、結局、威光を失っていったわけですが、民進党の「安定牌」はどうなることでしょうか?
 花蓮の集会では、花蓮と同じ東海岸の宜蘭との対比が繰り返されていました。花蓮の県長はこれまでずっと国民党、それに対して、宜蘭は陳定南をはじめ「党外」、民進党の県長が続いています。だから、花蓮は宜蘭よりも遅れているというわけですね。花蓮が宜蘭よりも遅れているという認識がどの程度一般的なものかは知りませんが、それにしても、游錫堃らが何度も何度も、花蓮の人はこれまで県長の選択を間違っていたと繰り返すと、会場に来ている民進党支持者でも不愉快に感じるのではないかと気になりました。観察団を切り盛りしている女性が花蓮の人だったので、どうなの?と訊いてみたところ、事実だから仕方がないという返事でした。もし花蓮が「緑化」すれば、どのように変わるのか、興味深いところです。
 観察団は集会のほか、民進党の立法委員及び県長候補者の「競選総部」を何ヶ所か訪ねました。花蓮の立法委員候補(説明していただいたのは候補者の弟さん)、高雄県の県長候補(ご本人)ともに、地域開発の柱に観光を置いていたことが印象に残りました。おそらく、他党の候補者の「政見」にも、観光開発は入っているのだろうとは思いますが、民進党の場合、環境と開発の調和というところから、観光という解が出てくるのだろうという背景が感じられました。高雄県の県長候補は、温泉の開発を進めたい、その際には日本の温泉を参考にしたいと言っていました。わたしたち日本人がいたので、若干、リップ・サービス的な感じもしますが、既に北投等では日本風の温泉宿もあるので、けっこう本気かもしれません。台湾各地に温泉宿ができていくとしたら、これも文化の伝播と言うのでしょうか?(或いは侵略?)でも、たくましい台湾人のことですから、きっといずれ台湾風にアレンジしていくのでしょう。
 最後に、この観察団、当初は日本の国会議員ないしその秘書、或いは政治学者を呼びたいと考えていたらしいのですが、当てが外れ、おかげでわたしのような地域研究者にも枠が回ってきたようです。どうもそもそものプランに無理があったみたいです。その辺りに台湾側、特に民進党の日本に対する理解の不足を感じます。今後、よろしく「研究」していただきたいものです。
 わたし自身はおかげで貴重な経験の機会を得ることができ、感謝しております。ちょっとシニカルな感じになりましたが、感謝の気持ちは本当ですから。




第6回 民主化後の二つの途(2002年1月22日)

 すっかりご無沙汰してしまいました。前回から早くも二月近くが経とうとしています。この間、日々、締め切りに追いまくられていました。ようやく、一段落して、「台北便り」を書く時間と気持ちの余裕ができました。
 そういうわけですので、ほとんどの時間を家か研究室で過ごし、あまり出歩いていません。そこで、今回は直接、見聞したことではなく、新聞やテレビで、ちょっと面白いなと思った話をご紹介したいと思います。少々、旧聞に属しますが。

 選挙後、林重謨の立法院での陳文茜に対する罵倒に端を発し、メディアのあり方が注目されました。ご存知のとおり、地上波3局は元々権威主義体制下で国民党政権がコントロールしていたわけですが、民主化の過程でも国民党政権が続いたせいもあって、政治とメディアの関係が決着のつかないまま持ち越されてきました。
 その議論の中で面白いなと思ったのは、友人から聞いた話ですが、これからどうするかについて、澄社の中で割れていて、澄社としての見解を出せないでいるという話です。澄社は権威主義体制に批判的な学者によって組織されていました。しかし、その中には、自由主義的な志向を持つグループと、社会民主主義的な志向を持つグループがいるようです。権威主義体制を批判するという意味では一枚岩であった彼らも、民主化が達成されれば、自ずと立場の違いが出てくるということでしょう。メディアの改革については、前者は自由化を進めれば解決すると考えているのに対し、後者は公共化を主張しているそうです。

 このような考え方の違いは、教育改革についても現れています。中央研究院の李遠哲院長が職業高校(「高職」)の役割は終わったという主旨の発言を行ったことに対して、論争が起きました。『中國時報』では12月18日に清華大学の呉泉源研究員が李院長を批判する文章を、28日に中央研究院の朱敬一副院長が支持する文章を発表しています。
 はじめに後者から紹介しましょう。第一回の「台北便り」にも書きましたように、朱副院長は台湾を代表する経済学者です。経済学の教義に従って、彼の見解は自由主義的観点によって貫かれています。彼は「高職」廃止への反対論が主に経済開発の観点から行われていることを批判し、教育の目的は経済開発ではないと主張します。教育を受ける人の要求を最も尊重すべきであり、彼らが望むように、普通高校の比率を上げるべきだと言います。
 朱副院長の主張はもっともなものです。しかし、おそらく彼が文章を書く際に読んでいたであろう呉研究員の李院長に対する批判への答としては不十分です。朱副院長は教育を受ける人の希望を出発点に置いています。まさに自由主義的な姿勢です。それに対して、呉研究員はそれがどのように形成されてきたのかという点を問題にしようとしたのだと、わたしは理解しました。彼は戦後の台湾の経済成長、そこでの技術的な発展、そしてそれを担った人々が正当に評価されていないと嘆き、それが「高職」の軽視につながっていると考えています。つまり、彼は戦後の台湾の経験を見つめ、そこに立脚して社会的な価値を構築することを訴えているわけです。そうすれば、答は必ずしも「高職」の廃止ではないかもしれないと(念のため、言っておきますと、呉研究員も現行の「高職」に問題が多々あることは認めています)。
個人的には後者に好感を持ちますが、どちらが正しいとは簡単には決められないでしょう。ただ、メディアの改革にしろ、教育改革にしろ、このような議論は基本的に前向きで、建設的なものですから、今後も大いにやりあってもらいたいと思います。

 三つ目は、全然、別の話です。年末、原稿に追われる中、息抜きにテレビをつけたら、孫運センの一代記を確か年代で放送していて、ついつい最後まで見てしまいました。1970年代の半導体プロジェクトに関して、何か新しい情報はないかと期待したのですが、その点では収穫はあまりありませんでした。当時の顧問団の姿を見ることができたくらいでしょうか。
 テレビ局もなかなかやるなと思ったのは、林義雄事件や陳文成事件当時の孫について、息子に語らせていたことです。「辛そうな様子だったが、立場があったから」と言っていただけでしたが、依然、生々しさを感じました。
 番組全体を通しては、孫は国民党統治の正の面、主には経済発展ですが、その象徴なのだなという感想を改めて持ちました。そういえば、2000年3月の総統選挙の前日も、彼は国民党の集会で重要な役回りを担わされていました。番組の終わり近くでカク柏村が出てきて、孫が倒れていなければ、彼が副総統になっていたはずで、そうすれば歴史は違っていただろうと語っていたのには、やや興ざめしましたが。

 昨秋から台北の東部では、微風広場、京華城、新光三越信義店新館と大型店が相継いで開店しました。台湾の今の消費生活の象徴として、一見の価値はあるかと思います。




第7回 「助理」というお仕事(2002年3月29日)

 またまたご無沙汰してしまいました。この間、世間は何かと騒がしかったですね。その中でちょっと興味を引かれたのは「楽透彩」のブーム、8インチ・ウェハー半導体工場の大陸進出をめぐる議論、宗前経済部長に対する諸々からの攻撃です。楽透彩については、株式市場にお金が流れなくなるのではという心配が出ていて、いかにも台湾らしいと思いました。宝くじと株はやはり同等なんですね。8インチ・ウェハーは、何でこんな専門的な問題が大々的に騒がれるのか、少々、不思議でした。社会学研究所の人と話したら、8インチ・ウェハーは「我也不知道」と言っていました。宗前部長に対する攻撃は、彼女にいろいろ問題はあったにせよ、結局、「いじめ」だったのではないでしょうか。感想を一言で言えば、「難看」です。彼女が辞めた時、マスコミは大切なネタを一つなくしたという、とても正直なコメントが、新聞かテレビに出ていました。

 わたし自身については、とりたててイベントがありませんでしたので(それで「台北便り」がなかなか書けなかったのですが)、研究所での日常の中から話題を探したいと思います。日常と言っても、前にも書きましたように、毎日は行っていません。でも、基本的に一週間に2日は行くことにしています。一日は社会学研究所の所内研究会がある金曜日です。もう一日は、「助理」との打ち合わせです。これは原則、水曜日の午後にしています。こちらでは自分で自分を管理しなくてはならないので、下手すると限りなく怠け者になってしまいます。特に一月に締め切りやらなんやらを乗り切った後、この二月、気が抜けてしまい、自由を有効に使うのは難しいと本当に思い知りました。この2日、研究所に行くことで、辛うじて底が抜けるのを免れています。
 それで今回は、わたしのこちらでの研究生活を構成する重要な要素となった助理との付き合いについて、少し書いてみたいと思います。助理は日本にはぴったりと相当するものがありません。日本の大学の助手とは違って、一種のパートタイマーです。たいていは修士課程の学生か、外国への留学をひかえた人たちがしているようです。指導している修士課程の学生を助理にしているケースも多く見られます。ただし、助理は日本における学生のアルバイトとは違います。学部生のアルバイトは「工読生」と呼ぶようです。助理は既に研究上の一定の能力があると考えられていますので、あまり単純な作業をさせるわけにはいきません。そういう作業は工読生にやってもらうことになります。
 こちらの大学や研究機関にいたことのある人はよくご存知だと思いますが、台湾の研究活動において助理はとても重要な役割を果たしています。助理は資料収集から分析まで、研究上の各プロセスに深く関わっています。半ばパートナーと言っていいでしょう。はっきり言って、台湾の人は助理なしでは研究ができないのではないかとすら思います。
 研究者と助理の関係は、金銭上の報酬を通じた雇用関係に留まらないことが多いようです。上に書きましたように、修士課程の学生が指導教官の助理をすることがままあります。その場合、彼はそのテーマについて指導教官の研究を助けるとともに、それを自分自身の修士論文のテーマにもします。時には研究本体の方も、実際は学生がほとんどやったのではないかと疑いたくなるようなケースを目にすることがあるのですが、台湾の場合、研究テーマや基本的なアイディアを学生が指導教官からもらうことも多いので、それなりにギブ・アンド・テイクが成立しているのでしょう。
 このように、助理の役割はとても重要ですので、それなりに待遇されています。報酬は、社会学研究所では一日1000元弱プラス社会保険料です。アルバイトよりはかなり高めです。作業は2~3人共用の助理の部屋でします。それぞれ机とパソコンが与えられます。「過年」前には社会学研究所でも「尾牙」がありましたが、これはほとんど助理の慰労会という感じでした。そして、改めてその数の多さに驚きました。考えてみますと、一人に一人以上の序理が付いていますので、研究員よりも多いのです。「抽籤」ではほとんどの賞品が助理のものとなりました。ちなみにわたしは何も当たりませんでした。
 わたしの場合、一週間に一日、社会学研究所の友人の学生に助理をお願いしています。彼は友人の助理もしていました。昨年、清華大学の修士課程を修了し、今年の秋からアメリカに留学する予定です。誰かに助理を頼もうと思った時、その机をどうするか困ったのですが、彼は週2日、別の研究員の助理をしていますので、その問題はクリアすることができました。
 彼がとても優秀だったということもありますが(彼の修士論文は台湾の社会学会から賞をもらいました)、助理を使ってみて、なるほどこれは有難いと思いました。わたしが彼にお願いした仕事は基本的に2つです。一つはインタヴューのテープの起こしです。もっとも、彼自身がテープを起こすのではありません。そういう作業は上に書きましたように、助理の仕事ではありません。彼の仕事は実際にテープを起こす工読生を管理することです。インターネットを使って学生を探してテープ起こしを委託し、出来てきたらざっと目を通してチェックし、その長さに応じて報酬を渡します。わたしははじめにテープを渡して、数週間後に出来上がってきたファイルを受け取り、彼が立て替えた報酬を払うだけです。とても楽でした。もっともファイルの中身のチェックは最終的にはわたしがしないといけませんので、そこまで手を抜くわけにはいきませんが。
 もう一つは資料収集です。こちらに来てから、金融とパソコンについて調べていますが、雑誌記事に関しては、助理の彼にお願いして資料を集めました。打ち合わせの時に必要な資料は何か、それが何故、必要かを説明します。そうすると、彼は主に中央研究院で利用可能なデータ・ベースを使って調べ、翌週にそれを渡してくれます。金融では、東港信用合作社のスキャンダルについて、日本では手に入らなかった『商業周刊』の記事を探してきてくれ、そこにはそれまで集めた資料に書かれていなかった郭廷才と翁大銘の関係が書かれていて、とても助かりました。パソコンについては、過去或いは現在において重要と考えられる企業及びその中心人物について、一つ一つ雑誌記事を集めてもらい、けっこうな量になりました。
 また、こうして集まった資料に加えて、彼との打ち合わせがわたしにとってたいへん貴重なものであることがだんだんわかってきました。何故、その資料が必要か、彼に説明することが、頭の中を整理するのにとても役に立つのです。彼の方もわたしの説明を聞いて、パソコン産業について興味を持ったようです。もし、彼の博士論文にそれが反映されることでもあれば、それはわたしとしてもとても嬉しい副産物です。
 これを読まれる方の中にも、将来、台湾に滞在する機会がある日本人研究者の方がいると思います。その時は、助理を使ってみては如何でしょうか。




第8回 安東尼紀登斯教授の訪台をめぐって(2002年4月26日)

 ぐずぐずしているうちに旧聞になりつつありますが、先週、アンソニー・ギデンズが訪台しました。ご存知の方には説明するまでもありませんが、現代の社会学における世界的な大御所です。一般的には『第三の道』の著者といった方が通りがいいかもしれません。台湾に関して言えば、そういうことから陳水扁の「新中間路線」の本家ということになります。もっとも、よく知られているとおり、陳水扁のそれと、イギリスやヨーロッパのそれとは、内実が全く異なります。ヨーロッパでは社会民主主義の軌道修正を意味するのに対し、陳水扁の場合、省籍あるいはナショナル・アイデンティティの文脈で語っていますから。
 このクラスの大物の招聘となると、ちょっとしたニュースになります。ましてやギデンズはブレア政権の重要ブレーンであり、また、今、述べたような「新中間路線」との絡みもあります。閣僚が彼の講演を聴きに行ったことに対して、忙しいのに何をしていると文句をつけた立法委員がいるようですが、ギデンズの背景を考えれば、少々、的外れな批判でしょう。
 わたしも一般向けに行われた16日の講演を聴きに行きました。場所は新生南路の公務人力発展中心。人数を数えるのは苦手なのですが、数百人はいたでしょう。横の人たちはどうも中部と南部から来ていたらしく、おそらく全国から社会学の大学教官やら学生やらが集まっていたと思われます。テーマは「全球化的進程與後果」でした。17日の中国時報に、第3面全部を使って詳しい要約が掲載されています。
 さて、ここまでがイントロダクションでして、ここから今回の本題に入ります。会場の入り口では数名の台湾大学の学生が、911テロ後のイギリスの対応に抗議する座り込みをしていました。それ自体は政治的、社会的に何ら影響力を持つとは考えられませんが、配っていたビラを見て、ちょっと考えさせられてしまいました。
 ビラですが、黄色いA4の紙に両面に文面が刷られています。片面には英米に対する非難の文章が書かれています。タイトルは「最も野蛮な2つのヤクザ国家――反英米帝国テロリズム」となっています。なかなか激しい。ちょっと懐かしくもあります。もう片面の上の3分の1には「台湾と帝国主義とはいかなる関係か?」と題した文章があり、その中には「明らかに、台湾政府は英米帝国主義の根っからの属国であり、共犯者である」と書かれています。これまた過激です。
 そして下の3分の2に「われわれの訴え」として4点、あげてあります。ポイントはこれの第3点です。先に他の3点を紹介しておきましょう。第1点は「われわれはいかなる形の暴力と圧迫に対しても固く反対する」。この文面それ自体に反対する人はいないでしょう。もっとも訴えの矛先はあくまで英米両国に向いていますが。第2点は「英米政府は即刻、武力を乱用する帝国主義的行動を停止せよ」。補足説明ではパレスチナ問題のことを指摘しています。賛否あるかと思いますが、とりたてて珍しい主張ではないでしょう。
 第4点はイギリスやアメリカとは直接の関係はありません。「台湾政府は即刻、原住民、外国人労働者に対する反人権的、自由に反する隔離政策を停止せよ」です。これはちょっと実態を把握しないと、どの程度、妥当なのかはわかりません。それに外国人労働者に関しては、最低限のラインは守るのは当然としても、そこから先の労働条件は雇用とトレード・オフの関係にありますから、そうそう単純な結論は出せないと思います。
 それで問題の第3点ですが、「台湾政府は即刻、親米一辺倒の施政方針を停止せよ」となっています。台湾がなぜ親米なのかといえば、明らかに現実の脅威、つまり中華人民共和国から防衛するためでしょう。もしアメリカの支援を得られる可能性が全くないとなったら、台湾が今ある自立した状態を維持するのは難しくなるにちがいありません。ビラを書いた本人とは話していませんので、彼が統一・独立問題をどのように考えているのかは知りません。ただ、この訴えが入ることで、このビラは統一寄りと見なされることになると思います。
 考えさせられたのはこの点です。わたしはこのビラの他の点について必ずしも賛成しませんが、このような考えがあることは自然だし、社会全体としては望ましいだろうと思います。しかし、台湾の場合、どうしてもそれが統一寄りの考え方とセットになってしまう傾向がある、あるいはそのように見なされる傾向があるように思います。
 一方で、反対の力も働いているように見えるときもあります。つまり、台湾の自立を維持するためにはアメリカの支持が必要であり、ゆえに親米的となり、他の分野でもアメリカ的なものを受容するというような。適当な例かどうかわかりませんが、これから行われようとしている行政改革は、陳水扁の当選時に許文龍が行った提言が出発点となっています。その提言には「レーガン、サッチャーを見習って」とあったといいます。
 わたしが気になっていますのは、統一・独立問題と関係ない分野でも、こういう形で政策論議が拘束されていることがありやなきやという点です。もう少し具体的にいうと、社民的な議論が、それが統一的な考え方と親和的なゆえに、不必要に割を食うことがないだろうかという懸念です。もっとも昨今の立法院を見ると、そのような心配をする以前の状況のようですが。




第9回 「徴婚啓事」(2002年5月10日)

 水不足が日増しに深刻になっています。今年の冬は雨の日が少なくて過ごしやすいと思ってたら案の定です。来週からいよいよ本格的な給水制限が始まりそうです。
 台北の水甕、翡翠ダムには、前回、滞在していた時に、青短の故秋山紀子先生と行ったことがあります。工業局かどこかを訪ねたついでに、資料でももらえないかと担当の部局(確か当時は「水資源???委員会」という名前だったかと思いますが)に立ち寄ったところ、日本語の堪能な総工程師の方がとても親切で、車で案内してくださいました。今でもそうではないかと思いますが、翡翠ダムは水が汚れないようにと、関係者以外が入れないようになっていました。あの時はこのダムがあれば台北の水の心配はないと豪語されていたのですが、水の需要がその後、大幅に増えたのか、今年の降雨量が想定を遥かに超えて少ないのか、今の貯水量は残すとところ満水時の2割までしかありません。雨が待ち遠しい毎日です。

 さて、本題です。先週、ひょんなことから屏風表演班の「《徴婚啓事》幸福版」という劇を観に行きました。ひょんなことと言いますのは、台湾のある会員の方を通して、日本奨学金留学生聯誼会というところから、そこが発行している『留日同学会刊』で、学会の活動を紹介してほしいという話が舞い込んで来ました。それで『会刊』の編集をされている劉さんにお会いしに行きました。彼女は国父記念館にお勤めで、一通り話が終わった後、明日、時間があればどうぞと「《徴婚啓事》幸福版」のチケットを下さりました。
 多分、台湾の現代劇を観たのは今回が初めてです。とても面白かったです。テンポが速くて、終わってみたらあっという間に3時間近く経っていました。ラストだけはちょっと不満を感じましたが。この学会にはその方面のプロの方もいらっしゃいますので、下手なことは書けないのですが、素人なりの感想を書いてみたいと思います。
 原作もたいへん有名だそうですし、また、「幸福版」は既に三つ目のバージョンのようですので、ご存知の方も少なくないかもしれませんが、簡単にどのような劇か説明しておきます。劇は劇中劇の「徴婚啓事」と交錯しながら進みます。劇中劇は、ある女性が結婚相手を求めて20人のタイプの異なる男性と会っていくというストーリーです。「徴婚啓事」はその場では何のことかわかりませんでしたが、後で友達に聞いたら、結婚相手を募集する新聞広告だそうです。この劇中劇に、主役の女優や他の俳優、スタッフの実際の関係が絡むという筋立てです。ヒロインの女優は天欣という名で、天心が演じています。一方、劇中劇の様々な男性を演じるのは一人で、それを脚本と演出も担当している李国修が演じています。彼が様々な役柄を演じ分けるところがおそらく見所の一つで、最後の挨拶では彼への拍手がいちばん大きかったと思います。
 面白いと思ったのは、出てくる男性の類型化のやり方です。中休みの直後に出てきた「省籍コンプレックスの強い男」(ちなみに外省人です)はお約束という感じの人物ですが、劇全体では学歴が人物のタイプを分ける重要な基準になっていることが非常に印象的でした。特に学歴の低いとされた登場人物の描き方は、台湾の人のものの見方が現れているように思いました。
 学歴が性格付けの重要な要素となっている登場人物は、「学歴の非常に低い男」、「所帯を持ちたい公務員」、「工場の現場作業員」(もちろん原語は「黒手」です)といったところでしょうか。「学歴の非常に低い男」はそのものずばりですが、ほとんど台湾語しか話しません。それも親が用意した虎の巻を読むだけです。「所帯を持ちたい公務員」は高卒ですが、学歴コンプレックスを持っていて、「学歴は気にするか?」とか訊いたりします。やはり話し下手です。「工場の現場作業員」は「学歴の非常に低い男」と類似のキャラクターでした。いずれもボケで笑いを取る役回りです。
 現実とどれくらい合っているかは別にして、そこには台北の高学歴層の見方が反映されているように思います。昔から感じることですが、台湾の人は学歴をストレートに信じているように思います。つまり、学歴が高ければ、それは何らかの能力を備えていることを表していると。日本も学歴社会と言われますが(日本の場合、卒業した大学、台湾の場合、学位が重要という違いはともかく)、日本人は学歴とそれが示すとされるある種の能力そのものとの間にはズレがあると思っているのではないでしょうか。とりわけ最近は、高学歴者が集中している官庁や金融機関で馬鹿馬鹿しくなるような問題が頻出し、能力を示す指標としての価値は一段と下がっていることでしょう。
 そして学歴という物差しは、台湾社会にもう一つの境界線を引いているように思います。「もう一つ」という意味は、メディアなどに出てくる境界線はもっぱら省籍とか、アイデンティティだからです。それが強調されるため、普段、学歴はその後ろに隠れてしまっています。でも、劇の中で低学歴層は明らかに「われわれ」ではなく、「彼ら」でした。実際、同じ台湾の中でも、学歴の違いによって置かれている環境の違いはけっこう大きいのではないかに思います。もし通婚を基準に測ったら、省籍以上に仕切られているのではないでしょうか。
 もう一つ、劇を見ていてなるほどと思ったのは、日本の扱われ方です。ちなみに劇中で日本以外に重要な外国はアメリカと、「外国」と言うと差しさわりがあるかもしれませんが、中国です。台湾の現実をよく反映しています。日本という要素が最も強く出てくる登場人物は「世界を遊び歩いた男」で、漫遊の最後に行き着いたところが日本です。この人物のキャラクターは、一言で言いますと、とてもチャラい。日本というのは今の台湾にとってそういう位置にあるのかと思いました。このほか、日本が出てくるのは、「ヤクザの兄貴」と「右手に時計をする男」(日本というより日本料理店ですが)です。

 ところで、わたしの隣にはやはり劉さんのお友達が座ったのですが、この方がなんと、孫運シュンや張忠謀の伝記を書いた楊艾俐さんでした。とても奇遇です。彼女にはいろいろ確認したいことがありますが(例えば半導体プロジェクトがスタートした朝食会の場所は、彼女の本では林森北路となっていますが、別の資料では懐寧街となっています)、その場は挨拶だけで済ませました。楊さんも、ご自身の著書を2冊、読んだことのある日本人が隣に座るとは思っていなかったことでしょう。




第10回 新竹に対する誤解(2002年6月19日)

 先ほど、W杯の日本対トルコ戦を観ていました。残念でしたね。もう少し、いい夢を見ていられるかと期待していましたが。
 かつての日本のように、サッカーに関心の薄い台湾で、W杯のテレビ中継はどうなるのかとちょっと心配だったのですが、さすが多チャンネルを誇るケーブル・テレビだけあって問題はありませんでした。開催地がお隣ということで、それなりに関心を呼んだということもあったかと思います。おかげで「角球」(コーナー・キック)、「射門」(シュート)、「越位」(オフ・サイド)など、W杯がなければ聞くことはなかったような中国語も覚えてしまいました。
 それにしても、このように何でも漢語化されているのは、今の日本ではあり得ないことだと思います。ただ一つ気になったのは、将来、台湾でもサッカー熱が盛り上がった場合、アナウンサーはどうするのかということです。かつて「ゴール」を何十回も連呼して少々顰蹙を買ったアナウンサーが日本にいましたが、「進球」ではちょっと難しい気がします。

 最近の台北ですが、ようやくまとまった雨が続けて降るようになって、水不足解消の出口が見えてきたようです。一時は一段と厳しく3日に一度の断水にするという話もあったのでやれやれです。昨年の洪水と合わせて、これを機に治水、利水に関する議論が活発になるといいのですが、実際は喉元過ぎればすぐに忘れられてしまうかもしれません。もちろん、そういう健忘症に関しては日本も他人の国のことをとやかく言える資格はありませんけれども、台湾の場合、とりわけ本土派の人たちにとっては、そういう議論を重ねていくことが、台湾のアイデンティティを固めていくことだと思うのですが、いかがでしょうか。

 さて、本題の新竹の話ですが、先月、書こうと思って書きそびれていました。お蔵入りにしようかとも思っていたのですが、どこかで書いておきたかったので、やはり書いておくことにします。書いておきたいと思ったのは、台湾のことをネタにしながら、そこから今の日本のことが透けて見える気がするからです。
 先月の初め、ベンチャー・ビジネスと関わっている金融機関の方と経営学の研究者が日本からこちらにいらっしゃいました。中華経済研究院の友人が企業訪問をアレンジされ、ついでにどうですかと言われ、便乗して同行させていただくことになりました。
 お二方の目的は台湾のベンチャー・ビジネスの調査でしたが、特に新竹に強い関心をお持ちでした。お二方に限らず、新竹に対する日本の関心はかなりあるようです。昨年はマイナス成長だったとはいえ、日本から見れば台湾経済は活力に漲って見えることでしょう。特に新竹は光り輝いて見えるようです。新竹の中心である半導体産業は、1990年代の台湾の産業高度化を象徴する一方、日本の製造業の蹉跌を代表する産業ですから、そのような見方が生まれるのも自然なことだと思います。そのとき、では成功の秘訣は何かという疑問が湧いてくるわけですが、それは新竹という場にあるのではないかという見方が広く流布しているようです。「新竹という場」という意味は、一つは科学工業園区という政策的につくられた特殊な工業団地のことです。近頃、日本でもよく使われるようになった特区の一種だと言ってもいいかと思います。その経験から何らかの政策的なインプリケーションを得られないかという期待が込められています。また、もう一つの意味は、新竹に関連の産業が集まっていることが発展のエンジンだったのではないかという発想です。これは1990年代に日本ばかりでなく、世界的に流行した産業集積の議論の影響を受けています。
 新竹に対するこのような見方は、以前から時々、耳にしていました。そういう話をして欲しいという意図で会議に招かれたこともあります。しかし、それは全くの間違いではないけれども、少々、偏った見方だとわたしは思っています。ちなみにそういうわけで、上の会議ではこれから書くような臍の曲がった話をしましたので、座長はちょっと困った顔をしていました。
 上に書きましたように、新竹の成功は台湾の半導体産業とほとんどイコールで結ぶことができます(ここでの半導体産業とは特に前工程を指しています)。半導体産業は新竹科学工業園区の最大の産業であるとともに、最近まで台湾プラスチック系の南亜科技を除く全ての台湾の半導体の工場は、科学工業園区にありましたから。それで問題は半導体産業の発展をもたらしたのは新竹という場だったのかどうかですが、おそらく1990年代以降、特に半ば以降はそのような要因も働いていたと思います。しかし、台湾の半導体産業の歴史を紐解くと、それは比較的、最近の話で、その前の段階が15年から20年あり、そこでは新竹という場の要因は認められません。詳しいことは既に論文にしてありますが、台湾の半導体産業を立ち上げ、軌道に乗せた主たる要因は、その過程に関わった政治家、官僚、技術者、企業家たちの熱意と創意工夫であり、それは政治的、社会的な背景を持っていたと考えられます。この過程でTSMC(台積電)とUMC(聯電)という今日の中核企業が生まれ、ピュア・ファウンドリーという台湾が国際的に圧倒的な強みを持つビジネス・モデルが構築されました。新竹の発展とはその結果だと理解するのが妥当だと思います。
 このような過程はかなり突っ込んで観察しないと見えませんので、はじめからそこまで理解するのは無理でしょう。とはいえ、新竹という場を台湾の経済発展の原動力として理解しようとする姿勢は少し安易だと思います。今の日本経済の苦境を考えると、即効薬が欲しくてたまらないのでしょう。その気持ちはわかります。けれども、他人の成功例を形だけまねても経済をよくすることはできないと思います。
 新竹をモデルにしようという見方が気に入らないもう一つの理由は、どうもまたぞろ箱もの作りで何とかしようという発想につながりかねないからです。新竹で起きたことを、そういうハードウェアの視点からのみ理解しようとするのは、まさに誤解だと思います。
 日本からいらしたお二方には、ここに書きましたような話はご理解いただけたようです。それはわたしの話が説得力があったからではなく、他ならぬお訪ねした企業が新竹という場を発展の主因として積極的には支持しなかったからです。もちろん否定はしませんが、もっと重要な要因があるこことをそれぞれ示唆されていました。
 改めて新竹の価値を考えますと、その一つはこのように台湾経済に対する関心のポータルとなっていることだと思います。そこを起点に台湾に対するいっそう深い理解に発展していくならば、手始めに新竹という場に関心を持つことは悪いことではないでしょう。

 おまけの思い出話を一つ。みなさまご存知のとおり、先ごろ中華航空機でまた痛ましい事故が起きました。責任者である董事長の李雲寧さんには、以前、李さんが遠東航空の総経理をされていた時にインタヴューしたことがあります。日本の大学教授がお二方、沖縄との経済交流について調査したいから協力をと頼まれ、台湾綜合研究院の友人にお願いして訪問先をアレンジしてもらいました。その中の一つに遠東航空がありました。ちなみになぜ台湾綜合研究院だったかといいますと、沖縄のことをさかんに言っていたのは当時の李登輝総統、実働部隊が劉泰英氏率いる党営事業やそれに近い企業群で、劉氏が院長を務める台湾綜合研究院はその先遣隊になっていたからです。
 李さんは軍出身とは思えない物腰の柔らかい人で、印象が強く残っています。パイロットをされていただけあって、那覇空港の航路が嘉手納と近接しているために、安全上、どのような負担を強いられているか丁寧に説明してくださいました。それだけに今回の事故については、多々、考えさせられます。




第11回 日台不動産仲介料考(2002年7月7日)

 先月末、社会学研究所の団体旅行で墾丁に行ってきました。9年ぶりです。新しいホテルやら、パブやら、たくさんできて、ずいぶんと賑やかになっていました。
 なかなか贅沢な団体旅行で、初日は凱撤大飯店に泊まりました。かつて台湾の旅行会社のパック・ツアーでは、本来、2人部屋のところに5~6人、押し込められたものですが、今回は2人部屋に1つベッドを足して3人とまともでした。でも、結局、同室の一人はダブル・ベッドでわたしと一緒に寝るのを嫌って床で寝ていましたが。
 今回の旅行で気がついたことが2点。まず、出入りが激しい。予め設定されたオプション以外にも、みんなどんどん勝手に動いてしまいます。例えば、2日目は恒春生態農場というところに泊まりましたが、数人は凱撤大飯店に残りました。ハイキングを入り口でやめてホテルに帰った人もいました。そのたびに確認する人数が変わるので、「導游」もたいへんです。
 もう一つはとにかくアルコールの類を飲まないこと。バスの中では誰も飲みません。いちばん驚いたのは、往復8kmあまりのハイキングを終えて山から下りてきた時も、一人もビールを飲もうとしません。さすがにこれはいかんと思って、わたしだけは汗をかいたらビールを飲むという原則をここでは守りました。

 今回の主題に入ります。とうとうこちらに来てから一年が経ち、それにともなって借りている家の契約更新をすることになりました。わたしの知っている東京及びその近郊は2年単位で契約していますが、台湾は1年ごとが一般的なようです。それをめぐって大家さん、不動産屋さん、わたしの三者の間でちょっと駆け引きがありました。更新に当たって、わたしは不動産屋さんを通そうと思ったのですが、大家さんはその必要はないから、直接、契約しようと言ってきました。なぜ、このようなことが起きたかといいますと、日本と台湾の制度、習慣それにものの考え方の違いが原因となったのように思われます。
 まず、制度です。日本では(東京周辺以外は知りませんが、面倒なのでとりあえず「日本」と言っておきます)2年契約を前提に不動産屋の仲介料は家賃の一月が一般的だと思います。わたしもその感覚で昨年の契約時には、家賃の一月分を不動産さんに払いました。それで今回の更新時には、アフターケアやらなんやらを含めて家賃の10分の1を更新仲介料として払って欲しいと言われました。まあそれくらいならいいかと思って、わたしは不動産屋さんを通そうと思ったわけです。その際、大家さんが不動産屋さんに払う仲介料も同じだろうと思っていました。ところが、実はそうではなかったのです。台湾の一年契約の習慣にしたがって、大家さんが当初、不動産屋さんに払った仲介料は家賃の半月分だけでした。それで、不動産屋さんは更新時にも家賃の半月分の仲介料を大家さんに要求していました。わたしは日本のみなさまの税金のおかげでかなり高額の家賃のところに住んでいますので、半月分となるとけっこうな金額になります。このように払わなければならない金額にかなりの差がありますから、大家さんとわたしとの間で対応が違ってくるのは当然といえば当然のことだったのです。
 この非対称な仲介料の仕組みは日本と台湾の習慣の折衷としてなかなか面白いと思います。異なる制度をつなぎ合わせようとすると、こうなるのかと感心しました。そして、よく見ると、不動産屋さんは現地に不慣れでお人よしの日本人から多めに取って、台湾人とはシビアな取引をしなければならないようにできています。考えてみると、日本の仲介料の仕組みがかなり不動産屋さんに有利にできていて、それは台湾では通じないとみることもできるかと思います。
 このような仲介料の違いに加えて、将来のリスクに対する考え方の違いも大家さんとわたしの間にあるような気がします。わたしの場合、不動産屋さんを介在させようと思ったのは、予期せぬトラブルが起きた場合、第三者で経験を持っている不動産屋さんが間にいれば、事をスムーズに処理できるだろうと、一種の保険料として考えたからです。でも、大家さんは「予期せぬトラブル」のため、つまり捨てることになるかもしれないお金を払うという考えはないようです。一方、予期できる面倒である退去時の清算については、いまのうちにどうするか決めておけば問題にはならないだろうと説得されてしまいました。大家さんとわたし、それぞれ必ずしも台湾人と日本人の代表というわけではありませんが、ある程度、平均値の違いを反映していたのではないでしょうか。
 結局、お金のからむことで台湾の人と言い争っても勝ち目はありそうにないので、大家さんの方針に従うことにしました。そもそも大家さんはたいへんいい方で、この一年、とてもよくしてくれましたので、こちらの心配はどうも説得力がありません。不動産屋さんもあの大家さんならば大丈夫だろうと言ってくれました。

 最後に中央研究院の動きを1つ、ご紹介します。この「台北便り」の第1回を覚えてますでしょうか?お忘れの場合、このページをめくってもらえばいいのですが、中央研究院の評価制度のことを書きました。それやこれやをめぐって、7月1日、「中央研究院研究人員聯合会」が設立されました。一般の研究員が、特に院長をはじめとする幹部に対して発言するための会です。社会学研究所の張茂桂氏が準備執行グループに入っていて、早速、彼のところから設立の声明文をもらってきました。会の目的は多岐に及びますが、理系及び経済学の仕組みを元に進められてきた評価制度に対する不満が重要な位置を占めることは間違いないと思います。今後、どのような広がりを見せるかわかりませんが、発起人は人文及び社会科学の研究所のメンバーがほとんどのようです。第1回の「台北便り」に書きましたような懐の深い評価制度をつくるように、この会が作用してくれることを期待したいと思います。
 ところで、記者会見の新聞記事(『中國時報』7月2日)では、現行の評価制度では研究員は学術雑誌に採用されやすい研究テーマに傾き、大きなテーマに挑戦しなくなるという会のメンバーの見解が紹介されています。この問題は「台北便り」にも書きました。ただ、改めて自らを省みると、制度だけの問題ではないなと思います。わたしの所属するアジア経済研究所には、これまでのところ、個々の研究者に対する評価制度はありませんでした。所属する部にもよりますが、わたしがこちらに来る前にいた部では、研究活動を行う上での実質的な条件は、原則として研究会を組むことと、多額の研究費が欲しいならば新規のプロジェクトとして経済産業省を説得することの2つです。言い換えますと、3人くらい集まって好き勝手なテーマについて研究しようと思えば、かなり自由にできます。結果として芳しい成果が出なくても、処罰はありません。しかし、それならば大きなテーマの研究、挑戦的な研究をしてきたかというと、胸を張れる自信がありません。やはりそこそこのテーマの研究がほとんどだったように思います。中央研究院で起きた議論をみながら、一方で自省の念も禁じえません。




第12回 「顧問」というお仕事ほか(2002年8月5日)

 7月中にもう一回分、書くつもりでネタを貯めていたのですが、雑事に追われているうちにあっという間に月が変わってしまいました。時間の経つ速さに恐ろしくなります。

 はじめに前回の補足をしておきます。前回の話に出てきたのは日系の不動産屋さんです。ローカルの不動産屋さんの仕組みはまた少し違うかもしれません。昨年、こちらに来た時、地域研究者としてローカルの不動産屋さんの様子も見てみようと当たってみたのですが、使い勝手が悪いのでやめました。彼らは売買の仲介が中心で、賃貸の仲介は片手間にしかやっていません。手持ちの物件も多くないようでしたし、何と言ってもノウハウが出来ていません。下見に行っていきなりその場で決めろと迫られ、申し訳ないけど少し考えさせてくれと言って逃げ出しました。

 今回は特にメインはありません。あれやこれやいくつかの話を綴ってみたいと思います。まず、捷運の忠孝復興站から忠孝敦化站を経て明曜百貨公司までの地下街が開通しました。東京では何処にでもあるような地下街ですが、台北では新鮮に感じます。定番のセブン・イレブン、スターバックスそして誠品書店の3点セットはここにも入っています。わたしにとってありがたいのは、これまで最寄り駅の忠孝敦化站に行くには必ずどこかで敦化南路を渡らなくてはならなかったのですが、これでその必要はなくなりました。ちょっとの違いですが、雨の日や日差しの強い時には助かります。

 水不足は過去の話題になりましたが、これからは水害の方が気がかりな時期です。南港に行く途中のバスから、川の両側に塀をつくっているのが見えました。橋の所はどうするのかと疑問に思っていたら、近くに土嚢が用意してあるので、水嵩が増えたらおそらくそれで塞ぐのでしょう。遊水地などをつくることが難しいということなのでしょうが、この塀はいかがなものかなと思います。まず、素人目にはとても頼りなげに見えます。大きな丸太でも流れてきたら突き破ってしまうのではないかと心配です。そして決定的に問題なのは、川が見えなくなってしまうことです。川の持つアメニティの役割をまったく無視しています。また、見えなくなれば、人は川の汚れに無頓着になます。この川は中央研究院の中も流れています。塀は今のところ中央研究院までは延びていないのですが、どうなるのでしょうか。李遠哲院長が認めるとは思えないのですが。

 旧聞になってしまいましたが、先ごろ、中国語のアルファベット表記を「通用ピンイン」にする方針が教育部の方から出されました。みなさんはどう感じていらっしゃるでしょうか?陳培豊さん風に言えば、ほとんどの外国人にとって言葉は道具でしかないので、便利でさえあればよく、そうすると「漢語ピンイン」つまり大陸式のピンインの方がいいことになります。実際、この方針が公表されると、早速、テレビの討論番組が取り上げ、外国人がそのような趣旨から発言していました。ただ、台湾の人にとって言葉は道具以上のものですから、外国人が是非の議論にまで加わるのはどうかなと思いました。
 わたしとしてはどちらのピンインでもかまわないけれども、これを機に台湾の人名の英語表記をもう少し揃えてくれないものかと思います。日本人の人名はもっと難しいので人様のことを言えた筋合いでもないのですが、台湾の人の場合、表記を統一しようと思えば出来ないこともないので(台湾語などで発音する場合は別ですが)、何とかならないかという気持ちになります。
 例えば、「許」は今までですと、「Hsu」を使っていた人が多いかと思います。大陸式ならば「Xu」ですね。でも、元財政部長で今、外貿協会の董事長の許嘉棟さんの場合、「Shea」です。それから、名前は漢字二文字の人が多いわけですが、ハイフンでつないだ二文字目の頭を大文字にするか、小文字にするか、バラバラです。ピンインとは関係ありませんが、人によってはこれにVivianだとか、Jamesだとか加わったりもしますから、本当に難しい。
 最近、英文の論文を書いていて、この問題には悩まされました。インターネットのおかげもあって、学者や有名人物はそれでも何とかなるのですが(ご参考までに、Taipei Timesのサイトの検索機能はその点でとても便利です)、雑誌の記者などはお手上げです。以前、ある雑誌の記者の名前は、そこに勤めていた友人の嫁さんに調べてもらったことがありますが、いつも使える手ではありません。彼女も既に転職していますし。仮に通用ピンインがこれから定着していくとしても、人名の表記はすぐにはどうしようもないと思いますが、少しずつわかりやすくなっていって欲しいと思います。
 ピンインの導入に関して、もう一つ興味深いのは、これで台湾の人の発音がどう変わるのかです。わたしは、元々、日本では大陸式のピンインで中国語を習っていたせいか、前回の滞在の当初、例えば「十」はかなり強く「i」の音を発音していました。ところが、こちらの注音符号では「尸」のみで、母音は「一」も何も入っていません。だから、わたしが「十」と言うと、「十一」と聞こえたらしく、おかげで一回、約束の時間を間違えてしまいました。通用ピンインでは「shih」となるようですが、これから台湾の人同士でも世代が違うと「十」と「十一」を聞き間違えるようなことがしばしば起るかもしれません。

 先月から台湾経済研究院で「顧問」をしています。台経院の第三研究所の副所長は台湾大学時代の同級生で、ちょっと手伝ってくれないかと言われて引き受けました。「顧問」という重々しい感じがしますが、日本語では「アドバイザー」と言った方がはまりがいいと思います。アドバイザーはプロジェクトごとに付いていて、その役割もケース・バイ・ケースのようです。場合によっては高名な先生が、箔をつけるために名前だけ貸していることもあるようです。わたしの場合、週に一回、ブレイン・ストーミングの討論会に出て、コメントをするということをしています。
 ところで、この「顧問」というお仕事はそこそこおいしいアルバイトだということがわかりました。わたしの場合、当初、月に1万元もらえることになっていました。一方、費やす時間は週に半日もありませんから、こちらの給与水準を考えると悪くはありません。台湾の大学の教官の給与はそれほど高くないようですが、「顧問」をいくつかやればけっこうな稼ぎになるのではないかと思います。
 もっとも、わたしの場合、「もらえることになっていました」が、結局、今は無給です。このプロジェクトは政府からの受託ですが、契約を結んだ後、政府の方から追加注文があり、そのために顧問を増員する必要が生じ、わたしの分はなくなってしまったのです。お役人さんが契約を無視して後から勝手なことをするのはどこも同じだなと思いました。わたしも昨年、経済産業省の関連団体に天下った元お役人さんから押し付けられた仕事で振り回されました。はじめは負担はかけないからと言っていたくせに(ブツブツ)。
 でも、無給になったおかげで気が楽になりました。元々、お金が目当てではなく、台湾のシンクタンクでプロジェクトがどのように進行するのか見てみたいと思って引き受けたので、この方がよかったのです。なまじ報酬をもらうとプレッシャーですし、もっと貢献しないといけなくなりますから。
 ところで、このプロジェクトの課題は科学技術の長期的な展望です。科学技術そのものの趨勢の検討とともに、社会の変化がどのような新しい科学技術を求めるかが重要な検討項目となっています。討論会ではこの問題に関して先進国各国が出しているレポートを読みながら、抑えておくべき点を整理し、台湾が目指すべき方向を探っています。議論に参加しているのは、同級生の副所長のほか、台経院の研究員や手伝っている助理たちです。助理たちは同級生が淡江大学で教えている修士課程の学生です。
 彼らとの討論の中で、いろいろな点で将来に対する感覚の違いがあることがわかりました。いつものことながら、これがどの程度、日本と台湾の違いを代表しているかはわかりませんが、2点、ご紹介しておきましょう。一つは高齢化に対する現実感の違いです。日本でもちょっと前まではまだ先のことという感じだったと思いますが、今ではほとんどの人がまさに現在のこと、そしてこれからもっともっと重大になると考えていると思います。でも、彼らはまだあまり切迫感はないようです。一つには台湾の人口構成が日本の何年か前の状態にあるからでしょう。もう一つはおそらく社会保障が整備されていないため、特に若い彼らにとっては自分のこととは感じられないのだと思います。何しろ年金はまだ正式に始まっていませんし、医療保険の財政は悪化していますが、それはそもそも制度設計が悪いためですから。
 もう一つはインターネットが社会に及ぼす作用です。その点に関連してNGOのことに触れたところ、たまたまかもしれませんが、助理の一人がNGOという言葉を知らず、ちょっと驚きました。また、インターネットの発達によって政治の仕組みが変わるかもしれないと言いましたが、ピンと来ないようでした。そこで気がついたのですが、未来について語るとき、もっぱら個人レベルの仕事や衣食住、そしてエンターテイメントに関心が集中していて、公的な部分というか、市民社会の部分というか、その辺が抜け落ちています。中央研究院の社会学研究所で議論したらそういうことは起きないでしょうから、バックグラウンドの違いと言えばそれまでですが、何となくその辺に対する関心の薄さを感じました。

 最後に一ついい話を。もう先々週になってしまいましたが、台湾大学の経済系主催の「第四屆亜洲金融風暴:復甦與世界経済関係国際研討会」というコンファレンスがありました。2日目の午前の分科会が大入りで、わたしが会議室に入った時には立ち見になっていました。わたしのすぐ後に親民党の立法委員になっている李桐豪さんが入ってきて、彼も様子を見て立っていました。結局、間もなく気がついた学生が席を譲るのですが、日本の国会議員だとちょっとこうはならないだろうなと思いました。席がないとわかった時点で怒り出すのではないでしょうか。こういう気さくさは台湾のいいところだと思います。
 ついでに2つ、3つ話を付け加えたいと思います。李桐豪さんには2000年に金融システムの調査をした時に、インタヴューを申し込んだことがあります(当時は政治大学金融系の主任)。ところが、待てど暮らせど返事が来ませんでした。それで彼にはちょっと悪い印象を持っていたのですが、その後、アジア開発銀行研究所(ADB研)でお会いする機会があって印象が変わりました。返事が来なかったのはおそらく多忙の中、何か手違いがあったのでしょう。今回、コーヒー・ブレイクの時にご挨拶したら、ADB研でははちょこっと話しただけなのに覚えていてくれました。立法委員になられた後、新聞に経歴が出ていて、それによるとなかなか苦学されたようです。
 ところで2000年のインタヴューでは金融政策に対する見解を聴くため、政党関係も訪問しました。民進党、国民党、新党(当時はまだ泡沫化していませんでした)はアクセスできたのですが、親民党は誰を訪ねたらいいのかわからずスキップしました。ところが、この時にお訪ねした政治大学の殷乃平さんがその後、親民党の比例代表区から出馬し当選されました。図らずも親民党の見解も聴いていたわけです。
 もっとも彼がどの程度、党の見解を代表しているかは難しいところです。件の分科会で立ち見が出たのは、ADB研のモントゴメリーさんの「Taiwan’s Looming Banking Crisis」という報告が数日前から新聞でも話題になっていたからです(ですから、聴きに来る人が多いことは予想できたのです。にもかかわらず、会議室を変更しなかったのは主催者のミスでしょう)。この報告に対するコメンテーターは、プログラムでは中華経済研究院の楊雅恵さんになっていましたが、当日は親民党の立法委員の劉億如さんに変わっていました。彼女はモントゴメリーさんの報告を激しく攻撃し、台湾で金融危機が発生する可能性は非常に低いと主張しました。あたかも民進党政権を擁護するかのようなコメントでした。一方、今回、詳しくお話を聴く機会はなかったのですが、殷さんはかねてから台湾の金融危機の可能性を指摘してきた方ですので、考え方はモントゴメリーさんに近いのではないかと思います。親民党の比例代表区にはさらに劉松藩氏がいるわけですから、本当にこの政党はわかりにくいと思います。

 最後の最後に広告を追記します。中央研究院社会学研究所の柯志明さんの大著、『番頭家』の書評が『アジア経済』の7月号に出ました。執筆しているのは東大の岸本美緒さんです。とても読みやすい書評です。わたしは本そのものは読んでいないのですが、この書評のおかげでおおよそ内容はわかりました。柯さんはアメリカでは誰も書評を書いてくれそうにないのにと言って、とても喜んでいました。こういう形で交流が積み重ねられればいいなと思います。




第13回 中央研究院研究人員連合会続報(2002年8月10日)

 東京は暑いようですね。来るメール、来るメール、どれも必ず「暑い」と書いてあります。台北から残暑お見舞い申し上げます。

 ここいらでちょっと回数を稼いでおきましょう。8月8日、前々回にご紹介した「中央研究院研究人員連合会」が正式に設立されました(あの時、「設立されました」と書いたのは間違いでした。7月1日はこれから設立しますという記者会見でした)。オブザーバーとして設立大会を見てきましたので、その様子をお伝えしたいと思います。
 7月1日に配られた「成立声明」に名前を連ねた発起人は36人でしたが、現在の会員数は50数名まで増えているそうです。この数を多いと見るか、少ないと見るか、難しいところです。連合会に好意的な関心を寄せている人は少なくないらしいのですが、入会することにはためらっている人が多いようです。と言いますのは、連合会を「落ちこぼれ組」(確か「後段班」という言い方をしていたと思います)と見る向きがあるからです。つまり、学術的な力が足りないから、ああいう集まりをつくるのだと。知っている顔ぶれを見る限り、この批判は的外れなのですが。例えば日本台湾学会の年大会で記念講演をしていただいた許雪姫さんも発起人の1人です。また、実際に契約更新、昇格の圧力に直面している助研究員、副研究員の場合、会に加わることで不利な扱いを受けないかという心配を抱くようです。
 8月8日当日は20数人が参加、10人あまりが委任状を出し、設立大会は成立し、始まりました。参加者の年齢は見たところかなり幅があるようでした。社会科学、人文科学の研究者が中心ですが、生物化学研究所、資訊科学研究所の人も来ていました。はじめに林美容さんが経過説明を行い、続いて組織規定の制定、機関誌となる『山猪窟論壇』の運営規則の制定、理事及び会長と副会長の選出、今後の重点課題についての議論と進みました。
 研究者同士の議論はやはり時間がかかります。みなさん、時間が限られていることはわかっていますからはじめは自制しているのですが、誰かが口火を切ってしまうとなかなか止まりません。内容にこだわり、また、表現にもこだわります。学会を準備していた頃を思い出しました。予定の12時半から少し遅れて始まり、結局、終わったのは3時半過ぎでした。2時くらいには終わるだろうと思って昼食抜きで行ったため、腹ペコになってしまいました。
 はじめに議論になったのは組織規定案の中の「研究人員」の定義です。例えば「助理」は含まれるのかどうか。ここは広く解釈するという準備委員からの説明で収まりました。次にもめたのは強制退会の規定です。案では「会の名誉を傷つけたり、主旨に反する言行を行ったりした場合、理事会の多数と大会の三分の二の賛成で除名できる」となっていました。会の正統性を守るためには規律が必要と考えて盛り込まれたようですが、始めからあまりネガティヴに考えるのもどうかという意見が出されました。台湾のメディアの事情を考えると、なかなか難しいところです。時間がないということで、とりあえず原案を通し、今後、議論を継続するということになりました。
 次にもめたのは『論壇』の運営規則の中の目的の部分と刊行の頻度のところです。後者については、『論壇』に対するイメージが人によってかなり違うことがわかりました。毎月、原稿を集めるのはしんどいと言う人、いや、わたしは毎月でも書く、それでも足りないと言う人、いろいろでした。結局、これも先送りになりました。
 そして選挙のところでまた議論になりました。これは準備委員会のミスだったと思うのですが、選挙規定案を用意していなかったのです。結局、はじめに理事7人を選出、そしてもう一度その中から会長と副会長を選ぶ選挙を行うことになりました。第一次選挙では張茂桂さんがトップ当選、以下、陳儀深、林美容、張啓雄、胡台麗、楊晋龍各氏の順でした。7人目は票数が同じ人が2人いましたが(日本台湾学会の選挙規定をつくる時には、このような場合、どうするかでずいぶんと議論したものですが)、くじ引きの結果、高明達さんになりました。第二次選挙では林美容さんが会長、張茂桂さんが副会長になりました。
 ちょっと面白いと思ったのは、必ずしも顔見知りではない研究者がこういう場で集まった時の呼称です。社会学研究所の中ではファースト・ネームを呼び合うのが普通です(アメリカ在住の経験がないせいか、わたし自身はなかなかなじめません。同年代及びそれ以下ならばともかく、「茂桂」「乃徳」と呼ぶのにはブレーキがかかります)。また、普通の学術会議ならば、初対面の場合、「教授」を付けることが多いように思います。結局、「先生」及び「小姐」(または「女士」)でした。
 ところで、会議の最後、唯一の外国人参加者として発言を求められ、連合会の課題はアメリカ以外の研究機関ではどこでも直面し得る問題であること、現行の中央研究院の方向性はアメリカ以外との学術交流に対するインセンティヴを削ぐ可能性があることを述べました。ただ、急な指名だったので、中国語がうまく組み立てられませんでした。後で心配になって張茂桂さんのところに行くと、「あの発言はよかった」と言ってもらい、胸を撫で下ろしました。
 連合会は既にサイトを持っています。URLは下記のとおりです。
  http://ruas.iis.sinica.edu.tw/
 また、ちょっと前になりますが、『新新聞』の801号にも特集があります。張茂桂さんによると、細かい間違いはあるが、概ね正しく書いてあるそうです。
 連合会をめぐる問題は何となく今回の滞在の隠れテーマのようになってしまいました。これからも折に付け「台北便り」で書いていきたいと思います。




第14回 夏の在庫一掃―会議・講演会・企業訪問―(2002年9月30日)

 ぼやぼやしているうちにあっという間に月末です。台北もだいぶ涼しくなりました。晴れてももう真夏のようなギラギラした暑さはありません。
 台湾の報道はここのところワイドショー化がいっそう進んで、TVBSの女性キャスターの話題でもちきりでした。『中国時報』の一面トップに来たのには唖然とさせられました。その一方で、日本と北朝鮮の話はちらっとしか出てきません。隣の国同士の話だというのに。こういう話をすると、周りの台湾の人はほぼ口をそろえて、まったく台湾のメディアはけしからんと言うにもかかわらず、いっこうに変わる兆しが見えないのはなぜでしょうか?バブル崩壊から十年が過ぎても処理の目処が立たない日本の銀行の不良債権といい勝負です。

 また、貯めておいたネタが些か古くなってしまいました。今回、在庫を一掃してしまいましょう。
 8月半ば、国家図書館の会議室で経済部技術処主催の会議がありました。実際に準備をしたのは台湾経済研究院で、「顧問」をやっている関係もあってわたしも参加しました。2日間の会議の見せ場は最後のセッションにやってきました。このセッションの基調講演はフィリップスで活躍した羅益強氏でした。彼は三通実現を強く主張し、台湾政府が「意識型態」から不当な介入をしていると厳しく非難しました。これに今や本土派のスポークスマンとなった感のある呉栄義台経院院長が、すかさず噛み付き、お互い笑顔を保ちながらも激しい火花を散らしていました。これをフロアから観ていた台経院の面々は顔色が変わったり、苦笑いしたりと、ちょっとお気の毒でした。
 この手の議論について最近よく感じるのは、どうもズルをしているケースが少なくないということです。まず対中経済交流積極推進派について。羅益強氏の講演は典型的だったと思いますが、彼らは自分はあくまで経済界の立場に立ち、台湾政府のイデオロギー的介入を批判するというロジックを仕立てます。しかし、両岸の経済関係が政治化してしまうのは、台湾政府と少なくとも同じくらい中国政府にも責任があるはずです。しかし、台湾政府を責める人が同時に中国政府を批判するという姿を見たことはありません。このようなバランスを欠いたロジックは、実のところ自らのイデオロギーあるいは下心の隠蔽なのだと思います。
 一方、慎重派の方は個々の企業の対中投資に対して、その判断が間違いであるかのような言い方をすることがしばしば見受けられます。しかも、あなたのことを心配しているのだというような言い方で。しかし、企業はあらゆるリスクを考慮して投資を決め、その結果についても責任を負うのですから、それに政府をはじめ外野がお節介を焼く必要はないはずです。それが資本主義の原則ですから。もちろん、中国に投資が集中していることが台湾全体に対して持つ政治・経済的な影響について、懸念が生じるのは理に適っています。対中投資の抑制を求める主張は、そのようなマクロ的な見方に沿ったものであるべきでしょう。
 会議では台湾半導体産業協会の方の発言に好感が持てました。彼は半導体産業が今後も台湾に主力を置くことを明言しつつ、今、中国にも唾を付けておかなければいけない理由を具体的に説明していました。冷静で本当の意味で実務的な議論こそ、説得力を持つのだと改めて思いました。
 それから会議に出席した感想をもう一つ。会議では日本のことも折につけ話題に上りました。この会議に限りませんが、最近、日本経済の話になると気恥ずかしく、また歯がゆい思いをすることがしばしばあります。一方、こちらで日本の新聞を読んでいると、どう見ても日本経済の足を引っ張るようなことを一部の政治家などが主張しているのを目にします。彼らは国際的な会議に参加する機会がないのでしょうか?それとも、参加しても何も感じないのでしょうか?バブルの頃のような増長は論外としても、もう少し誇りの持てる日本に立て直したいものです。

 8月22日、王金平立法院長が中央研究院の生物化学研究所で講演をしました。タイトルは「バイオテクノロジーと政策」です。何故、王院長なのかと思って行ってみたら、彼が国家生技医療産業策進会(生策会)という新しく設立された団体の会長に就いていたためでした。さすが立法院長のご講演です。李遠哲院長は当然、参加していましたし、バイテク関係の企業から花がいくつも届いていました。
 ところでこの生策会、えらく翼賛的な組織です。会長は最大野党の国民党の幹部である王院長が務める一方、名誉会長は総統であり、与党の長でもある陳水扁です。政治の場では誰も文句を言えません。
将来の有望産業と見られているバイオテクノロジーに国を挙げて取り組もうというのはわからなくはないのですが、一方でバイテクは倫理問題を抱えていますから、正直言って少し心配です。微妙な問題が浮上したとき、誰がちょっと立ち止まって考えようという声を上げるのか。幸か不幸か台湾のバイテク産業はまだまだのようですので、当面、気をもむ必要はないようですけれども。

 9月の初め、ある半導体の設計会社を訪問しました。この会社は日本でとても有名な会社ですが、名前は伏せて起きましょう。上の国家図書館での会議でそこの方と知り合いになり、是非、一度、お訪ねしたいと伝えてありました。会議に出ると、時々、こういういいことがあります。
 実はこの会社の総経理(董事長も兼任)とは、1987年の夏、わたしが初めて台湾を訪れた時にお会いしています。当時、会社を設立する前で、彼は工業技術研究院の電子工業研究所に勤めていました。わたしが劉進慶さんや都立大の田村紀之さんとともに電子工業研究所を訪問した時、接待してくれたのが彼でした。15年ぶりにお会いしたら、さすがに経営者の貫禄十分でした。残念ながら、わたしのことはもう覚えていないようでしたが。
 いろいろと面白いお話が聴けたのですが、ここでご紹介しようと思うのは総経理の人材育成に対する見方です。政府は今、台湾の産業高度化を進めるため、大学院教育の拡充に力を入れています。しかし、総経理はこれに批判的でした。その理由は、第一に博士課程で勉強するよりも、大卒、修士卒で就職し、経験を積んだ方が産業界に役に立つこと。博士論文を書くためには研究テーマを絞り込まなくてはなりませんが、企業はもっと広い知識と経験を持つ人材を求めていると言います。第二に、台湾の大学院を拡大すると、結果としてアメリカ等に留学する台湾人が減ってしまい、台湾にとって様々な悪影響が予想されること。そして総経理は、結局、大学院の拡充という政策によって得するのは、学校関係者だけである、また、このような政策が進められるのは大学の教授が政府に対して強い影響力を持っているからだと見ています。
 わたしはこの話を聴き、またかねがね感じていたことも考え合わせながら、台湾にとって将来の足枷になる芽はここにあるのかなと思いました。まだまだぼんやりとしたスケッチに過ぎないのですが、頭に浮かんだのは日本との対比です。日本の場合、いつの頃からでしょうか、いい大学、特に東大に行って、中央官庁の上級公務員や大手企業、特に金融関係や商社に就職することが典型的な人生の成功コースと見られるようになったような気がします。なかでもそのようなコースの経済的な期待値はかなり明確になっていったと思います。例えば官僚の場合、定年後の天下りというように。ただこういう形で将来の利益が固定されてしまうと、そればかりが目的になってしまい、社会のリーダーたるべき彼らがそのポジションにおいて本来、果たさなければいけない任務が二の次になっていったように思います。総経理の話を聴きながら思い浮かんだのは、台湾では「博士」が日本の「東大」の役回りを演じることになるかもしれないということです。漠然としていてごめんなさい。これは今後の、それもかなり長期的な研究課題ですね。

 最後に前々回の訂正を一つ。わたしの台経院での「顧問」は無給だと書きましたが、結局、どこから工面したのか、半年間の有給ということになりました。でも、そのせいか、けっこう使われています。

 本当は今回、もう一つ、メインとなる話を用意していたのですが、それは次回に先送りします。近日中に書きます、たぶん。




第15回 台北按摩指南(2002年10月13日)

 前回、在庫を一掃したつもりでしたが、まだ2つ、書き残した話がありました。両方とも台湾経済研究院の仕事で「助理」の大学院生と話をしていて印象に残ったものです。
 一つは彼らの将来に対する考え方です。「助理」の一人がいずれできることならば新竹などにあるハイテク産業の企業に勤めたいがなかなか難しいと言うので、いわゆる伝統産業にもいい企業はある、中国鋼鉄なんかはしっかりした企業だが、そういうところは考えないのかと訊き返しました。それに対して彼は、伝統産業の企業では株がもらえないからと答えてきました。1990年代の株式ブームの中で、台湾ドリームは「老闆」になることから、ハイテク企業に勤めそこの株をもらうことで一攫千金を狙うことにシフトしていった感がありますが、なるほどこのように浸透しているのだと納得しました。しかし、1990年代の株価の値上がりはバブルも含んでいたように見えますし、現実においても2000年以降、株価は不安定に推移しています。株本位制の本家、アメリカももはや破綻は明らかです。古い夢が消え去ったと悟った時、台湾は新しい夢の方程式をどのようにつくるのでしょうか?
 もう一つは呼び名の話です。前々回に最近の台湾ではファースト・ネームを呼び合うが、年上の人の名を呼び捨てにするのは気後れするということを書きました。その裏返しで、当然のことながら、わたしが呼び捨てにされることもあるわけです。自分の「助理」たちには「老師」と呼ばれますが(これはこれでまたこそばゆいのですけれども)、台湾経済研究院の「助理」からはSatoと呼び捨てにされます。十歳以上離れている学生から呼び捨てにされると、一瞬、むっとなるのですが、ここは台湾だということを思い出して、表情に出ないようにしています。なかなか慣れません。

 ここで宣伝です。まず、中央研究院研究人員聯合会の会誌、『山猪窟論壇』の第1期ができ、ネット上で公開されています。URLはhttp://ruas.iis.sinica.edu.tw/です。わたしも書いています。ご関心のある方はご覧下さい。
 それから、中央研究院の評価制度をめぐる話は『アジ研・ワールド・トレンド』にも書きました。12月号に掲載される予定です。大筋はこれまでこの場で書いてきた話ですが、9月下旬に朱敬一副院長と国家科学委員会人文処の王汎森処長が連名で「人文社会学問評審原則」というものを出しましたので、それに対する感想を加えてあります。「原則」は『中央研究院週報』の第888期に掲載されています。『週報』は中央研究院のサイトに載っています。
ここで『ワールド・トレンド』の原稿を書き終わった後に思いついた話を一つ。「原則」はつかみどころのない玉虫色の文章です。「○○○だけれども、△△△でもある」という文章です。ただ、後々つらつら考えると少なくとも一つ矛盾があることに気がつきました。「原則」は人文科学や社会科学の土着性をある程度、認めているようです。一方、研究者の評価は成果の質だけではなく量も見る必要があると言っています。また、評価や審査が研究者の負担になっているとし、軽減を図らなければならないとも訴えています。しかし、おそらくこの3つの課題は同時に達成することが困難です。どれかを犠牲にする必要があります。例えば、量が重要な基準となれば、研究者は多少、できの悪い原稿でも通れば儲けものと投稿するでしょう。もし土着性を考慮するならば、主たる投稿先は台湾の雑誌になります。その結果、論文審査の負担は増加します(「原則」が負担になっているという「評審」は研究者の昇進などに関わるものだけを指しているかもしれませんが、雑誌などの論文の審査を含めても問題ないでしょう)。
 わたしは研究者の評価基準の中で、量のウェイトを低くするという選択がベターのように思います。研究者は投稿に際して一定の節度を持つ方が研究者自身にとっても、学界や社会にとってもよい効果があると考えられます。それをわざわざ失わせるような基準には疑問を感じます。

 さて、前回、書きそびれた話を本題として書いていきたいと思います。按摩屋の話です。昨夏、こちらに来て以来、心身のリフレッシュのため、按摩屋通いに勤しんでいます。もう麻薬のようなもので、はじめは10日に一度くらいだったのが、1週間に一度になり、2週間に三度になり、中央研究院の体育館でテニスを習い始めた7月以降、1週間に二度通うのが常態化しています。今回はその成果を披露したいと思います。
 わたしの観察と体験に基づけば、按摩屋は3つの系統に分類できるのではないかと思います。第一に目の不自由な人がやっている按摩屋、第二に呉神父系など足裏が主体の按摩屋、林森北路界隈にある一見、いかがわしげな按摩屋。
 わたしが今、いちばんよく利用しているのは「盲人按摩」です。わたしの家から捷運の忠孝復興站に行く途中の復興南路沿いはけっこう集中している場所のようで、気がついた限り4軒あります。全身1時間800元が相場です。時間は昼頃から深夜0:00~2:00あたりまでやっています。だいたい雑居ビルの2階や3階にあって、ちょっと場末の雰囲気を漂わせています。後で紹介する微風広場の按摩屋と比べるとお世辞にもきれいとは言えません。わたしも初めに呼び鈴を押す時には少し勇気がいりました。でも、実際は怖いことはありません。また、腕は総じていいのではないかと思います。なお、着替えは用意されていません。服は脱いでも、脱がなくてもかまいません。
 按摩の仕方の基本はどの人もたいてい同じです。まず、「側躺」で左右を首・肩から脚まで、次に「爬著」(うつ伏せ)させて背中と腰、最後に「座起来」させ頭・首・肩を揉み、叩いて終わります。人によって仰向けの姿勢やストレッチを入れたりします。それぞれ十八番があるようで、今日は誰が出てくるかと楽しんでいます。先日、初めて入ったところはちょっと変わっていました。仰向けから始め、上半身から下半身まで揉んでいきます。お腹を揉まれたのは初めてでした。その後、うつ伏せになり上から下まで、最後に座らせて揉むというのは同じです。
 足裏マッサージ主体の店は民権東路辺りに多いようですが、台北の至るところにあります。こんなに増えたのは最近のことではないでしょうか?家の近くでは微風広場の中に一軒、その後、微風広場の近くに呉神父系が一軒できました。呉神父系は30分600元が相場だと思います。全身もたいていあり、確か1時間1000元が相場だったと思います。最近、行っていないので記憶があいまいですが。
 微風広場の中にある按摩屋は店内が明るく、きれいです。その分、ちょっと割高です。足裏は30分700元です。でも薬湯浴も付き、最後に蒸しタオルで足をくるむのがとても気持ちがいいので「合算」だと思います。全身はさらに割高で40分1000元です。でも時々、気分転換のため、利用しています。うまく師傅に当たると、これはかなり効きます。ここにはカッピングもあります。カップを当てて、中の空気を抜き、肉を吸い上げるあれです。ご興味のある方は挑戦してみて下さい。でも、痕が暫く残ることは覚悟して下さい。肩から腰にかけて赤黒い円形が並ぶことになります。通常、1週間くらいで消えると言われましたが、わたしは新陳代謝が悪いのか、全部、消えるまで2週間かかりました。
 ところで足裏マッサージについてはかねがね疑問があります。どう考えても肉の薄いところはいつ揉んでも痛いと思うのですが、痛くないこともあるのでしょうか?そういうところに限って「悪い」と言われるとちょっと悲しかったりします。
 最後に林森北路系です。相変わらずけばけばしく、ちょっと入るのを躊躇われますが、よく見ると、女性客歓迎と書かれていたり、料金表も出ていたりと健全路線、明朗会計になっています。まあ、訊けばいろいろと出てくるのかもしれませんが。料金は1時間1000元が相場ですが、90分以上が基本のようです。営業時間は午後から夜通し、翌朝までです。
 林森北路系の特徴は天井の鉄棒につかまりながら背中を踏んづけてくれることです。それから蒸しタオルを山のように背中に積んでくれます。でも、その分、按摩そのものはちょっと甘いかなという気がします。メインのコースと並行して、足裏などいろいろとオプションを付けることができます。わたしは顔のマッサージをけっこう気に入っています。顔がすべすべになるのも悪くないのですが、それ以上にとてもリラックスできるので。先日、行った店では時間が早かったため、顔のマッサージをする人が出勤前で少々残念でした。
 以前、行っていたところは按摩をするのはみんなおばさんでしたので、そういうものかと思っていましたが、この間、行ったところは若い女性でした。しかも、けっこう露出度の高い服を着て。することはおばさんと変わりはないのですが。
 さて、以上、わたしが台北で見聞きした話ですが、先日、淡水に行き、所により特徴があることに気が付きました。淡水駅を出て、淡水河沿いから一本入った道に按摩屋が並んでいます。そのどこもが首、手、足と按摩のばら売りをしていました。前に聞いたことがあったのですが、まさか淡水中でそうなっているとは思いませんでした。これも一種の「垂直分工」かもしれません(これを聞いて笑えたら台湾経済のプロです)。他の土地にも独特の按摩文化があるのでしょうか?
 按摩についてはわたしより通の人がいるに違いありません。何か耳寄りの情報があれば、是非、教えて下さい。




第16回 生李登輝さんと黒い川(2002年11月12日)

 前回の「台北便り」は歪曲して解説する人がいるらしく、わたしの日本の職場で妙な尾ひれがついて話題になっているようです。今回は真面目な話にしましょう。

 ついつい会議ネタが多くなりがちですが、今回も2つの会議が題材です。3週間以上、経ってしまいましたが、はじめに群策会(念のため、説明しておきますと李登輝前総統を董事長とするシンクタンクです)のシンポジウムについて書いておきましょう。シンポジウムは10月19日と20日の2日間、新生南路の公務人力発展中心で開かれました。テーマは「邁向『正常国家』」でした。開会式の後、「国会改革」、「経済振興」、「教育改革」の3つの分科会に分かれて議論が行われ、2日目の午後の後半、全体討論が行われました。わたしはずっと経済の分科会に出ていました。
 分科会での報告は、それぞれについてタスク・チームが組まれ、練り上げられたものでした。事前に世論調査も行っています。なかなかプログラムが出てこないので、あまり準備ができていないのかなあと思っていたのですが、おそらくコメンテータなどが決まらなかったのでしょう。
 それから事前に届いたプログラムには司会と報告者の名前だけが書かれていました。「経済振興」組に関する限り、年配の人ばかりでしたので、李登輝さんのお友達ということこういうことになるのかなあと思っていましたが、当日、コメンテータの顔ぶれをみると年代も、バックグラウンドも幅が広がっていてよかったと思います。もっとも基本的には本土派の範囲から外れた人は見当たりません。プログラムは本土派の論客の名簿とも読めます。経済では黄天麟総統府国策顧問(元第一商業銀行董事長)、陳博志台湾大学教授兼台湾智庫董事長、王塗発台北大学教授、呉栄義台湾経済研究院院長等々、その筋ではお馴染みの方々です。今回は彼らが一同に会し、なかなか圧巻でした。
 実際のシンポジウムの感想ですが、まず、初日の開会式で李登輝さんが入ってくる場面がとても印象的でした。会場にいる人が一斉に立ち上がり、拍手で出迎えました。とても敬愛に充ちた拍手でした。本土派の人たちの李登輝さんに対する思いはこういうものなのかと実感できました。TVから流れてくる刺々しいバッシング報道とはえらい違いです。
 次に台湾語の比率がやはり高いですね。「経済振興」組は比較的、少なかったようですが、それでも中国に関するセッションでは、議論が白熱して半分以上、台湾語になってしまいました。「国会改革」組に出た人の話では、議論のほとんどが台湾語だったということです。全体討論も半分強が台湾語でした。この時、李登輝さんの尖閣列島についての発言があったのですが、残念ながら全て台湾語だったため、ほとんどわかりませんでした。日本で何年か習い、この8月からまた台湾語を習い始めているのですが、まだまだ全然役に立ちません。
 そんな感じですので、ついついエスノセントリズムに偏った発言も出てきたりするのですが、李登輝さんはすかさず「不要再提省籍問題」と返していました(これは「国語」でしたので、聴き取れました)。この辺りのバランス感覚は依然、健在のようです。
 議論の中身についてお知りになりたい方は、群策会のサイト(http://www.advocates.org.tw/)をご覧下さい。やはり議論の軸は中国ですね。「中国」と「グローバリゼーション」のセッションで中国が話題の中心になるのは当然ですが、金融のところでも資金の流出の問題に関連して出てきます。
 議論の中で印象に残ったのは、本土派の中にも対立点があることです。一つは、最近、国会などでも議論されている農会・漁会の不良債権処理の問題です。財政部の考えは基本的には「竹中」的です。経済学者もそちらを支持している人が多いと思います。これに対して、当日、陳希煌前農業発展委員会主任委員が来ていて、反対の意見を述べていました。もう一つの対立点は環境問題です。財政のセッションで原子力発電を支持する発言が出ると、王塗発教授がすかさず反論していました。また、別のセッションでは化学業界の人からプラスチック袋の使用の制限を批判する発言が出ていました。
 ところでこの王塗発教授は、「経済振興」組で大活躍でした。4つのセッションのうち、「金融」と「中国」のタスク・チームに入っていました。ちなみに次に紹介する環境NGOの会議でも報告しています。本土派・環境保護派の急先鋒として注目される人物です。

 続いて11月1日から3日にかけて行われた「アジア太平洋NGO環境会議」についてお話しましょう。主催したのは海洋台湾など台湾の団体及び日本環境会議など外国の団体や国際団体です。場所は高雄の中信飯店でした。
 わたしは11月1日の夜に定例研究会があったため、2日の朝から参加しました。会場に入ると壇上に陳水扁総統がいて驚きました。事前のプログラムには書かれていなかったのです(ここのプログラムもなかなか出てきませんでした)。謝長廷高雄市長の応援のついでかと思ったのですが、その後の新聞、TVの報道を観るとすぐに台北に帰ったようですので、わざわざ会議のために来たのでしょう。なかなか正式の外交関係を結べない中、NGOの間の交流を重視しようという台湾の姿勢がうかがえます。
 会議の中身については、眠かったのと、全て苦手な英語で行われたのとで、当日は朦朧としながら聴いていました。ただ、後から振り返ってみると、3日の午前に行われたSession 4-B, “Community Education”がなかなかよかったと思います。このセッションは4つの報告全てが台湾からのものでした。環境関連のNGOがコミュニティ教育というテーマに関連させながら、それぞれの活動を紹介していました。台湾の環境保護運動が草の根の地道な活動に変わってきたことがよくわかりました。
 台湾の環境問題というと、10年あまり前ですと、もっぱら過激な「自力救済運動」が注目されていました。デモ行進や座り込み、果ては工場に乱入して設備を破壊しようとしたことまでありました。その後、いつの間にかそのような話はあまり耳に入らなくなっていました。しかし、たまたま読むことになった何明修氏の博士論文には、それは環境保護運動が衰退したのではなく、戦略の転換を行った結果であると書かれていました(何明修「民主転型過程中的国家與民間社会:以台湾的環境運動為例(1986-1998)」国立台湾大学社会学研究所博士論文、2000年。これはとてもいい論文です。台湾の環境問題や社会運動に関心のある方には、是非、ご一読をお勧めします)。今回の会議で実感することができました。
 2日間の会議の後、4日、スタディ・トリップがありました。墾丁コースと台南コースがありましたが、わたしは後者に参加しました。まず汚染された河川に連れて行かれました。気温が高くなかったせいか、昨年、見た東莞の川ほど臭いませんでしたが、色は真っ黒でした。台南の河川の汚染は十年ほど前に故秋山紀子先生と見て回ったことがあります。あの時に見た川も墨汁のようでした。場所は同じではないでしょうが、どうもこの間にほとんど改善されていないようです。これはちょっとショックです。環境問題についてこれだけ話題にされ、また、一方では重要な汚染源の養豚業が口蹄疫で大打撃を受けたというのに。
 その後、植物を利用した水の浄化、塩田跡の保護区域、水銀とダイオキシンに汚染された工場跡地、現在、中止されている七股の埋め立て予定地と回りました。最後に日没ぎりぎりになってしまいましたが、黒面ヘラサギの棲息地に辿り着き、予定を終えました。黒面ヘラサギは七股の工業団地反対運動のシンボルであり、また、重要な根拠です。少しの時間しかいることができませんでしたが、夕暮れの干潟はとても風情がありました。

 最後に選挙の話を少し。というわけで高雄に行ったわけですが、ご存知の通り、高雄の街は選挙戦真っ最中です。今回の選挙は結果が見えているので盛り上がりに欠けていると言われていますが、高雄は台北よりは旗やら、看板やらが目立つように感じました。市議会議員選挙の方が激しいのかもしれません。それで中でも目を引いたのが、「アイドル系」とでも言えるような女性候補者たちです。わたしが確認した限り、3人いました。そのポスターはまるでアイドル歌手のCDの宣伝のようです。なかでも一人の服装は中国の伝統的な衣装と言えなくもないのですが、どちらかというとゲームの中のキャラクターのようで、「コスプレ系」とでも言いたくなります。
 おそらくこれは林岱樺効果です。彼女は昨年の立法委員選挙では、高雄県で王金平院長を遥かに上回る得票で「高票当選」しました。「アイドル系」候補者たちは、おそらく彼女にあやかって二匹目、三匹目のどじょうを狙っているのでしょう。結果が注目されます。
 ちなみに昨年、民進党の選挙観察団に加わって高雄の集会を観に行った時、当然、林岱樺候補者もいました。へらへらと握手をしてサインをもらっている不心得者たちもけっこういました。わたしはそういう品のないことはしなかったのですが、ちょっぴり後悔していたりもします。




第17回 年の暮れにあれこれ考えたこと(2002年12月31日)

 今年もいよいよ最後の日を迎えました。少々、ご無沙汰してしまった「台北便り」ですが、年内ぎりぎりのところでもう一本、書いておきましょう。
 台湾ではご無沙汰している間に、農民の反発によって金融改革が頓挫し、台北市と高雄市の市長・市議会の選挙が行われ、その前後にいろいろと動きがありました。台湾は人を飽きさせません。現在でも高雄市議会の議長をめぐってすったもんだしています。それにしても安鋒の破綻で朱安雄の政治的な命脈は断たれたと思っていたのですが、まだ力を残していたとは。地方派閥のしぶとさを思い知らされました。
 高雄そして鉄鋼と言えば、中国鋼鉄の董事長の突然の解任もありました。解任された郭炎土氏には、彼が燁隆にいた頃、一度、訪ねたことがあり、またそのうちにと思っていたので少し残念です。これを機に彼が追い落とした前の董事長、王鍾渝氏のように郭氏の本が出てくれるといいのですが。面白かったのは、おそらく以前は必ずしも仲が良くなかった趙耀東氏ら元董事長たちが、今回は挙って郭氏を支持していたことです。よくいえば自主独立、政府から見れば言うことを聞かない中国鋼鉄の企業文化の強さが現れたのか、彼らにとって本当の敵は民進党政権ということなのか。

 さて、わたしの滞在期間も残すところ半年となりました。さすがに最近は少し焦っています。秋口までアジ研の英文機関紙Developing Economiesの台湾特集の編集に思いのほか時間をとられていたことが(ここは少し宣伝が入っています)、研究が進んでいない原因の一つですが、それも言い訳ですね。やはり今年の前半の気の緩みがたたっています。Developing Economiesも既に刊行されましたので、言い訳もできなくなりました。今の気分は夏休みでいうと8月25日くらいでしょうか。
 それで何をしているかというと、半導体やパソコンといったいわゆるハイテク産業の調査・研究です。この分野については既に何本か論文を書いたことがあるのですが、それをリファインして、まとめて本にするというのが、台湾に滞在しているそもそもの目的でした。具体的な研究活動は通常どおりです。つまり、文献資料を集めて、整理し、読むということと、インタヴューです。文献は雑誌記事本面については「助理」が集めてくれていますし、本は自分で買い集めたものがかなりあるので、あとは読むだけです。そうそうそれに山になっている未整理の新聞記事を片付けなくては。
 問題はインタヴューなんですよね。わたしの場合、主たる対象は企業や企業家です。アジ研に入って以来、10数年、企業へのインタヴューを続けてきましたが、気持ちの上でだんだんとつらくなってきています。研究者とのインタヴューは互恵的ですので、つらさはありません。政府など公的機関にとってその活動を説明することは仕事の一部ですから、感謝はするものの、申し訳なく思う必要はありません。しかし、一般の企業はわたしのような者に会う義務はありませんし、大方の場合、会っても彼らに直接のメリットはほとんどありません。つまり、彼らに負担ばかりかけることになりがちです。実際、何のつてもなくインタヴューを申し込んでも、十中八九、断られます。だから第14回で紹介した半導体設計会社のように、あちらからどうぞいらして下さいと誘っていただけるようなことがあると、手を合わせて拝みたくなります。
 それに加えて現在の台湾の研究状況があります。1980年代後半にわたしが台湾研究を始めた時と比べると隔世の感がありますが、今では台湾の人による台湾研究が実に盛んです。その一環として台湾の産業や企業に関する研究も活発に行われています。当然のことながら、それにともなってたくさんの研究者及び学生が企業に対してインタヴューやアンケート調査を行っています。特にわたしが課題としている半導体産業はこの10年の花形でしたから、研究者の人気がとても高い部門です。知っているだけで主なところをあげれば、経営学では政治大学の呉思華教授、社会学では台湾大学の陳東升教授、地理学では台湾師範大学の徐進鈺副教授といます。そのほか、ちょこっと手を出している人まで数えればきりがありません。そのほとんど全ての人がインタヴューをしようとするわけですから、企業からすればうんざりしていても責めるわけにはいきません。
 さらに頭を痛めているのは、わたしの今の最大の関心は1970年代に政府が行った初期の半導体の技術導入プロジェクトにあるのですが、これに参加した人の多くは今では半導体産業の元老級の人物、つまりは台湾産業界の重鎮となっていることです。旺宏電子の胡定華董事長、聯華電子の曹興誠董事長、台積電の曽繁城副総執行長などなどの方々です。そもそも一般的に、ピンポイントで特定の人にインタヴューするというのは、企業を訪ねるよりもさらに難しいのですが、こういう偉い人に会うのはほとんど絶望的です。忙しそうですからね、彼らは。曽氏には台積電が設立されたばかりの頃にお会いしているのですが、今から思うと本当に貴重な機会でした。当時は詳しいことは何も知らず(台積電がファウンドリー専業ということすら知りませんでした)、あまり突っ込んで訊けなかったことが惜しまれます。
 幸い、こういう人たちに対しては、新聞や雑誌がちょくちょくインタヴューをしていますので、それを使って何とか間に合わせようかと思っています。でも、新聞や雑誌が訊きたいことを全て訊いているわけではないですし、また、信頼性の面で必ずしも当てにならないところがありますので、自分でインタヴューするのがいちばんいいことには変わりはないのですが。
 だいぶぐちっぽくなってしまいました。こういう問題は産業研究、企業調査をやる場合の宿命です。社会学研究所で仲がいい鄭陸霖とも、先日、このことについて話しました。彼の博士論文は台湾の靴産業に関する研究です。その中には調査の際の苦労と、それゆえの面白さが生き生きと書かれています。彼との話の中で、そういえばナイキにはどうやってアクセスしたんだということを尋ねました。彼はよくぞ問うてくれたとばかり、まず、はじめにイントロとして、3回、いろいろなつてからチャレンジして失敗した話をしてくれました。そしてチャンスはまさに偶然だったそうです。ある時、ナイキに納品している台湾企業を訪ね、インタヴューが終わった時、これからバイヤーと食事に行くという話を耳にしました。その企業はナイキ専属の協力メーカーだったので、バイヤーとはナイキに違いないと思い、同じ車に乗せて欲しい、そして食事に同席させて欲しいと頼み込み、ナイキの人とわたりをつけることに成功したそうです。そんな彼でも博士論文を書き終え、台湾に帰ってCATVの調査をした後は、大掛かりな調査はお休みしています。
 というように、わたしも気が重くてなかなか腰が上がらなかったのですが、さすがに残りの時間を見てそうも言っていられなくなりました。細い糸口を一つ一つ手繰り始めているところです。もしこれを読んでいる方の中に、紹介できる企業や人がいるという方がいらしたら、どうぞご連絡をお寄せ下さい。

 ところで今月は学会の月でした。14日と15日に社会学会が東海大学で、政治学会が中正大学で開かれ、22日には経済学会が台湾大学で開かれました。このうち、わたしが顔を出したのは社会学会と経済学会です。経済学会は一日だけでしたが、報告が少なかったわけではありません。同時に6つの分科会を走らせるという荒業で、一日で終わらせたのです。
 カルチュラル・スタディーズの学会が別に同じ東海大学で同時に開かれていたため、社会学会の報告のテーマは経済社会学関連に集中することになりました。わたしにとって関心のある報告ばかりが集まることになり、ちょっと幸せな気分でした。
 社会学会の翌週、経済学会に出ましたが、社会学会の報告の方により親近感を感じ、経済学と社会学の間の自分の位置を改めて感じました。しかし、親近感と同時に社会学の研究に対しても自分との違いを確認しました。一言で言えば、自分の研究を表すのに最もふさわしいのはやはり地域研究なんだなあと。
 創立大会のパネル・ディスカッションで、わたしが経済学と地域研究の融合の可能性を報告したことを覚えていらっしゃいますでしょうか。あの場で述べたことをひっくり返すつもりはないのですが、最近はその難しさをより強く感じています。特に研究を行い、論文を書くという立場に立つと難しさがいっそう際立ちます。研究の課題は一方では現実を観察し、その仕組みを理解しようとすることから、他方では既にある分析枠組みと現実を照らし合わせることから生まれるのだと思います。2つの思考過程は研究者の頭の中で縦横に絡まりながら進行します。しかし、どちらに寄っているのかということは、個々の研究者あるいは論文において確実にあるし、またはっきりさせなければいけないでしょう。社会学会の報告の多くが分析枠組みの体系の方に重きを置くものでした。一方、わたし自身の研究は現実の観察に重点があります。学会ではこの違いの大きさを改めて感じました。
 それはけして劣等感ではありません。確かに報告者が主として欧米流の様々なアプローチを用いながら台湾社会に切り込む姿は羨ましくもあるのですが、そこには弱点もあり、それゆえ自分の居場所も再確認できたからです。既存の分析枠組みに重点を置く場合、往々にして現実を丸ごとじっくり観察することがやや疎かになり、そこから見落としが生じます。例えば、上で述べた半導体についていえば、陳教授はネットワーク論から、徐教授は産業集積論的なアプローチから研究していますが、それだけでは台湾の半導体産業の発展に関する重要な論点は覆い尽くせません。
 既存のアプローチに重点を置いた場合、もう一つ、生じやすい弱点は、アプローチ自体が目的になってしまうことです。しかし、あるアプローチが生まれるにはそれなりの背景があったはずで、それを忘れて使うと地に足が着いていない研究になりがちです。例えば社会学会の報告の中には、1980年代に生まれた国家論アプローチを用いたものがありました。このアプローチの源流の一つには、経済発展に対する国家の役割をめぐる規範的な問題意識があったはずです。しかし、報告を聴きながら、アプローチがマニュアル化され、元々の出発点は置き去りにされているのではないかと思うことがありました。
 それからこの点は、台湾で時々話題に上る社会科学の「本土化」という問題ともかかわります。ここでの「本土化」が何を意味しているかは必ずしも明確ではありませんが、ともかくその答を見つけようとするならば、研究の重点を欧米生まれの分析枠組みから台湾の現実の観察にもう少し移動した方がいいだろうなと思いました。言い換えれば、今のように大方の研究が欧米のアプローチに傾斜している限り、「本土化」は望めないのだろうと。
 そうして見ると、高承恕教授率いる東海大学グループの研究はもっと評価すべきなのだろうと思いました。実はこれまで、わたしは彼らの研究に対して、膨大な調査を行っている割には今ひとつ面白い成果が出ていないと、あまり評価していませんでした。しかし、台湾の現実に即しながら何か新しいことを言おうとすることの難しさを考えれば、そのような評価は些か酷だし、また早計であると思い直したわけです。今回、会場が東海大学だったせいもあってか、彼らのグループからの報告がたくさんありました。今は証券市場の研究に取り組んでいるようです。難しそうなテーマですので、果たしてどのような成果が得られるのかちょっと心配になりますが、チャレンジングな姿勢には素直に敬服したいと思います。

 最後に一つ訂正とお詫びがあります。前回の冒頭、前々回の内容が「職場で妙な尾ひれがついて話題になっている」と書きましたが、そういうことはなかったようです。あることないこと伝えてくる人が2人もいて、すっかり本当だと信じてしまいました。お騒がせしてすいません。

 それでは、みなさま、よいお年を。




第18回 日台のエチケットについて(2003年2月8日)

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
 1月25日から2月3日まで、春節にかかる形で一時帰国していました。おかげで1月中は「台北便り」を書くことができず、また、一月一本のペースが崩れてしまいました。

 日本に帰って改めて感じたのは、日本と台湾の間の煙草に対する許容度の違いです。日本にいる間、空いた時間にコーヒー・ショップで本を読もうとすると、煙草を吸わないわたしは、たいてい煙に悩まされることになります。運良くスターバックスがあればいいのですが、大方のコーヒー・ショップは禁煙スペースがありません。あっても申し訳程度の広さしかありませんし、そもそも仕切っていないところが多く、あまり意味がありません。
 一方、台湾はちょうど反対になっています。コーヒー・ショップは禁煙のところが多いですし、喫煙のスペースはあっても小さめで、多くの場合、仕切ってあります。
 台湾も昔は日本と変わらなかったと思うのですが、アメリカの影響でしょうか、いつの間にか分煙化が徹底されています。これも事に対する台湾社会の身軽さの、そして日本社会の腰の重さの現われなのでしょうか。

 バランスのため、台湾の習慣のうち、気に入らない方も一つ指摘しておきましょう。わたしは映画は嫌いではないのですが、ついつい面倒臭くてなかなか観に行きません。しかし、中学から高校にかけて読み耽った『指輪物語』の映像化は見逃すわけには行きませんので、先月、第二部を観に行きました。映画の本編が終わり、心地よい疲れに浸ろうとすると、忘れていた台湾の悪習にたちまち余韻を打ち破られてしまいました。館内はパッと明るくなり、他の人たちは一斉に立ち上がってエンド・ロールを無視して(「エンド・ロール」というのは、最近、教えてもらいました)帰り始めました。わたしはむっとしながら椅子にふんずりかえっていたのですが、周りで掃除を始められ、しまいにはエンド・ロールも途中で切られてしまったため、あきらめて帰ることにしました。
 日本でもエンド・ロールを観ないで帰る人は少なくないでしょうが、台湾ではまず全員観ないのではないでしょうか。しかし、これはちょっとせっかち過ぎるように思います。そういえば、KTVで歌の部分が終わると演奏が続いていても「切歌」を押してしまうという技をはじめて見たのも台湾でしたが。ともかく、滅多にはいないのかもしれませんが、余韻を楽しみたい人のためにいきなり館内を明るくしたり、エンド・ロールを途中で切ったりするのはやめてもらえないものでしょうか。

 さて、話は変わりますが、中央研究院の中山人文社会科学研究所、略称、社科所の解体がいよいよ本決まりになったようです(ところで、何故、「社科所」なのでしょうか?人文系の人はこの呼び名に不満はなかったのでしょうか?「社会所」ともまぎらわしいし)。社科所は専属の研究員をほとんど置かない「研究センター」に改め、現有の研究員はそれぞれの専門にしたがって他の研究所に転属させるという方針です。昨年12月25日に李遠哲院長からその旨、社科所の研究員に通達されました。
 詳しいことはわかりませんが、はたで見ていても社科所の解体自体は避けがたかったと思います。社科所は「歴史と思想」、「社会研究」など五つの組に分かれていますが、組の間で連携が取れていたようには見えません。同じ日の同じ時間に2つの組が別々に研究会を開いたりしていましたから。
 ただ、それでも今回の措置には引っ掛かるところがあります。民俗学研究所の林美容、社会学研究所の張茂桂、近代史研究所の陳儀深の三氏は、早速、疑念を表明しています(『中央研究院週報』第905期)。三氏の主たる論点は、今回の措置が院内の十分な議論を経ていないのではないかという不満です。
 それとは別にわたしは、措置の背景にある考え方にちょっとした危うさを感じます。社科所の解体は「単一の学問に対して研究所を設置し、学際的な研究に対しては研究センターを設置する」という原則にしたがっています(上に述べましたように、研究センターには専属の研究員はほとんど置かれません)。つまり、経済学、社会学、政治学といった学問領域への純化を進めることへの強い志向と、学際的研究とはその寄せ集めであるという発想です。
 前回の続きのようになりますが、こうした考え方は少し危ないところがあります。確かに今日の学問が経済学、社会学、政治学などに分化しているのはある程度、現実を反映しているわけですが、一方で実際の社会は複雑で曖昧な面も多分に持っています。だから、学問の側もある程度、曖昧さを残しておいた方が現実に対応しやすいと思います。しかし、上の原則にはそのような発想は欠けているように見えます。
 林氏らの疑念に対する李院長の回答では(同じく『中央研究院週報』第905期)、院の研究水準の向上が強調されています。それはけっこうなことですが、それが各学問領域に純化し、その秩序の中で地位の向上を目指すこと、つまり具体的には如何に国際的な学術雑誌に掲載される論文数を増やすかということに矮小化されてしまうと、現実との乖離が生じかねません。それは社会科学のそもそもの志にもとることになるでしょう。

 来週から台湾も完全に日常に戻ります。また頑張りましょう。




第19回 甘い台湾(2003年3月13日)

 まずは一昨日、日帰りで台南に行った話から。台南に行ったのは、南部科学工業園区、略称、南科(DRAMメーカーの南亜科技も同じ略称なのでとても紛らわしいです)にある半導体設計会社の総経理を訪ねるためです。南科に行くのは今回が初めてでした。
 南科は台南といっても、台南県の善化と新市に跨って広がっています。鉄道で台北から行くと4時間以上かかるので、飛行機で行くことにしました。台南の空港は南科とは反対に市の南側にあるので、これもけして便利ではありません。
 飛行機を降りると、台南はやはりぽかぽかしていました。その前日まで台北は寒い日が続いていましたので、台南の穏やかな暖かさはとても気持ちよかったです。
 台南の空港はずいぶんときれいになっていました。前回はもう数年前なのではっきり覚えていないのですが、とても同じ場所とは思えません。特にお手洗いがきれいなのはうれしかったです。
 空港からいったんタクシーで台南の駅前に出ました。はじめは南科に行くバスでもないかと思ったのですが、あいにく見つからず、鉄道で最寄りの善化まで行くことにしました。2時のアポイントメントでしたが、1時台に台南から善化に行く電車は一本もなく、12時台も僅か2本です。仕方なく12時27分の各駅停車に乗りました。当然、善化にはずいぶんと早く着きましたが、予想通り駅前にはお茶を飲むようなところはありません。セブンイレブンで飲み物を買って、駅の待合室で適当に時間をつぶしてから、タクシーで南科に向かいました。タクシーの料金は150元で統一されているようです。時間はだいたいカラオケ2から3曲分です。帰りのタクシーにカラオケが付いていて、歌わされました。「花」はよかったのですが、「Say Yes」はやはり高音のところがちょっと。
 南科には既に台積電や奇美電子の大きな工場が建っていますが、まだ空き地だらけです。前途が不透明だった1980年代の新竹の科学工業園区を思い出しました(ちなみにこちらの略称は竹科)。南科も何時の日か竹科のように工場で埋まる日が来るのでしょうか。まさにそこに台湾経済全体のこれからがかかっているわけですが。
 それから一時もめていた高速鉄道ですが、確かにすぐ横を走るようになっています。現在、マイクロン・レベル、やがてはナノ・レベルとなる精密加工にどの程度、影響があるのかは素人でわかりませんが、少なくともあそこで働く人、生活する人はちょっとしんどいかもしれません。わたしが訪ねた会社が入っている建物は線路のすぐ脇にあり、かなりたいへんなことになりそうです。きっと高速鉄道は防音・防振のための壁に覆われることになるのでしょう。高速鉄道の車窓から南科のハイテク工場群が見えるということは残念ながらなさそうです。
 帰り道、もう一度、台南市に戻り、新光三越の台南新天地に寄りました。噂には聞いていましたが、確かに大きかったですね。台北の信義店新館もけっこう大きいと思いますが、台南新天地と比べるとミニチュア版という感じがします。かと言って金華城のような馬鹿馬鹿しさは良くも悪くもなく、落ち着いています。一見の価値はあると思います。

 さて、ついつい書きそびれていたのですが、先月、日本の欧風カレーのレストラン、オーベルジーヌが台湾に進出していることを見つけました。中国語名は茄子咖哩です。昨年末、忠孝東路と大安路の角にできた、レストランばかりが入っているビルの中にありました。もっともそこが一号店ではなく、既に南京東路には2店、先に出店していたようです。
 オーベルジーヌは丸の内線の四谷三丁目駅の近くにあって、わたしにはとても懐かしいレストランです。アジ研がまだ市ヶ谷にあった頃、よく行きました。夜、ちょっと残業した後、アルコール抜きで食事だけしたいと思うと、なかなか適当なところが見つからないのですが、オーベルジーヌは四谷三丁目の角にある木屋うどんとともに格好の食事の場所でした。
 それで味はどうか、台湾風に変わっていないか、恐る恐る食べてみましたが、わたしの舌の記憶力の範囲では昔に食べた味と変わりませんでした。日本のオーベルジーヌの楽しみの一つ、焼いたジャガイモが付いていなかったことは、少々、残念でしたが。
 ただ、メニューを見ると、日本にはおそらくなかったと思われるものがあります。カルビ焼きセットや鳥の照り焼きセットは確かなかったような。オーベルジーヌなりの台湾化なのでしょう。

 この際に食べ物の話をちょっとまとめてしてしまいましょう。まずは味の話から。台湾の人に言わせると日本の料理はしょっぱいということですが、日本人からすると台湾の味の特徴を一言で言うと甘いということではないでしょうか。マヨネーズは有名ですよね。わたしもあれはちょっと「不習慣」です。人様の味覚にとやかく言う気はないのですが、伊勢海老があのマヨネーズで和えられていたりするとちょっと悲しくなります。それからサラダのドレッシングも甘いサザンアイランドしかない所が多いのではないかと思います。
 台湾の味の最近の代表はトマト・ジュースでしょう。知らずに初めて買って、一口、口に含んだ時、戸惑ってしまった日本人の方は多いのではないでしょうか。わたしも捨てるのももったいなく、当惑しながら全部、飲みました。その後は一度も買っていません。トマト・ジュースだと思わなければまずくはないのですけどね。
 ついでに昔からの疑問を一つ。台湾のステーキのソースは大体何処へ行っても甘い「蘑菇醤」と辛い「黒胡椒醤」しかないのはどうしてないでしょう。この問題は、何故、八徳路は斜めなのかという問題とともに昔から頭を離れません。何が不思議かって、工業製品ではあれほどちょこまか、意味があろうがなかろうが、とりあえず差別化を試みる台湾の人が何故か、ステーキの2つのソースにしろ、またサラダのサザンアイランド・ソースにしろ、こと食べ物に関しては一つのパターンを固守し続けていることです。
 次に外食産業の台湾化について。台湾には日本を含めいろいろな国の外食産業が進出していますが、オーベルジーヌが日本にはないメニューを加えているように、それぞれ台湾化を試みているようです。典型は吉野家でしょう。日本の吉野家は牛丼一筋ですが、ご存知の通り、台湾の吉野家には豚丼も鳥丼もあります。ちょうどアジ研に入って台湾に来るようになった頃、吉野家も台湾に出てきて、はじめは牛丼だけで、しかも値段は当時の周囲にある台湾の伝統的な外食と比べると割高な感じでしたので、どうなることかと思っていましたが、見事に適応しました。華々しい展開を遂げているとは言えませんが、十数年にわたって生き残っているのは立派だと思います。牛丼はお米を除けば日本と味が変わりませんので、わたしも時々、日本を懐かしむために食べに行っています。
 モス・バーガーは味をちょっと日本とは変えていると思うのですが、どうでしょうか。例えば(商品の)モス・バーガーのミート・ソースは日本より甘い気がします。逆に日本の方はやはりしょっぱいような。色も日本のミート・ソースはちょっと黒ずんでいるのに対し、台湾の方はなぜか薄めで、鮮明ですよね。ここ数年、いまひとつパッとしなかった感のあるモス・バーガーですが、台湾の親会社である東元電機がこれから力を入れていくようなことを言っていますので、今後に期待しましょう。
 最近、マクドナルドは台湾でも苦戦しています。少し前に初めて何店か閉鎖しました。それで日本同様、ご飯ものを出すようになりました。第一弾は和風の定食でしたが、マクドナルドはあまり利用することがないので、これは食べそびれてしまいました。第二段は丼ものです。先日、「台北便り」のネタになるかと思って食べてみました。3種類あるうち、食べたのは牛丼です。率直に言って味は吉野家に軍配が上がると思います。歴史の差でしょうか。値段も大差ないので、並んであったら勝てないでしょうね。数ヵ月ごとに変えていくようですので、そのうちヒットが出ることに期待しましょう。
 日本に帰ると台湾の伝統的な外食が食べられなくなるのは残念です。いろいろあるうち、わたしのいちばんのお気に入りは排骨飯です。家の近くの店ですと75元です。揚げた排骨のほかに4品付きますので、野菜も十分にとれます。スープは飲み放題。まさに「うまい、安い、早い」の三拍子です。日本でも食べられるところはあるのでしょうが、あまり一般的になってはいないと思います。日本経済も相変わらず暗雲が垂れ込めたままですが、もし路頭に迷うようなことがあったら、排骨飯の店でも開こうかとも思ったりします。




第20回 まちのつくり(2003年4月30日)

 お久しぶりです。今回の頭は当然、SARSです。先週の中ごろまでは、根拠もなく台湾はうまく感染を防いでいると思っていたら、和平医院の院内集団感染で楽観的な雰囲気は一変し、街は緊張気味です。
  和平医院からの医師や看護婦の逃亡、和平医院からの転院に対する新竹市の抗議、雲林県の医療廃棄物の受け入れに対する抗議と、いかにも起こりそうなことが やはり起きています。うんざりしますが、なかでも新竹市長はお粗末でした。何時、自分のところで感染が広がるかわからない状況で転院の受け入れを阻止しよ うとするのは、天に唾を吐くような超近視眼的愚かさです。さすがに一日で姿勢を改めたようです。
 このような脊髄反射的なパターン化された反応 が、何故、いつまでも繰り返されるのか、社会科学の課題でしょう。また、グローバリゼーションとの関係、政府の対応、社会の同朋意識など、いずれ感染が収 まった後もSARSはたくさんの宿題を研究者や政策担当者に残していくことになりそうです。そうそう忘れてならないのはメディア問題ですね。今日の『中国 時報』の「時論広場」に「咦,葉國興在哪裡?」という一文が出ています。まったく皮肉なものです。
 感染はともかく、身の回りにも影響が出ていま す。昨日、中央研究院では質問票に記入させられました。今日、新竹に行ってきましたが、バスに乗る時は体温を測られました。普段はほとんどマスクは使って いないのですが、バスでは1時間以上、密室に閉じ込められますので、気休めとも思いつつマスクをして寝ていました。おかげで降りる頃には少々気持ち悪く なってしまいました。でも、いちばんの痛手は工業技術研究院が今週から外部からの参観を受け付けなくなったことです。コピーをとることができない資料が あって、最近、毎週、新竹に行って少しずつ必要な箇所をパソコンに打ち込んでいたのですが、当面、お休みです。一日も早くSARSが収まることを祈るばか りです。

 さて、滞在時間が刻一刻となくなる中で、調査の方はかなり忙しくなってきました。そのため、書くネタはいろいろとあるのですが、書く時間がなかなかとれませんでした。というわけで、以下、少し古くなってしまったネタも混じっています。
 3月にある知人の紹介で、台湾のバスのマニア、鉄道マニアの人と会う機会がありました。この知人自身がそもそも鉄ちゃんです。彼らが微に入り細に入り語る台湾は、わたしがほとんど知らない台湾です。人それぞれの台湾があるのだなと思いました。
  バス・マニアは宇井さんという方で、『台湾の高速バス――台湾的国道客運――』という冊子も作られています。なかなか味わいがあります。実用的にもバスを 選ぶ上で役に立ちます。彼のサイトもありますので、のぞいてみて下さい (http://asiabuscenter.fc2web.com/taiwan/buslink.html)。
 宇井さんに最近いいのは阿羅 哈か和欣と聞いたので、3月の下旬に台中に行った時、当初は飛行機で帰るつもりでしたが、試しに阿羅哈に乗ってみました。確かによかったです。まず、待合 室が犬バス(飛狗)や統聯よりいい。それでバスには女性の服務員が乗っています。そういえば1980年代に初めて台湾に来た頃、国光号や鉄道の自強号に服 務員がいたのを思い出しました。しかも、彼女の態度がとてもいいのです。途中ではお菓子と水を持ってきてくれます。お菓子は2種類から選べます。それと座 席。一列2座席のみの総統椅子に液晶テレビは当たり前。テレビはもちろんゲームにもなります。感激なのはさらに按摩の機能が付いていることです。運転も心 なしかやさしい気がします。当然、運賃は少々、高いのですが、飛行機と比べれば大したことはありません。
 新竹と行き来する際によく使う豪泰もなかなか豪華なバスなのですが、残念ながら按摩は付いていません。台中に行く機会はなかなかないのですが、その際には是非また阿羅哈に乗ってみたいと思います。それと和欣も試してみなければ。

  そういうわけで台湾のバス文化に少しだけ開眼したのですが、そう思って見ると台中の朝馬はとても面白いまちだと思います。元々の市街地と高速道路の出入り 口と主要なポイントの位置関係から、始点となっている市街地まで行かずに高速バスに乗るポイントとして発達したと考えられます。つまり、鉄道の駅や昔から の市街地は高速道路の出入り口よりも山側にあるのに対し、台中工業区や東海大学は海側にあるので、朝馬でバスに乗るのが合理的なわけです。新竹の清大前も 朝馬と同じケースでしょう。多くの人の目的地となる科学工業園区は、高速道路の出入り口を挟んで鉄道の駅や市街地と反対側にあります。また、清華大学と交 通大学は高速道路を下りてすぐのところです。
 朝馬がにぎわうのは、それだけ台湾の人が高速バスをよく利用しているということなのでしょうが、 10年位前の朝馬は今ほどではなかったと思います。やはり自由化でバス会社が増えた結果でしょう(もちろん無認可のバスは当時もたくさんありましたが)。 気になるのは高速鉄道が完成した後、どうなるかです。それは高速バスの運命がどうなるかということでもあります。朝馬の繁栄も歴史の一瞬の出来事となって しまうのでしょうか。

 まちの話になりましたが、前回、何故、台北の八徳路は斜めなのかという疑問を書いたことを覚えていらっしゃるで しょうか。先日の台北定例研究会で報告された蘇さんがこの疑問を解いてくたざいました。昨年12月の社会学会の年会でお会いしたときに、博士論文のテーマ が台北市だと聞いて、質問しておいたのです。それで蘇さんの説明ですが、まず、八徳路の東側、基隆路と交わる辺りは劉銘伝が敷いた鉄道の跡だそうです。一 方、西側つまり現在、斜めになっている部分は、日本統治時代に台北市から基隆に行くためにつくられたそうです。
 今月中旬に故宮博物院のフォルモ サ展に行った時、お土産物売り場に台北の1935年頃の地図の複製があって(フォルモサ展とは関係ないのですが)、ついつい買ってしまいました。それを見 ると、今の忠孝東路は杭州南路と交わるところで終わっています。そして、そこから斜めに基隆に向かって、確かに今の八徳路が伸びています。
 た だ、八徳路に関しては、もう一つ、疑問が残っています。何故、復興路と敦化路は八徳路で南北が分かれるのか?けっこう多くの人が誤解しているようですが、 敦化南路、敦化北路は八徳路との交差点から始まります。ですから、わたしの住んでいるところは忠孝東路よりも北にありますが、住所は敦化南路一段です。ち なみに建国路と光復路は、忠孝東路で南北が分かれているはずです。また、蘇さんに訊いてみなくてはなりません。

 続いて自分の住んでいる まちの話。家で仕事をする機会が少なくないので、日本にいたとき以上に、住んでいるところを意識します。二年近く住んで、台北の中心部では大きな道で四方 を区切られたブロックが、ある程度完結した一つの生活空間になっているのだと実感するようになりました。たいていのことはブロック内で済ませることができ ます。
 わたしの住んでいるブロックは北を八徳路、南を市民大道、東を敦化南路、西を復興南路で囲まれています。微風広場があるのは少し特殊なの ですが、それを除いてみても、まず生鮮品は、ブロックの中央を南北に走る道沿いに午前中、市場が立ちます。コンビニは5つあります。パン屋、薬局、本屋、 床屋、クリーニング屋なども一通りそろっています。食事をするところは牛肉麺、水餃子、排骨飯、鵝料理などなど不便はありません。コーヒーショップはス ターバックスとダンテが1軒ずつ。銀行は3つ。病院はやや特殊ですが台安医院が東北の角にあります。郵便局と学校は複数のブロックを対象としているよう で、わたしの住むブロックにはありません。そうそう忘れてならないのは廟ですね。市民大道に面して一つあります。これに実際は微風広場が加わるので、まち の機能はぐんと厚みが増します。
 日本では千葉の船橋で2ヵ所、東京の丸の内線沿いの3ヵ所に暮らしたことがありますが(3歳まで暮らしていた小 岩の記憶はほとんど残っていません)、ポイント、ポイントを線でつなぐように生活の空間を認識していたように思います。あるいは面として感じるとしても、 今のように区切られた方形として感じることはなかったように思います。生活空間のリミットはぼやけていました。
 わたしにとっては2年間の仮の住 まいですので、わかるのは外側から見えるかたちだけです。ここに住み着いている人がブロック内でどのように実際の生活を営んでいるかまではよくわかりませ ん。人類学か地理学でそこまで観察したような研究があるでしょうか?もしご存知の方がいらしたら教えてください。

 台北のまちに関して最 後に一つ。統一グループのプレゼンスは本当にすごいですね。セブンイレブン、スターバックスそれに康是美が統一のグループ企業です。わたしの住むマンショ ンの横の小道と八徳路と交わる交差点は、南西角がスターバックス、北西角が康是美、北東角がセブンイレブンです。1990年代以降、台湾のまちの変化の少 なからぬ部分は統一グループによって演出されたと言えるのではないでしょうか。




第21回 SARS随想(2003年5月21日)

 「随想」などと呑気なことを言っている雰囲気でもないのですが、SARSをめぐるあれこれはいろいろと大脳を刺激します。自分の心の健康のためにも、こ こでたまった感想をいったん吐き出しておきましょう(たぶん飛沫感染はしないと思います。ご心配の方はマスクを着用して、距離を置いてお読み下さい)。

  まず、身の回りの状況を紹介しておきます。感染もせず、隔離の対象にもなっていなければ、それほど大きな変化はありません。もちろん、至る所で体温は測ら れますし、捷運などマスクがなければ利用できない交通機関、入れない建物も増えました。でも、慣れればそれを当たり前のこととして生活をしています。人ご みはできれば避けるようにしていますが、極端に外出の回数が減ったわけでもありません。家にいたくても、相変わらず周囲で改修工事をしているところが多 く、うるさくていられないという事情もあります。ただ、さすがに按摩は我慢しています。これは少しつらいですね。それから、床屋も行かずにいます。わたし でも横と後ろは時々は切る必要があります。少しうっとおしくなってきています。
 気持ちの面では、台湾で感染が急速に拡大していった時は緊張しま した。感染に対する恐れもありますが、それ以上に隔離の対象になる確率が高いので、そのことに対してかなりのストレスを感じました。でも、人は便利にでき ていて、だんだんそれにも慣れちゃうんですね。鈍感になるというか、開き直るというか。そうなったらなったでしかたがないと。というわけで、最近は心持ち も落ち着きました。
 前回の「台北便り」に書きましたように、調査はやはりやりにくくなっています。考えてみると、今回の調査は1999年から 2000年にかけて行った半導体産業の研究の延長なのですが、あの時の現地調査も台湾に入った日が1999年9月19日の日曜日、20日の夜、一日目の調 査を終えて、宿泊先のYMCAでパソコンで遊んでいる時に、ぐらぐらっと来たんです。どうも半導体産業の調査に災難は付き物のようです。前回は結果とし て、出直しの調査を翌年1月に行うまでの間、文献を読む余裕ができてよかったのですが、今回はそのような不幸中の幸いには恵まれるでしょうか。

  SARSの成り行きを見るにつけ、社会の三つのシステムについてしばしば考えます。三つというのは、第一に市場、第二に国家、第三が難しいのですが、伝統 社会ならば農村共同体、現代ならば市民社会あたりを置いておくことが多いでしょうか。最近の流行ですとNPO/ NGOを持ってくるのがわかりやすいかもしれません。ここではとりあえずもう少し漠然と、ある範囲の社会の全体的な利益を守り、高めるような仕組みとでも しておきます。重要なことは、そのためには個人の利益の追求は最大限の水準よりも抑制される、あるいはコストを払うこともあるということです。これをあま り強調しすぎると、危ない世界に入っていきますが、まったく無視するのも愚かです。社会における資源の配分及び成果の分配は、おそらくこの三つのいずれか によって行われるはずです。
 それで問題は、SARSとの戦いにおいてこの三つのシステムがどのように働いているかです。普段は最も偉そうな顔を している市場はあまり出番がないようです。現在の深刻な問題は患者、病院が情報を隠匿しがちなことや、隔離者が逃亡したり、規則を守らないことですが、こ れを市場を使って解決できるでしょうか?これはという答はないように思えます。
 むしろ今のような非常事態では、市場は悪さを発揮します。病院の 情報隠匿の原因は、市場システムを医療制度に導入する程度や方式に問題があったせいかもしれません。また、マスクが投機の対象になったり、偽者や使い古し が出回るのは市場というシステムの弊害を表す典型でしょう。これをめぐっては『中国時報』の寄稿欄で議論がされています。中央大学の張明宗教授が5月15 日に寄せた文章の最後のパラグラフで、マスクの不足は一時的なもので最終的には市場によって解消しうるので、政府の介入は必要ないと述べました。これに対 して、中央研究院中山人文及社会科学研究所(まだあります)の瞿宛文研究員が噛み付き、5月17日に反論を載せています。
 わたしは通常、一般の 経済学者よりは国家の役割を肯定するものの、瞿研究員ほどは強調しないのですが、今回は彼女の方に軍配を上げたいと思います。彼女は幾つかのポイントを指 摘していますが、いちばん重要なのは市場による調整の速度の問題です。確かに少し長い目で見れば、マスクという市場において失敗は生じていないでしょう し、実際、最近は落ち着きつつあります。しかし、伝染病の拡散という事態を前にして、マスクは一時も不足してはいけなかったのです。まがいものの流通も 人々の健康を脅かします。特に、指摘されている通り、マスク等の不足が院内感染の重要な原因だとしたら、事は実に重大です。経済学者の中には均衡に至る過 程を軽んじたり、均衡が瞬時に達成されたりするように考える傾向が見られることがありますが、張教授はそのような思考の欠点を示していると思います。
  というわけで、SARSに対応すべきシステムの主役は国家です。現在までの結果を見る限り、政府(地方政府を含む)がその任務に失敗していることは議論の 余地がありません。台湾の政府がその能力において、深刻な欠陥を抱えていることは明らかです。事が収まれば、具体的な問題点が何処か、どうすればそれを克 服できるのか、真剣な議論を行う必要があります。ただ、それについてきちんと検討する準備がわたしはまだできていませんので、ここではここまでにしておき ます。流言蜚語が広まりやすい状況の中、いい加減な議論は慎もうと思います。
 それとは別に、政府に重大な責任があるにしても、政府を責めるだけ でいいのかという問題もあります。話の糸口として、上の張教授の文章をもう一度、取り上げましょう。あの文章のいちばん言わんとしているポイントは、巷間 では隔離に従わない人のわがままを非難する向きがあるが、そのような行動は台湾経済の活力と表裏一体なのだから許容すべきであり、むしろそれをコントロー ルできない政府こそが責められるべきだということです。このような理解の仕方も経済学者の特徴がよく現れています。人は利己的で、そうであることが結果的 には社会全体にとってもいいことなのだから、利己的であることは肯定すべきだという考え方です。確かに人はそういう面を持ち、それを無視して社会を考える ことは一種のユートピア論で、現実においては重大な問題を引き起こしかねません。
 しかし、一方で人はそれだけではないはずです。自分の利益の一 部を犠牲にしても、自分を取り囲む社会全体の利益を優先しようとすることも人の一面です。そして、それを促すような仕組みを整え、社会の中に組み込めば、 利己的な行動のみを前提にするよりも、効率も公正性も上がるはずです。これが初めに述べた第三のシステムです。通院や接触の履歴を正直に伝える、隔離に 粛々と従う、感染者、隔離者及びその家族を差別しないなどは、政府の命令以上にこのような動機付けや仕組みに支えられることが望まれます。職業倫理も第三 のシステムの重要な要素の一つです。
 しかし、今回のSARSをめぐっては、台湾ではこのシステムもどうもかなり脆弱なのではないかという感想を 抱かせます。確かに政府には問題がありますが、それを短期的に改善できる範囲は限られています。だからこそ、第三のシステムがそれを補完することが期待さ れるのですが、むしろ政府の不足気味の能力をさらに費消させているように見えます。もちろん、大多数の人は事に当たって然るべき行動をし、なかには英雄的 な利他的行動をとる人もいるのですが、残念ながら少数の不心得者たちにより、全体としてのパフォーマンスを損なってしまっているようです。
 上に 述べた政府の問題とともに、この第三の仕組みについても、いずれ突っ込んだ議論が必要です。その際、願わくば、台湾政治の主軸、統独問題というか、アイデ ンティティ問題というか、緑vs藍というか、そこから距離を置いて議論してもらいたいと思います。現在は切迫した状況の中で、そのような議論は控えようと する雰囲気がありますが、それでもテレビを観ていると常時、主軸の引力が働いていることを感じます。

 さて、話題の馬偕医院の周医師をめ ぐる動きについても少し触れておきましょう。その後の台湾での反応ですが、羅福全代表が交流協会に謝りに行ったことは「統派」の人たちをちょっと刺激した ようです。19日の「全民乱講」の話題はこれでした。もちろん、パロディと言えばパロディなのですが、「藍」側の出演者の発言は「統派」の気持ちを反映し ているように思いました。
 ただわからなかったのは、出演していた「統派」の立場丸出しの本物の「媒体記者」の発言です。NHKのニュースを見た 限り、羅代表は交流協会で「衷心より遺憾」と言ったと思います。それがこちらでは「道歉」したと報道されています。それに対して件の記者は、日本は日中戦 争について「遺憾」とは言ったが、「道歉」はしていない、何故、一個人が起こした問題で政府は「道歉」までする必要があるのかと述べていました。日中戦争 と絡めるセンスもどうかと思いますが、ともかくわたしには事実関係の理解が捻じ曲がっているように見えます。それともわたしの理解の何処かに誤解があるの でしょうか?
 それから、日本側の対応についてですが、この際、台湾を含む重度の感染地区からの来日した人には十日間の隔離は義務付けるべきなの ではないでしょうか?まず、上に述べましたように、台湾側の政府はもういっぱいいっぱいで、これ以上、多くを期待できません。ここの人たちの自制は残念な がら完璧とはいきません。どうしても感染を知らずに、あるいはその可能性に薄々気づいていても渡航してしまう人が今後も完全にいなくなることはないでしょ う。それに今回は感染者がたまたま医師だったので、彼の個人的な責任に議論が集中していますが、ごく一般の人であった可能性もあるわけです。とすれば、日 本国政府が対応するしかないように思います。観光業等への配慮があったのかもしれませんが、今回で明らかなように、いったん感染者が立ち寄ったことが判明 すればその影響は甚大です。この学会もそうですが、そもそも台湾からの来訪が困難なため公式、準公式の計画が次々と中止、延期、変更になっているのに、観 光客が以前と大して変わりなく来ているというのはどこか変です。同僚の話では、少なくとも先週までの朝の京葉線はディズニーランドに行く台湾人観光客であ ふれていたそうです。もちろん隔離を義務付ける際には、隔離を受け入れやすくするような「配套措施」が欠かせません。わたしも帰国後は自宅待機になるはず ですが、狭い家の中で既に老人である両親との間をどう隔てたらいいのか、今から悩んでいます。
 いっそどこかに隔離者用のリゾートでもつくれはい いのではないかと思います。チャーター便と専用バスで移動、「交叉感染」を避けるため、移動中は防護服を着用、部屋はコッテージ・タイプの個室で、敷地内 での相互の接触を避けるようにスケジュールを組むというのはどうでしょうか。楽しみは限られるので、食事には特に重点を置きたいところです。そうそうウィ ルスはエタノールに弱いそうですから、風呂は酒風呂ですね。

 最後にSARSに関する統計の謎を2つ。まず、死亡率ですが、台湾だけでな く日本などの報道を見ても、当初は5%と言われていたと思います。その後、きちんと推計しなおした結果、15%程度まで上方に修正されています。不思議な のは当初の5%は明らかに過小評価だったのに、そのことがあまり強調されていなかったことです。当初の死亡率は単純に亡くなった方の数を感染者数で割って 算出したものだと思います。しかしこれですと、分母の感染者は、(a)既に亡くなられた方(b)治癒された方(c)その後、亡くなられた方(d)その後、 治癒された方の合計ですが、分子には(c)が含まれていない分、過小になります。実際にどのくらいになるかは、サンプル数が集まるまで推計が難しかったと 思いますが、5%が過小であることは明らかだったのですから、そのことを付言しておいた方がよかったのではないでしょうか。そうすれば、人々の警戒心も もっと強まったと思います。
 もう一つは台湾の死亡率です。上のようなわけで、単純に計算した死亡率ははじめ低めになるはずですが、台湾はかなり 早い段階から10%台に乗っているような気がします。いろいろと原因を憶測はできるのですが、どなたかちゃんとした理由をご存知の方はいらっしゃいますで しょうか?

 今回は少し踏み込んでしまいました。そういうわけで今回は改めて、ここでの見解はわたし個人のものであり、日本台湾学会も、アジア経済研究所も、中央研究院社会学研究所も代表していないことをおことわりしておきます。もちろん、今回以外も全てわたし個人の見解です。




第22回 SARSその後(2003年6月5日)

 SARSの話題も急速に過去のものになりつつあります。新聞やテレビでの報道も、一時と比べるとめっきり減りました。このまま完全な収束に向かうことを切に願っています。
 この間、SARSとの戦いとよく言われてきました。戦争の体験はもちろんありませんが、やはりこれは戦争のようなものなんだと思いました。南部での感染拡大の抑え込みに何とか成功し、死亡者や感染者の数が減り始めるのを、心躍る思いで見ていたのですが、よく考えてみるとその過程でも亡くなられている方はいたわけです。亡くなられる方やその周囲の方にとっては、全体の状況がどうなろうが、おそらく悲しみや悔しさは変わらないでしょう。そういうミクロとマクロのズレが起こるのはまさに戦争なのだと思いました。

 ここにきて安心感が広がっているのは、感染が止まったということともに、対応の仕組みが明確になったということがあります。発熱後、すぐには感染しないことがわかってきたので、体温を目安として、段階的にSARSかどうかを絞り込んでいく仕組みが出来上がりました。体温さえまめにチェックしておけば自分の管理はできますし、また他の人もそのようにしていると考えればむやみに感染を恐れる必要もなくなりました。政府の広報活動がかなり進歩したことも貢献しています。
 それで「蘇真昌」(蘇貞昌ではありません)ではありませんが、一つ思いついたことがあります。有効な治療法が見つかるまでは、当面、SARSとは共存していかなくてはなりません。それは台湾ばかりでなく、日本も、世界の他の国も同様です。上に書きましたように、SARSのコントロールで最も重要なことは検温です。それで体温を手軽に測るため、体温計つき携帯電話を開発したらどうかと思うのです。これとカメラを組み合わせれば「居家隔離」の管理にも使えるかもとも考えましたが、怖くなって途中でやめました。でも、どっちにしろ、解熱剤を飲んでしまったらチェック不能ですが。

 以下、SARSにまつわる話をいくつか。まず戦争という意味では、マスクはまさに弾薬であったわけです。前回、ご紹介した正統的な経済学者の主張とそれに対する批判との間の論争はその後も続きました。経済学者の議論としては5月23日の『中国時報』の「時論広場」に台湾大学の呉聡敏教授が寄稿しています(「別再耗費力気在口罩上了」)。前回、紹介した張教授よりは具体的な事実が盛り込まれていますが、結論は変わりません。政府の介入は不要であるとしています。一方、中央研究院社会学研究所の鄭陸霖が、今回、政府の介入が有効であったという文章を書いています(「口罩問題之二:被顛倒的市場歴史」)。『数位時代双週刊』に掲載されたものですが、彼のウェブサイトでも見ることができます(http://140.109.196.10/cll/)。二人とも知り合いなので、並べて比較するのは心苦しいのですが、やはり鄭陸霖の方が説得力があると思います。彼の提示している事実の方が具体的です。また、知り合いからの情報によってチェックもしてあります。
 呉教授の問題点は、第一に前回の張教授同様、SARSとの戦いにおいてマスクの不足は許されないということが念頭にないことです。第二に、市場に対する絶対的な信頼と、政府に対する徹底した不信です。これは1980年代から90年代にかけての構造調整をめぐる議論と通じるところがあります。経済学者は往々にして理念上の万能な市場と現実の政府、さらには理念の中にあるまったく無能な政府を比べる傾向があります。しかし、現実の市場は、需給バランスが短期間で大幅に狂えば、買いだめ・売り惜しみという投機行為が発生します。一方、現実の政府は、確かに今回も不手際、怠慢、不正があったかもしれませんが、完全に役立たずというわけではありません。ですから、実際的な対応は現実の市場と現実の政府を比べて、どちらが当面の必要をより効率的に充たすか検討することです。こう書いてしまうと至極当たり前のことのようですが、経済学者は今回も逸脱したようです。

 前回、馬偕医院の周医師の一件をめぐって、「統派」の人を「ちょっと」刺激したようだと書きましたが、「ちょっと」ではなかったようです。特に買春質問など病院の記者会見における日本人記者の態度に対しては、各所でかなり強い反発があったようです。
 確かに記者会見での日本人記者の態度は反省する点があるように思います。また、もしWHAなどに関する外交上の思惑がなければ、台湾政府が日本に対して遺憾の意を述べる必要はなかったかもしれません。しかし、反発はそのような具体的な問題を通り越し、かなり感情的なものになっています。例えば、5月22日の『中国時報』に台湾大学国家発展研究所の学生の黄之棟という人が「従台湾看日本SARS」という一文を寄せています。読んだ時、あまりに腹立たしく、また情けなく思い、鄭陸霖にメールを送りました。それをもとに彼が書いた文章がやはり彼のウェブサイトに載っています(5月23日の日記)。『中国時報』に彼の名前で投稿しましたが、残念ながら紙幅の関係から同じ議論を続けることはできないということでボツになりました。
 5月19日の『蘋果日報』の陳文茜の文章も唖然とさせられます(「日本閉嘴」)。ところで、この文章のなかでは日本脳炎は日本からアジアに伝染したとされていますが、確かわたしの記憶では「日本脳炎」という名前はウィルスが日本で特定されたから付けられた病名で、病気自体は元々アジア全般にあったはずです。もし間違っていたら、修正してください。
 ここでの意図は罵り合いをさらにエスカレートさせることではありません。この経緯から何を学べるかです。わたしが困ったなと思うのは、日本に対する理解が偏見に凝り固まっていることと、議論が事実を踏まえていなかったり、論理的な手続きに従っていかったりすることです。日本、日本人の批判はけっこうなのですが、これでは建設的な議論になりません。しかも鄭陸霖によると、このような傾向を持つ議論が学界の中では広がる傾向が見られるということですから、知らぬ顔ばかりもできません。偏見の持ち主との相互理解は難しいとしても、せめて「感染」の拡大は食い止めたいところです。具体的に何ができるのか、まだ模索中ですが、大雑把な方向としてはより幅広く日本と日本人を知ってもらうことでしょう。特に「日本人は云々」という偏見を抑えるには、いろんな日本人がいること、日本人も時代によって変わることを知ってもらうことが大切だと思います。その裏返しとして、例えば今回の一件に関しては、周医師=台湾人の「馬馬虎虎」のような見方には慎重でありたいと思います。周医師の行為に対しては批判的な台湾人もたくさんいるのですから。

 SARSに絡んで、もう一つ情けなく思ったのは、陳水扁の娘婿と息子に対する報道です。さすがに最近はほとんどなくなりましたが、一時はひどいものでした。結局、規則違反はなかったようです。要するにまたメディアがきちんと根拠がないまま報道し、それをもとに野党の国会議員が騒ぎ、それをまたメディアが流すという、これまで何度も見たスパイラルが再演されたようです。観る方のかなりの部分はいいかげんにもううんざりしていると思うのですが、なかなか歯止めがかかりません。
 この辺りの仕組みを、前回の三つのシステムを使って考えてみたいと思います。まず、国家は禁じ手です。まさに葉国興新聞局長が批判されたように、政府がメディアに対して何らかのコントロールを行使しようとするのは、民主主義の下では通らないでしょう。一方、第三の仕組みはどうでしょうか。この場合、期待されるのはメディアの自己規律ですが、どうも今回もメディアは特に反省していないようです。「全民乱講」に出ていた本物の「媒体記者」が、民衆の思っていることを反映しているんだというような趣旨のことを発言していました。すかさず林重mo(「食」に「莫」。林重謨ではありません)に何を言ってるんだと突っ込まれていました。
 実は密かに期待しているが市場です。これまでの市場はそういう面であまり効果がありませんでした。多くの人は信頼のおける情報よりも面白い情報を買っていたのだと思います。でも、先月、『蘋果日報』が創刊されました。この際、「八掛」路線は『蘋果日報』に徹底してやってもらい、他紙は差別化のため、「八掛」はあきらめ、信頼性の高い記事を売り物にするようになってくれればいいなあと思っています。でも、この話をすると、皆、他の新聞も『蘋果日報』に追随して「八掛」強化に走っているんではないかと言います。そうなると全ての新聞の信頼性が落ちるという最悪の結果になるわけですが、もう少し様子をみましょう。




第23回 インタヴュー奮闘記(2003年6月29日)

 台湾での残り時間も僅かです。今日で派遣の任期は終わり、明日からサッカーのロス・タイムのような時間が13日間あります。何とかもう一回書いて、強引ですが24回で「台北便り」を終えたいと思っています。そうすると、平均して月に一回、書いていたことになりますので。

 枕として最近のテレビや新聞から拾ってきた話を2つ。10日ほど前でしょうか、公視で和平医院の騒動に関する特番がありました。なかなかよかったと思います。できればビデオかDVDを買って帰り、上映会でもしたいと思います。涂醒哲と邱淑媞の態度はかなり対照的です。

 この2年間、近所の改修工事の騒音と振動に悩まされ続けましたが、6月11日の『中国時報』によると、騒音に関する民事訴訟で最高裁は被告に賠償を命じる判決を出したとのことです。音に対する許容度はお国によってそれぞれでしょうが、台湾の場合、あちらが出しているからこちらも出してもかまわないだろうという感じになっている気がしますので、これを機に人々が静かさの価値を認め、お互いに騒音の発生を抑えるようになっていくといいと思います。

 さて、台湾での滞在を終えるに当たって、お仕事の話を書いておきましょう。第17回でインタヴューの難しさを愚痴りましたが、その後、実際にどうなったか、他山の石としてご参考になるかもしれませんので、わたしなりの悪戦苦闘をご紹介しておきたいと思います。
 話をまず昨年の秋頃まで戻したいと思います。インタヴューを行うには、その計画を立てなくてはなりません。どのような範囲の人たちに会うのかという母集団を確定するのが第一の作業です。今から考えると、昨年の秋まではこの基本的なところが不十分でした。1970年代の工業技術研究院電子工業研究所の半導体プロジェクトに関わった人たちという、漠然とした設定はあったのですが、それはどのような人たちによって構成されるのか、明確になっていませんでした。
 転機は助理の一人がもたらしてくれました。彼女が工研院から、半導体プロジェクトに参加し、アメリカのRCA社に研修に行った人たちのリストを手に入れてきたのです。このリストはまさに値千金で、どういう人を訪ねればいいのか、イメージが一気にクリアになりました。
 それとともに、同じ頃、『竹湖風雲録』という本を見つけて読んだことで、イメージはさらに厚みを増しました。この本については最近の『アジア研究』の新刊紹介欄で書いていますので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、一言で言うと、この本には交通大学を卒業して主としてハイテク産業で活躍している人たち30人へのインタヴューの記録が収録されています。上記のリストと重なる人が6人もいます。実はそれまでプロジェクト参加者に対するイメージは、2000年に行った史欽泰工研院院長へのインタヴュー及び電子所の設立20周年に刊行された『也有風雨,也有晴』の記述によっていたのですが、この本を読んで、プロジェクトに参加した動機は必ずしも一様ではないということがわかってきました。台湾の中からプロジェクトに参加した人たちの動機は、どうもアメリカから戻ってプロジェクトに加わった史院長と違っていたようなのです。これがその後に行うインタヴューの一つの焦点になりました。
 さらにもう一つ、改めてインターネットはありがたいものだと思いました。胡定華氏や曽興誠氏のような有名人は調べるまでもないのですが、他の人たちのかなり部分については、インターネットによって現在の所在を知ることができました。もしインターネットがなかったらお手上げだったでしょう。
 次の段階はいかに彼らにアクセスするかです。当初、3つのルートを試してみました。そのうち日系の金融機関ルートと台湾の経済関係研究機関ルートはまったく役に立ちませんでした。第3のルートは日系の半導体関連企業ルートです。このルートはかなり個人的なものです。元同僚のお兄さんがある半導体関連企業に勤めていて、たまたま台湾の子会社に駐在していました。それで彼にこの子会社の台湾人の副総経理を紹介していただき、さらにこの人からリスト中の一人の人物を紹介してもらうことになりました。結局、旧正月明けにこの人物を訪ねました。
 実はこのルートもそうすんなりと進んだわけではありません。副総経理にお会いしたのは昨年の暮れでしたが、その後、なかなか連絡がありませんでした。そこで件の人物が総経理を務める会社は別の日本の半導体関連会社と密接な関係を持っていることがわかりましたので、旧正月に一時帰国した時にその会社を訪ね、紹介をお願いしました。結局、その後に副総経理からも連絡が入り、こちらのルートは実際には使いませんでした。
 この人物にインタヴューした時、最後にリスト中の人物を紹介してほしいとお願いしました。いわゆる雪だるま方式ですね。彼は一人、別の半導体関連会社の総経理を紹介してくれました。その人からさらに二人、また紹介していただきました。でも、雪だるまはここまで。その後、このやり方はあまりうまくいきませんでした。やはり「紹介」というのは気が重くなるようです。見方を変えれば、はじめの二人が紹介に応じてくれたのはかなりラッキーだったのかもしれません。
 ラッキーという意味では、はじめに会った人物が工研院に入る前に萬邦電子に務めていたことは、その後のインタヴューの方向付けに影響を与えました。萬邦電子は1970年代初めに設立された台湾資本の会社で、当初、トランジスタの生産にチャレンジしました。地場の企業が当時のハイテクに挑むということで期待されましたが、結果は散々だったようです(1980年代に華新グループに買収され、華新科技に改名)。ただ、そこから彼を含む4から5人の技術者が工研院のプロジェクトに参加しています。この会社の存在は一部の既存研究で触れられていましたが、インタヴューの準備として彼の経歴を調べる中で、台湾の半導体産業の歴史を考える上でかなり重要なのではないかという直感を得て、その後のインタヴューの重点の一つとするようになりました。
 これと並行して第4のルート、工研院ルートを進めることにしました。旧正月に一時帰国した時に、工研院の東京事務所にいる前回の滞在以来の古い友人を訪ね、紹介をお願いすることにしました。実はこの方には1999年と2000年の調査の時にも(以前に書きましたように1999年9月の調査は地震によって中断されたため、2000年1月に改めて調査に行きました)、たいへんお世話になったので、また負担をかけるのは避けたかったのですが、1月末の頃にはもはや躊躇している余裕はありませんでした。特に胡定華氏は1970年代の第一次プロジェクトの核心ですから、是が非でも会わないわけにはいきません。どうもこのルートを使う以外に他に手段はないと判断しました。実際には胡定華氏には4月にお会いすることができました。また、この友人のおかげで、2月にはリスト中の人物で工研院に今もいる人に一人と、工研院の歴史に詳しいOB(リスト中の人物ではありません)を訪ねることができました。4月には萬邦電子の総経理を務めた人物にもお会いしました。
 3月には第14回で取り上げた半導体設計会社のルートを使いました。インターネットで調べた結果、リスト中の人物の一人がこの会社の関連会社の総経理をしていることがわかったので、董事長にお願いして紹介してもらいました。この時のインタヴューの成果は、彼が工研院の前に交通部の電信研究所に務めていたという事実です。彼によれば、工研院よりも先に電信研究所で半導体の開発をしようという計画があったそうです。結局、その後の工研院と比肩しうるような成果は何もなかったようで、そのせいか、これまでの研究では電信研究所にいてほとんど触れられていません。ただ、やはり4人、電信研究所から工研院電子所に移っています。
 ここであらかじめ持っていた「線索」は一通り使い果たしました(3月の時点では連絡待ちとなっていた胡定華氏らを含めて)。さて、どうしたものか。考えたのは中央研究院のご威光を使うことです。中研院の名前がそれなりに効果を持ちそうなところに、社会学研究所の秘書の李素娟さんから連絡していただくことにしました。李さん、本当に感謝しています。
 このルートではリスト中の人物2人のほか、張俊彦交通大学校長と邱再興鳳甲美術館董事長にアクセスしました(後から気がついたのですが、張校長はそもそも院士です)。張校長は1960年代から交通大学で半導体の研究を行い、リスト中の人物の多くが教えを受けています。そして、萬邦電子の設立には技術面の顧問として深く関わりました。邱董事長は1960年代末に環宇電子を設立した人物です。この会社はエイサーの施振栄氏がはじめて勤めた会社で、彼の伝記などにはよく出てくるのですが、どういう会社なのか、ずっと謎でした。上記の『竹湖風雲録』では邱董事長も取り上げられており、彼が創業者だとわかり、訪ねてみることにしました。半導体の調査との絡みで言えば、リスト中には環宇電子に務めていた人物がいます。またそれと関連して、この時点では関心が萬邦電子だけではなく1970年前後に設立された台湾資本のエレクトロニクス・メーカーの一群に拡がっていました。ちなみに鳳甲美術館は捷運淡水線奇岩駅から歩いて4から5分ほどのところにあります。こじんまりとしています。目玉は刺繍です。ただし、刺繍のコーナーは要予約とのことです(サイトのURLはhttp://www.hong-gah.org.tw/)。北投や淡水に行った時についでに寄ってみてはいかがでしょうか。
 これとは別に、3月には同僚が日本からやってきて、その知り合いが経理をしている米系の半導体関連会社に行きました。1970年代のプロジェクトとは関係のない話でしたが、1990年代のこともおいおいやらなくてはいけないので役に立ちました。また、4月の初めに友人の紹介であるLCDの会社に行きました。経理の方から説明していただいたこの会社自体の発展過程もなかなか面白かったのですが、この会社の董事長が例のリスト中の人物ですので、何とか会えないだろうかという下心がありました。しかし、今のところ、実現していません。
 4月の中頃になると、いよいよ「当たって砕けろ、直接、アポイント申し込み大作戦」に入ります。SARSの広がりもあって、5月あたりにはくじけかけていたのですが、結果としてはあまり関係ありませんでした。むしろSARSのおかげで時間に余裕のあった人もいたのかもしれません。
 はじめ自分で直接、先方の秘書に連絡していましたが(だいたいターゲットの人物は董事長か総経理ですので)、後からやはりまず社会学研究所の李さんに連絡してもらい、e-mailのアドレスかファックス番号を聞き出し、それから依頼の文書を送ることにしました。その方が先方に尊重してもらえそうだと思ったことに加え、わたしではe-mailのアドレスを聴き間違えるおそれがあったからです。予想通り、この方式では何らかの「線索」があるケースと比べ、面会を受け入れていただける確率はがくっと減りました。リスト中の人物に限ると7勝5敗です(それ以外を含めるとおそらく7勝7敗)。何だかんだ言って5割を超えていますから、まずまずといったところでしょう。訪問に成功した人物の中には、台積電の曽繁城副総執行長のようにかなり難しそうな人物も入っています。
 アメリカでの研修チームのリーダーを務めた楊丁元氏には(胡定華氏は台湾に残留して総指揮をとりました)、望外に手に入れた「管道」を使って5月にアクセスすることができました。ある日、MITの博士候補から会いたいという連絡が入りました。会ってみるとなかなか優秀で、台湾のエレクトロニクス・メーカーにもかなり入り込んでいました。特に楊丁元氏とは親しいというので、これは渡りに船と紹介してもらうことにしました。代わりにわたしの方が太いパイプを持っている研究機関を紹介したり、既にあった人物の連絡先を教えたりしました。ちょっと不等価交換だったかもしれませんが。
 結局、旧正月明けから今日まで、リスト上の44人のうち19人にお会いしました(2000年にお会いした史欽泰氏らを含めて)。第17回を書いていた頃の先行きに対する不安に満ちた状態と照らし合わせれば、お会いできた人の数は結果として予想をかなり上回りました。教訓の一つは犬が歩いても棒に当たるとはかぎりませんが、歩かなければけして棒には当たらないということでしょう。
 実際に会うことできた人の数が予想以上だった理由は、当初の見込みが悲観的過ぎたということのほかに、質問が具体的だったことが効果的だったからではないかと思っています。わたしの質問は本人でなければ答えられないものばかりでしたから。「何故、外資系の会社に入らなかったのですか?」とか、「何故、工研院のプロジェクトに参加したのですか?」とか、「工研院での経験はその後、どのように役に立ちましたか?」とか。また、その後の展開は人それぞれですが、おおむね第一線での活動の締めくくりの段階に入っていたり、あるいは既に第一線から退いたりするなか、あの頃のことを話したいという気持ちを強く持つ人も少なくなかったようです。いつもいつもこのような形の質問を用意できるとは限らないのですが、この経験を今後のアポ取りに活かしていきたいと思います。

 ところでついでに書きそびれていた話をおまけとして一つ、二つ。このように半導体関連の人とメールのやりとりをしていると、先方からは英文の文章が送られてくることが少なくありません。こちらから初めに送る文章は中文で書いているにもかかわらずです。また、研究者同士のメールのやりとり、それも台湾人同士でも英文のことがかなり多いようです。一つには欧米で暮らした方が多いということを反映しているのでしょうが、やはり妙な気がします。わたしとしては台湾の人におかしな中文を指摘されるのはかまわないのですが、下手な英文をネイティヴではない台湾の人に笑われるのはちょっと気分がよくないので、なるべくならば中文にしたいのですが。

 英文のメールが目立つのは中文の文書処理ソフトが使いにくいせいかもしれません。今、おそらくほとんど全ての日本人は直接、パソコンに文章を打ち込んでいると思いますが、台湾の人は依然として清書のための機械として考えている人がいるようです。それは中文の文書処理ソフトが考えながら打つのに向いていないからだと思います。かつては字の形で入力する方法が主流でした。これでは考えながら打つのは不可能です。最近は音で入力する方法の方が多くなっているようですが、その場合も声調を入れなければならないことが多いので、なかなかストレートに頭の中で考えたことをパソコン上に打てません。
 中央研究院のパソコンでは「自然輸入法」という入力ソフトを使っています。これも一字ごとに声調を打ち込む必要があります。このソフト、ちょっと面白いのは、例えば「政治」と打ちたい場合、はじめに「zheng4」と入れた場合、まず画面には「正」が出てくるかもしれませんが(今、家で打っているので、この例が実際にどうかは未確認です)、ここで修正する必要はありません。次に「zhi4」と入力すると、辞書に従って自動的に「政治」と直してくれます。ともかく、このソフトもやはり声調を打ち込む必要があります。けっこう声調の記憶が間違っていたりするので、その矯正には役に立つのですが、考えながら打つのには不便です。
 ちなみに家のパソコンで中文を打つときは「Chinese Writer version 4」を使っています。これは必ずしも声調を入力する必要がないので、考えながら打つ時は便利ですが、繁体字の辞書はかなりひどいですね。どう考えても台湾の人が作ったとは思えません。例えば「於」を使うべきところが、すべて「于」になっていたり。日本にいた時、イライラしてソフト会社に抗議の電話をかけましたが、相手にしてもらえませんでした。

 最後に、前回について補足したいことがあります。陳文茜の文章の中に気になる一説がありました。「わたしは哈日族だけど・・・」と彼女は書いています。「哈日族」とは大雑把に言えば、テレビ番組や歌謡曲など日本の大衆文化の愛好者ということでしょう。歴史の「包袱」を背負う日本にとって、大衆文化を通してアジアの人たちと草の根の交流を拡大し、深めることにはかなり大きな期待があると思います。わたしもそうです。でも、陳文茜のあの文章を読むと、あまり過大な期待を持ってはいけないのだと思いました。彼女がどのような「哈日族」かは知りませんが、通常の理解通りだとすると、大衆文化を通して日本に対するステレオタイプを是正することはかなり難しいようです。考えてみると、多少、ハリウッド映画を観ても、必ずしもアメリカに対する理解が深まるわけではないのですから。
 もちろん、まったく希望を捨てる必要もまたないでしょう。6月27日の『中国時報』に「哈日族」という言葉を作った陳桂杏さんのことが紹介されています。そこでは、「彼女にとっての「哈日」は単なる間の抜けた消費ではなく、日本という国の長所が何処にあるかを知ることだ」とか、「その若さにもかかわらず、台湾と日本との間を30回以上も往復した。そこで彼女は日本にも「哈台族」がいることを発見した」とか書かれています。少しこそばゆくなるところもあるのですが、こういう話を読んでちょっとうれしくなりました。




第24回 最終回です。ご愛読ありがとうございました(2003年7月1日)

 とうとう最終回です。できれば6月中に書き終えたかったのですが、ちょっとオーバーしてしまいました。後継の方がひかえているので、さっさと締めたいと思います。

 最終回ということで、2年間を振り返りたいと思います。この学会との関係では、まず定例研究会でしょう。2001年の8月に始まり、2003年の4月まで16回、開催しました。数を重なればいいというものではありませんが、3ヵ月に2回程度のペースですから、今から思うとよくやったもんだと思います。出席者数もほぼ毎回、二桁に乗り、多い時は30人に達しました。これまた多ければいいというものではありませんが、一定以上の出席者かいることでそれなりに活気を維持できたのはよかったと思っています。
 出席者のなかではこちらにいる日本人留学生が目立ちます。何か得るものはあったでしょうか?静かな人が多いのですが、みなさん、もっと積極的に発言しましょう。的外れの質問をして、諸先輩から批判を受けるかもしれませんが、それも勉強です。
 議論の質の面では、昨年の秋に中核メンバーで改善策を練りました。目玉はコメンテーターを付けることと、中国語による報告を積極化したことです(後者はそれ以前も特に排除していたわけではないのですが)。実際には三澤真美恵さんが報告した第12回から、この方針に基づいて運営されるようになりました。以降、報告や議論の質はかなり向上したのではないかと思います。ただ、中国語の報告を視野に入れたことで、報告者やコメンテーターの選択肢は大きく広がりましたが、その分、会員による報告は減り気味です。ここら辺りは今後の課題でしょう。
 もちろん、第2回の「台北便り」に書いたような、台北で台湾研究の議論を行うことの難しさは常に孕んでいます。2年間たっても当初の疑問に対する明確な答が得られたわけではありません。おそらくそれを問い続けることが地域研究なのかもしれません。
 他の課題としては、人類学や文学との連携がとれずにいることもずっと懸案になっています。無理にくっつくこともないのですが、将来、何か共通の話題が見つかることを祈っています。
 それから、日本にいる研究者との交流の場としての意味合いがやや低下気味です。これを読んでいる日本の会員のみなさん、もっと台北の定例研究会を使ってください。たとえば、ちょっと考えている話があるので、台北で報告し、コメントをもらいたいとか。或いは、台湾のだれそれと議論をしたいので、台北に行った時に報告者かコメンテーターとして定例研究会に呼んで欲しいとか。もしご要望があれば、台北のメンバーか、わたしにご連絡下さい。わたしは帰国後も日本と台北の定例研究会のつなぎ役をしますので。
 最後にこれまで一緒に運営にたずさわってきた陳培豊さん、何義麟さん、許佩賢さん、富田哲さん、山崎直也さん、永吉美幸さん、お疲れ様でした。どうもありがとうございました。引き続き運営に関わる方は、またこれからも頑張ってください。新しく世話役に加わることになった岸川毅さん、佐藤将之さん、劉慶瑞さん、どうぞよろしくお願いします。

 この2年間、こちらでは「中央研究院社会学研究所訪問学人」という肩書きで過ごしました。中研院社会所を受け入れ先に選んだことは正解だったと思います。何のプレッシャーもなく、とても居心地がよかったです。その分、中だるみも生じたのですが、今はそれも必要な時間だったと考えています。また、社会学という曖昧さを許容してくれる環境にいたこともよかったと思います。今、わたしがしている研究は、一体、何学に属するのか、本当に不明瞭になっていますから。たぶん、かっちりしたディシプリンを持つ経済学関係の機関にいたら、かなり窮屈な思いをすることになったでしょう。
 社会所を選んだのは、詰まるところ鄭陸霖がいたからです。彼については「台北便り」でしばしば触れてきました。必ずしも名前を出していないこともありますが。彼も社会学の中ではどちらかと言うと周辺寄りにいるので話が合いました。あまり社会学にどっぷりつかってしまうと、経済合理的な行動や効率の重要性が疎かになってしまいますし、一方、経済学は合理性と効率性の一本槍で議論の膨らみに欠けてしまいます。でも、中間の曖昧な立場というのはそれぞれの学問の中心から見れば周縁部で、常に少数派になってしまうようです。だから、鄭陸霖と議論することは、かたや経済の都から辺境地帯に向かって歩いてきたら、隣の都から歩いてきた旅人に国境辺りでばったり出会ったような驚きと楽しさがあります。
 他に社会所の中で接触が多かったのは柯志明、喩維欣、范雲の3人でしょうか。柯さんとは1992年のシンポジウム以来のお付き合いです。1993年には既に台湾中小企業研究の古典とも言える五分埔の研究を発表され、その前後に2回ほど現場を案内していただいたことがあります。その後、わたしにとってはたいへん残念なことに清朝時代に研究テーマを移されてしまいましたので、柯さんとの間で、直接、研究テーマが交わることはなくなってしまいました。しかし、わたしの研究対象は戦後とは言え、かなりの部分、歴史としてアプローチしているので、歴史に対する見方などで議論することが時々ありました。社会所で報告したときはその辺をはしょってしまったのですが、報告の後で議論して経路依存性や偶発性など多くの見方が重なることが確認できました。
 それから、この2年間、たまたま続けて柯さんの2冊の大著が出版されました。それぞれについて日本での書評をアレンジできたことは、ちょっと日台間の学術交流に貢献できたかなと思っています。
 喩さんの研究テーマは女性の労働で、わたしとはかなり離れているのですが、日本のデータを使って研究しているので、何かと話す機会がありました。彼女は日本語もできます。鄭陸霖も一生懸命、勉強していますが、たぶん、まだ社会所の中では彼女がいちばん日本語ができると思います。テーマの近い人はアクセスしてみてください。お酒もなかなかいけるようです。
 范さんは、多くの方がご存知でしょうが、1990年3月の学生運動のリーダーの一人です。わたしもあの時、台湾大学に留学中で、毎日のように中正紀念堂に出かけていました。何しろ当時は時の人で、遠くから見ていただけでした。それが目の前にいて、一緒にテニスを習っていたりするのはとても不思議でした。ミネソタ大学のブロードベント教授が来たときに、鄭陸霖も入れて4人で食事をし、彼女の当時の話を聴く機会がありました。その話を「台北便り」でも紹介しようと思っていたのですが、結局、酔っ払って大部分を忘れてしまいました(それに確か英語でしたし)。印象に残っているのは、学生運動をやっていることで学校側からいろいろと嫌がらせを受けたこと、卒業を間近にひかえて何かやろうと思っていたところに例の国民代表の問題が起こって、これは丁度いいとあの時の座り込みを始めたことなどです。ブロードベント教授は録音していたはずなので、いずれどこかに記録を発表するかもしれません。
 ある意味で研究者たち以上に行政部門の人たちとは接触が多く、お世話になりました。事務的なことはそもそもあまり多くはありませんでしたが、それにしても嫌な思いをした記憶がほとんどありません。よく考えるとこれはとてもありがたいことでした。やはり行政部門の人たちが親切だったからでしょう。また、組織の規模も手ごろなのかもしれません。社会所はアジ研では一つの部程度の大きさですから。やはり大きくなると規模の非効率があるのでしょう。
 そして忘れてならないのは助理たちです。既に一回、「台北便り」で書きましたが、こうして顧みると彼/彼女たちとの交流はこの2年間のとても重要な部分だったと思います。彼/彼女たちはわたしの指示に従って手伝いをすると同時に、質問やコメントをくれたり、時には前回、紹介しましたように、役に立ちそうなデータを進んで探してきてくれました。この適度に独立した関係がとても心地よかったです。日本でもこのようなやり方をできればコピーしたいと思っています。

 帰国が近づくにしたがって、帰りたくない気持ちがどんどん強くなっています。こうして2年間を振り返ると、もうすぐ離れなければいけない寂しさがいっそう増します。でも、ホームベースは移るけれども、台湾との関係はこれからも続くと自分を慰めています。
 ここではとても紹介しきれませんが、多くの方に本当にお世話になりました。どうもありがとうございました。また、「台北便り」をお読みいただきましたみなさまにも感謝申し上げます。おそらくこれまでのどの論文よりも反響があったのではないかと思います。ネットの力ですね。実ははじめ書くのがかなりきつかったのです。というのは、2回目の滞在ですので、どうしても十年前の時のように日々、新鮮に驚いたり、面白がったりすることがなくなっていましたから。歳もとりましたし。でも、思わぬ方からも読んでいるよという話があり、それを励みに兎にも角にも24回、書き終えることができました。
 今後は上智大学の岸川先生が後を引き継いで下さることになっています。わたしとはまた違った台湾を発見してくださることでしょう。これからは読者の一人として期待しおります。